森田益子

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森田 益子(もりた ますこ、1924年12月28日 - 2016年7月15日[1])は、日本政治家(元社会党、のち無所属)。旧姓、村上[2]

経歴[編集]

高知県土佐郡朝倉村松田町(現・高知市朝倉)で散髪屋の次女として生まれ育つ[2]。父は散髪屋のかたわら水平社の運動に参加していた[3]。1938年、朝倉高等小学校を2年で中退し片倉製糸の女工となるが[4]、2年半後に肺浸潤で退職[5]。1942年、17歳で車引きと結婚。2男を儲けるが、長男は1970年1月14日に25歳で死去[6]、次男は覚醒剤事件で2回服役している[7]

戦後、1950年から緊急失業対策事業による日雇いの仕事を始める[8]。緊急失業対策法では主たる家計の担当者でなければ就労できないこととされていたため、夫が結核であると偽り、結核の診断書を偽造し、さらに偽装離婚もおこないつつ、草履作りの内職などで家計を支えた[9]

のち全日本自由労働組合に参加。1959年から部落解放運動に参加、部落解放同盟高知市協議会(のち連絡協議会に改組)の結成に参加[10]。1960年、部落解放同盟高知県連婦人部長に就任[11]。1961年から部落解放同盟半専従[12]1975年に高知市議に社会党から立候補し当選。市議を4期務め、1976年から部落解放同盟高知市連絡協議会議長、1978年から1979年まで、部落解放同盟中央執行委員婦人対策部長、1989年から2003年3月3日まで高知県議会議員を務めた。

一ツ橋小学校事件当時に解同高知市協議長を務める。この事件の被害者から人格権侵害とプライバシー権侵害ならびに名誉毀損について提訴され、1992年3月30日高知地方裁判所から60万円の損害賠償を命じられる。1994年8月8日高松高等裁判所における控訴審でも敗訴。この判決は、1997年3月、最高裁で確定した。

2001年1月8日高知市桟橋通の高知県民体育館で行われた同市の成人式の席上、来賓の橋本大二郎知事が祝辞の最中に新成人4人から「帰れ、帰れ」と手拍子で野次を飛ばされ、「静かにしろ」「出て行け」と大声で怒鳴りつける事件が起きた時には、1月21日にこの4人を連れて知事公邸を訪れ、陳謝した。

2002年1月から2003年6月まで、部落解放同盟高知県連委員長をつとめる[13]。2003年3月、議員活動を引退。

エピソード[編集]

  • 1981年以降、高知市の海老川隣保館で同和地区改良事業推進委員会の委員長を務めたが、「身びいきや解放同盟の人だけを優遇するということはせずに、むしろ同和会系の人をすごく優遇した」と語る[14]
  • 女性差別に抗議する意味で、みずからを戸籍の筆頭者で世帯主とし、夫を扶養家族に入れた[15]
  • 1989年の県議補欠選挙では、筆山(ひつざん)の広場で選挙演説中、選挙宣伝カーからマイクで村田英雄王将』の替え歌や解放歌を熱唱したことがある[16]
  • 橋本大二郎が高知県知事に立候補した際、社会党の三役室で初めて会った橋本に面と向かって「この人は女にもてますでしょう。母性愛をそそるタイプをしている」と放言した[17]
  • 1990年、高知市の被差別部落に住む在日韓国人が相撲で優勝した際、同和会の者から「ありゃ、朝鮮人や」と言われ、これを差別発言として高知新聞に投書したことがある。これに対し、部落解放同盟高知市協書記局の者は「朝鮮の人は同和地区にたくさん住んでいるけど、部落の人みんなが朝鮮人を差別しているわけではない」と弁解したが、森田は「部落の人がしたことには解放同盟として反省すべきと思う。部落の中でも朝鮮人を差別する傾向があることも知ってるので」という趣旨の投書を高知新聞に発表し、謝罪した[18]
  • 松本英一の参院選立候補に際して、部落解放同盟高知県連の委員長東崎唯夫と書記長藤沢喜郎が違反ポスターを貼って警察から任意出頭を求められたときは、東崎や藤沢の代理人として高知県警に10日あまり連日出頭し、最終的に不起訴処分となった[19]。このとき、警察の捜査を妨害するために部落解放同盟高知県連の会計簿を焼き捨て、証拠隠滅したことがある[20]
  • 立花町連続差別ハガキ事件については「このことが解放新聞にでかでかと出た時、私は自分の考える解放運動とは違うと思い、腹が立ちました。敵権力へ売ることは果たして正しかっただろうかと思います」と発言し、犯人を警察に引き渡した部落解放同盟福岡県連に怒りを表明している[21]

著書[編集]

  • 人間に光あれ(径書房、1991年)聞き手・もろさわようこ
  • 自力自闘の解放運動の軌跡(解放出版社、2012年)

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『解放新聞』2016年7月25日付。
  2. ^ a b 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.9(解放出版社、2012年)
  3. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.32(解放出版社、2012年)
  4. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.30(解放出版社、2012年)
  5. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.35(解放出版社、2012年)
  6. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.114(解放出版社、2012年)
  7. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.115(解放出版社、2012年)
  8. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.45(解放出版社、2012年)
  9. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.45-46, 321(解放出版社、2012年)
  10. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.59(解放出版社、2012年)
  11. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.63(解放出版社、2012年)
  12. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.76(解放出版社、2012年)
  13. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.205-206(解放出版社、2012年)
  14. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.98-99(解放出版社、2012年)
  15. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.112(解放出版社、2012年)
  16. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.174(解放出版社、2012年)
  17. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.210(解放出版社、2012年)
  18. ^ 『高知新聞』1990年8月24日付。
  19. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.278(解放出版社、2012年)
  20. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.279(解放出版社、2012年)
  21. ^ 森田益子『自力自闘の解放運動の軌跡』p.312(解放出版社、2012年)