氷老人

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氷 老人(ひ の おきな)あるいは氷 老(ひ の おゆ)は、飛鳥時代豪族

出自[編集]

氷氏は、氷室の氷を司どる伴造の氏族で、氷連(宿禰)氏は『新撰姓氏録』「左京神別」によると、石上朝臣氏は「神饒速日命之後也とある。また、氷連氏の中には、「河内国神別」で、饒速日命の11世の孫、「伊己灯宿禰之後也」となっているものもいる。『先代旧事本紀』「天孫本紀」によると、ともに物部大前宿禰連が始祖とあり、物部氏系統の氏族であったようである。

経歴[編集]

日本書紀』巻第二十五の記述によると、氷老人は氷真玉(ひ の またま)の子で、孝徳天皇白雉4年(653年吉士長丹(きし の ながに)を大使とする遣唐使の学生として、入唐した[1]。この遣唐使は南島路をとり、大使高田根麻呂(たかた の ねまろ)の指揮した第2船は遭難したが、老人の乗った第1船は無事唐に到着した。『書紀』の引用する伊吉博徳書によると、ほかの11名や韓智興(かんちこう)・趙元宝(ちょうがんほう)とともに、「今年、使人と共に帰れりといふ」とあり[2]、この「今年」をいつと判定するかによって、老人の帰国した年が変わってくる。『書紀』の本文の年代をとって、白雉5年(654年)とするか、(『博徳書』が記されたと推定される)博徳が熊津都督府の県令、司馬法聡らの「送使」の使命を果たして帰国した[3]天智天皇7年(667年)とするかで意見が分かれている。

これらの記事とは別に、白村江の戦いで捕虜になった氷老が、天智天皇の3年(669年[4]人の計る所を朝廷に伝えるため、大伴部博麻(おおともべのはかま)が身売りして工面した費用で、土師富杼(はじ の ほど)・筑紫薩夜麻(つくし の さちやま)・弓削元実児(ゆげ の もとさねこ)とともに帰国したという記事もある[5]。この「老」は、「老人」と同一人物であろうと言われている。

氷連氏は、八色の姓の制定により、天武天皇13年12月(684年)、宿禰を与えられている[6]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』孝徳天皇 白雉4年5月12日条
  2. ^ 『日本書紀』孝徳天皇 白雉5年2月条、『伊吉博徳書』
  3. ^ 『日本書紀』天智天皇7年正月23日条
  4. ^ ここで言う「天智天皇3年」は、天皇が即位して3年目という意味と推測され、称制9年のことである
  5. ^ 『日本書紀』巻第三十、持統天皇4年10月22日条
  6. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月2日条

参考文献[編集]

関連項目[編集]