林忠交

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林 忠交
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 天保3年(1832年
死没 慶応3年6月24日1867年7月25日
改名 武三郎(幼名)→忠交
墓所 東京都港区愛宕青松寺
官位 従五位下、肥後
幕府 江戸幕府
上総請西藩
氏族 三河林氏
父母 父:林忠英、養父:林忠旭
兄弟 忠起忠旭忠交
正室:久貝正典の娘
忠弘
養子:忠崇
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林 忠交(はやし ただかた)は、上総請西藩の第2代藩主。忠英(若年寄、上総貝淵藩初代藩主)の四男。

生涯[編集]

天保3年(1832年)、貝淵藩初代藩主林忠英の四男として生まれる[1][注釈 1]。兄忠旭の養嗣子となる。嘉永7年(1854年)4月27日、兄の隠居にともなって家督を相続し、同年12月、従五位下肥後守に叙任された。安政4年(1857年)閏5月に大番頭、安政6年(1859年)8月には伏見奉行となった。慶応2年(1866年)1月23日、坂本龍馬を捕縛しようとするも失敗(寺田屋遭難)。慶応3年(1867年)6月24日、奉行在任中に伏見にて死去した。享年35[3]。家督は甥の忠崇が継いだ。

江戸城大奥筆頭老女上臈御年寄)であった万里小路局は元治元年(1864年)に引退すると、宿元であった請西藩の江戸浜町の藩邸に住んだ。

系譜[編集]

父母

正室

子女

養子

先代
林忠旭
林氏請西藩2代藩主
1854年 - 1867年
次代
林忠崇

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 弘化2年(1845年)生まれとしている資料もある[2]

出典[編集]

  1. ^ 請西藩第2代藩主林忠交-最後の伏見奉行”. To KAZUSA (2013年11月23日). 2022年12月13日閲覧。
  2. ^ "林忠交". 講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』. コトバンクより2022年12月13日閲覧
  3. ^ 細野哲弘「一文字大名 脱藩す」『特技懇』第290号、特許庁技術懇話会、2018年9月25日、132頁。