極楽

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極楽(ごくらく、: sukhāvatīスカーヴァティー: bde ba canデワチェン[注釈 1])とは、阿弥陀仏浄土であり[1]、「スカーヴァティー」とは「幸福のある(ところ)」の意味[1]。須呵摩提、蘇珂嚩帝などと音写され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。『大阿弥陀経』では須摩提[2]、『平等覚経』では須摩提[2]、須阿提[2]と音写されるが、これらはサンスクリット形ではなく俗語形とされる[2]。「極楽浄土」とも言われる。

極楽の様相[編集]

極楽を描いた場面。『報恩経変相図』(唐代)

極楽を詳説するのは「浄土三部経」。中でも極楽の模様は『仏説阿弥陀経』に詳しく説かれているので、この経に依り概要を説明する。

いまをさること十の昔、阿弥陀仏は成道して西方十万億の仏土をすぎた彼方に浄土を構えられた。そして、現在でも、この極楽で人々のために説法している。

この極楽という仏土は広々としていて、辺際のない世界であり、地下や地上や虚空の荘厳は微をきわめ、妙をきわめている。この浄土にある華池や宝楼、宝閣などの建物もまた浄土の宝樹も、みな金銀珠玉をちりばめ、七宝乃至は百千万の宝をもって厳飾されている。しかも、それらは実に清浄であり、光明赫灼と輝いている。衣服や飯食は人々の意のままに得ることができ、寒からず暑からず、気候は調和し、本当に住み心地のよいところである。また、聞こえてくる音声は、常に妙法を説くがごとく、水鳥樹林も仏の妙説と共に法音をのべる。したがって、この浄土には一切の苦はなく、ただのみがある。

ただし、酒や性欲などの欲望的・肉体的な「楽」ではなく、常に説法を聞いて諸仏を供養でき、自らも解脱して人々を救済できるという精神的な「楽」に満ちているということである。

極楽の住人[編集]

この世界では仏の無量寿無量光と同じく、一切の人々もまた無量寿、無量光であり、智慧と慈悲とにきわまりがない。常に法楽をうけ、諸仏を供養し、出でては苦の衆生を救済し、化益することができるのである。しかも、この国土は法性の理に応ずる無為涅槃界であり、一切の衆生を導き救うために仏によって構えられた世界であると説かれている。

阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に立てた四十八願の一つである三十五願「女人往生願」により、女性が極楽浄土に生まれかわると男性となるとされている。ただし天女アプサラス)はいる。『法華経』サンスクリット本の観世音菩薩普門品によると、極楽浄土では性交が行われない代わりに、蓮華の胎に子供が宿って誕生するという。

解釈の違い[編集]

極楽を描いた場面。『薬師浄土変相図』(唐代)

この極楽を、報身仏の国として報土とみるか、応化身の国土として化土とみるかに異論がある。

これを大きくまとめれば、浄土教系の人々は、極楽は報土であるとし、しかもこの報土へ凡夫も往生することができるとする。これに反して聖道門の人々は、この浄土を報土とみる人々は凡夫の往生を認めないし、凡夫も往生できるとする人々は、これを報土と認めないで応化土と説くのである。

たとえば、慧遠の『大乗義章』では浄土を、事の浄土・相の浄土・真の浄土とわけ、『法華経』の安楽世界、『観無量寿経』の弥陀の浄土は劣なる事の浄土として、応土であるとする。また、天台宗では弥陀の浄土は凡聖同居土として劣応身の土とみている。さらにの『法苑義林章』では極楽を他受用報土としている。

浄土門の人々は道綽安楽集 の報土説を根本としている。それは『大乗同性経』の「浄土中成仏悉是報身」という文によっている。

この報土にどうして凡夫の往生が許されるかについては、善導は、凡夫の往生が許されるのは、凡夫も仏願に乗托するからで、仏願に乗托して凡夫の往生が認められるという。

浄土は報土。凡夫の往生は仏願に乗托するから許されるというのが、浄土教の理由である。

この浄土について、古来、「唯心の弥陀、己心の浄土」、「己心の弥陀、唯心の浄土」と説く。すなわち、極楽といい、それが西方十万億の仏土を過ぎて彼方にあるというが、衆生引接のためで、実は己心こそ浄土であり、阿弥陀仏とはいってもただ心に外ならないというのである。

この主張は主に華厳宗や禅宗でいわれる。よりどころは『華厳経』の「心と仏と及び衆生との、是らの三は無差別なり」である。これら無差別のうえに種々の差別の事相があらわれるのは、『維摩経』に「心の浄きにしたがって仏土もまた浄し」とあり、心清浄ならば仏土も清浄心が汚染なれば、国土も汚染 となるのである。さらに、唯識家の人々のごとく、仏身も仏土もすべて、別に外にあるのではなく、自心所変である から、己心を離れて別にあるわけではない。

ところが、浄土門の人々は事相の浄土を立て、心外に仏を見るという立場に立つ。勿論、このように浄土門の人々は極楽を事相の浄土を立てるといっても、それ自身は無相法性の理に即するとする。このような浄土門の立場に、聖道門と異なる宗教性をみるのである。

親鸞の解釈[編集]

親鸞は『唯信砂文意』に「極楽無為涅槃界」を下記のように釈している。

「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。

つまり極楽とは、苦しみのまじらない身心共に楽な世界ということであり、悟りを開く境涯である。

日本文化における極楽[編集]

阿弥陀経』には「其の国の衆生、衆苦有ること無く、但だ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」という。このように語られているところから、日本人は、思いが適えられる結構な世界と考えてきた。平安時代の貴族たちは、さまざまな工夫を凝らして、死後に「極楽」に生まれることを願ってきた。[3]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 訛化して「デチェン」(bde chen、大楽)とも呼ばれる。

出典[編集]

  1. ^ a b 石上善應「極楽」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館。
  2. ^ a b c d 小澤憲珠「極楽」 - 新纂浄土宗大辞典
  3. ^ 極楽 | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学”. www.otani.ac.jp. 大谷大学. 2019年1月12日閲覧。

関連項目[編集]