楠部大吉郎

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くすべ だいきちろう
楠部 大吉郎
プロフィール
生年月日 (1934-12-10) 1934年12月10日
出身地 満洲国の旗 満洲国(出生)
日本の旗 日本群馬県沼田市(出身)
没年月日 (2005-08-27) 2005年8月27日(70歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 群馬県立沼田高等学校
職業 アニメーター
所属 シンエイ動画(創立者・前会長)
活動期間 1957年 - 2005年
ジャンル アニメーション
交流関係 楠部三吉郎(実弟)
楠部工(子)
楠部文(子)
代表作少年忍者 風のフジ丸』(キャラクターデザイン・作画監督)
巨人の星』シリーズ(作画監督)
劇場版ドラえもん』シリーズ(監修)
受賞 第5回東京国際アニメフェア
「第2回特別功労賞」
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楠部 大吉郎(くすべ だいきちろう、1934年12月10日 - 2005年8月27日)は、日本アニメーターシンエイ動画株式会社創立者・前会長。旧・満洲国生まれ、群馬県沼田市出身。シンエイ動画2代目社長の楠部三吉郎は実弟。楠部工楠部文は子。

経歴[編集]

満洲国に生まれる[1]。戦後引き揚げ群馬県沼田市に住む[2]群馬県立沼田高等学校を卒業。彫刻家を志望し、東京芸術大学を3度受験したが合格できず、断念する[3]。1957年に漫画を書き光文社の『少年』に持ち込みをする。光文社との打ち合わせで東映動画設立の話を聞き、完成したばかりの大泉スタジオを訪ねる。そこで山本早苗と面談し、アニメーター募集に応募することを決める。同社の第1回目の一般公募で入社。養成期間中の成績が高く、養成が終わると東映動画の長編第1作『白蛇伝』で早くもセカンド原画を任される。しかしスタッフと衝突してしまい仕事が来なくなってしまう。暇な所を森康二の絵コンテを見て「ここをやらせて下さい」と提案。これが受け入れられ原画に大抜擢された。それまで『白蛇伝』の原画には森康二・大工原章の2人しかいなかった。その後もアニメ映画を多く手掛け、得意なアクションシーンで腕を振るった。

手塚治虫虫プロによる『鉄腕アトム』でテレビアニメの時代を迎えると、東映動画のテレビアニメ第2作『少年忍者 風のフジ丸』で楠部は作画監督を担当。当時は該当する役職がなかったが今日でいう所の“キャラクターデザイン”も担当した。また『フジ丸』の演出には実写畑からの人材が多く、楠部は矢吹公郎・田宮武・勝間田具治・村山鎮男などにアニメの演出を教えた。『フジ丸』は制作が遅れ、東映動画は楠部も原画に参加するよう要請した。それを楠部が断ると、作画料を上げて再度要請して来る。こうして『フジ丸』のスケジュールが逼迫するたびに楠部の収入は上がり、月収が150万円になった[4]。さらに東映動画から虫プロへの移籍が相次いだため、それを抑えるために大塚康生らとともに正社員の10倍の報酬を得る契約社員5人のうちの1人にまで登りつめた[5]。しかし楠部の給料が東映動画の社長よりも高いことが判明し、後に騒動となり1965年9月に退社を余儀なくされた[6]

東映動画は動画連盟を通じて他社に楠部を採用しないように働きかけたが、これが逆効果を生んだ。自宅で手塚から虫プロの重役待遇で迎える話を持ちかけられたが、断っている。楠部が断ってから20分後、今度は藤岡豊から東京ムービーに誘われた。これも「もう宮仕えはする気はない」と断った。そこで東映動画が長編動画時代のスタッフを切り捨て、若手中心のスタッフで低予算のテレビアニメ時代を乗り切る方針を選択したこともあり、アニメ制作会社として1965年12月にAプロダクション(以下Aプロ)を設立。東京ムービーの本隊に参加しない代わりに、業務提携(資本提携は無し)を結び、制作部門を請け負うこととした。親分肌の性格で知られており、Aプロの初期のスタッフは東映動画から付いて来た芝山努小林治椛島義夫などがいた。Aプロでは社長としてプロダクションの経営に当たる一方で作画監督として、その確かなデッサン力と骨太なタッチでテレビアニメ『巨人の星』では不可能といわれた劇画コミックのアニメ化に成功。定期採用により、多くの優秀なアニメーターを養成した。また、台湾にもアニメ制作会社「影人電影公司」を設け、大塚康生と共に台湾でアニメーターを育て上げている。また、1970年には実弟の楠部三吉郎が営業として東京ムービーに入社し、楠部を支えることになった[7]

同時進行する制作本数が5本になった1974年、テレビアニメ『柔道讃歌』(4月~9月、日本テレビ系)の作画監督を務めている最中に病に倒れる。1年間の療養を取り、その間に制作本数が激減。経営の危機を迎えたことで、実制作のみの体制に限界を感じた。さらに東京ムービー自体の製作本数の減少と、東京ムービーの藤岡豊が梶原一騎、映画プロデューサーの川野泰彦と共に「三協映画」を設立した影響により東京ムービーの経営が困窮。東京ムービーの経営部門を東京ムービー新社として独立させ、残りの東京ムービーを楠部に引き取るように要請されたがこれを固辞。こうしてAプロは東京ムービーとの契約を解消。社名も東京ムービー新社に対抗してシンエイ動画新・Aプロダクション、「アニメ界の新鋭」の意)と改め、企画と製作も行なう制作会社として1976年9月9日に再出発した。三吉郎は、前記のように藤岡から「責任を被ってくれ」と頼まれ、納得できずに楠部に相談すると「いまある金はアニメで稼いだ金だ。アニメで失うなら、どう使って貰っても構わないから」と、好きにして良いと返答されたことで独立し、シンエイへの合流を決意したと記している[8]

シンエイ動画設立初期の楠部は作画も手掛けており、テレビアニメ『日本名作童話シリーズ 赤い鳥のこころ』(1979年、テレビ朝日系)など作画監督として参加していたが、それ以降は社長・会長職に専念する。ただ『劇場版ドラえもん』の作品監修は19年間の長きに渡り、1980年『ドラえもん のび太の恐竜』から1999年『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』まで参加していた。三吉郎は楠部に「会社の文鎮」として現場に口を出さず下の者が相談に来た時だけ乗ってくれるよう頼み、その通り実行したと記している[9]

2005年8月27日死去。享年70。没後の2006年3月23日から26日に開催された『第5回東京国際アニメフェア』の中で、シンエイ動画創立の功績に対して、第2回特別功労賞が授与された[10]

主な作品[編集]

東映動画時代[編集]

Aプロダクション時代[編集]

シンエイ動画時代[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 弟の三吉郎によると、俳人だった父(楠部南崖)が、関東軍の将官に「取り巻き」として呼ばれて満洲に渡り、そこで生まれたという(『「ドラえもん」への感謝状』pp.125 - 126
  2. ^ 楠部三吉郎、2014年、p.129
  3. ^ 楠部三吉郎、2014年、pp.48 - 49、148 - 149。多摩美術大学に合格したが、入学はしていない。
  4. ^ 当時の男性大学卒初任給が2万円台の時代であった。
  5. ^ ちなみに、この時に得た収入が後のAプロダクション設立資金となる。
  6. ^ キネ旬ムック『動画王』vol.7「キャラクターデザイン特集」. キネマ旬報社. (1998). p. 50-74. ISBN 9784873765075 
  7. ^ 楠部三吉郎、2014年、pp.170 - 173
  8. ^ 楠部三吉郎、2014年、pp.14 - 15
  9. ^ 楠部三吉郎、2014年、pp.220 - 221
  10. ^ “東京国際アニメフェア 功労賞に井上ひさし氏ら(3/28)”. アニメ!アニメ!. (2006年3月28日). オリジナルの2013年11月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121103170133/http://animeanime.jp/article/2006/03/28/796.html 2014年4月27日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 楠部三吉郎『「ドラえもん」への感謝状』小学館、2014年

外部リンク[編集]

ビジネス
先代
(設立)
シンエイ動画
(Aプロダクション)社長

初代(1965年 - 1990年)
次代
楠部三吉郎