橋本昌二

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橋本昌二(1954年)

橋本 昌二(はしもと しょうじ、1935年(昭和10年)4月18日 - 2009年(平成21年)12月2日)は、日本囲碁棋士兵庫県明石市出身、関西棋院所属、橋本国三郎七段門下、九段。関西棋院独立当時から若手のエースとして活躍し、「天才昌二」とも言われ、入段から11年で九段に昇段、十段王座などのタイトルを獲得。関西棋院第一位決定戦で12回優勝し、関西棋院名誉第一位の称号を持つ。棋風は深い読みの力戦型、長考派としても有名で、「重戦車」の異名を取った。

1994年から1998年まで関西棋院理事長。その後特別顧問。

経歴・人物[編集]

日本棋院台湾支部長で、自宅に道場を開いていた国三郎を父に、台湾に生まれる。幼時から父に囲碁の手ほどきを受け、棋士を目指して厳しい指導を受けた[1]。1947年に12歳で入段。1953年に18歳で六段に昇段し、第9期本因坊戦予選に参加、その際に日本棋院から関西棋院の新段位を認めないとしたが、鈴木為次郎八段が審査を行って認められた。この予選では元本因坊の岩本薫八段を破るなどの活躍をしたが、鈴木五良五段に敗れて挑戦者決定リーグ入りはならなかった。

以後、橋本宇太郎と並んで関西棋院の闘将として、日本棋院への対抗意識をかき立て続けた。橋本宇太郎が「大橋本」と呼ばれたのに対し、「小橋本」と呼ばれた。1958年、当時としては最速で九段に昇段。1959年に王座戦決勝三番勝負で山部俊郎を2-0で破り、24歳でタイトル初獲得。これは昭和生まれの棋士初のタイトル獲得でもあった。

1961年 朝日新聞の企画で、林海峰六段と大竹英雄四段の新鋭三番碁に続き、藤沢秀行八段と九段橋本との三番碁が企画される[2]

1962年の名人戦リーグでは、7勝5敗でリーグ4位の成績だったが、最終戦で、橋本がそれまでトップを走っていた藤沢秀行八段を破った。他の最終戦の坂田栄男呉清源戦の勝者が藤沢と同率になり、再決戦となるはずだった。だが呉が、坂田戦でジゴ勝ちだったために、再決戦なしに藤沢が第1期名人となるという劇的な結末の演出役となった。

その後、1974年に十段、1981年に2度目の王座を獲得。これ以後、2010年に坂井秀至碁聖を獲得するまで、関西棋院から七大タイトル保持者が出ることはなかった。

門下に高原周二九段、森山直棋九段などがいる。1994年から1998年まで4年間、関西棋院理事長を務めた。

同じ長考派で知られる梶原武雄七段(当時)と対戦した1960年の第8期王座戦では、二日制の対局の1日目に9手しか進まないという、長考合戦が繰り広げられ、この封じ手の時の梶原の「今日の蛤は重い」の一言は有名。対局中、「参った」などとよくぼやくことで「泣きの橋本」とも呼ばれた。愛唱歌は地元大阪を舞台にした「宗右衛門町ブルース[3]

2009年12月2日、心筋梗塞のために逝去[4]。生涯成績は1037勝631敗1ジゴ。

タイトル歴[編集]

その他の棋歴、受賞等[編集]

  • NHK杯準優勝 1968、73年
  • 早碁選手権戦準優勝 1974年
  • 十段戦挑戦者 1979、81年
  • 王座戦準優勝 1967年、挑戦者 1971、82年
  • 棋聖戦全段争覇戦優勝 1979年
  • 鶴聖戦準優勝 1989年
  • 名人戦リーグ10期、本因坊戦リーグ6期
  • 関西棋院賞最優秀棋士5回、利仙賞1回
  • 1960年、『囲碁クラブ』誌主催で、対林海峰六段との記念三番碁が打たれた。

著作[編集]

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  1. ^ 田村竜騎兵編『碁きちに捧げる本』青春出版社 1977年
  2. ^ 田村龍騎兵『碁界うまおもて』(ルック社)P.59
  3. ^ 毎日新聞2010年4月4日東京朝刊。
  4. ^ 橋本昌二氏死去 産経新聞 2009年12月4日閲覧