松平定実

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松平定実
時代 江戸時代前期
生誕 慶長2年(1597年
死没 寛永9年3月21日1632年5月10日
改名 長十郎、定国
戒名 永照院殿徳誉西巌道徹大居士
墓所 三重県桑名市東方の照源寺
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家康秀忠家光
氏族 久松松平家
父母 父:松平定勝、母:たつ(奥平信昌養女)
兄弟 松尾君定吉定行定綱阿姫定実紀為君定房、菊君、定政、鶴君、玉君
井上松隠の娘
定之定寛
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松平 定実(まつだいら さだざね)は、江戸時代前期の旗本

生涯[編集]

松平定勝の四男として誕生した。母は奥平信昌の養女(奥平貞友の次女)・たつ。徳川家康は父方の伯父にあたる。慶長10年(1605年)、家康に初めて拝謁する。家康の命により駿府城に召され、13歳まで駿府城大奥で養育される。慶長17年(1612年)、従五位下・信濃守に叙任する。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では家康に従う。翌年の夏の陣では大功を挙げるが、軍令に違反し持ち場を離れたとして家康の怒りを買い、次兄・定行の領地に蟄居した。しかし、大和高取藩主・本多政武や伊達家家臣・片倉景綱らは、天王寺の戦い真田信繁に攻め込まれ大混乱となった徳川方の中で、その場にとどまって奮戦した定実の活躍を見届けており、伊達政宗らは「家康公より問い合わせがあれば、定実のために弁護する用意がある」と定実やその家臣に書状を送っている[1][2]

松平定実墓所(桑名市照源寺)

元和年間には書院組頭を命ぜられるが、病により辞退した。さらに、寛永元年(1624年)長島7千石、翌年には長島城2万石を賜うが、いずれも病により辞退する。寛永9年(1632年)、桑名で卒去した。

正室は井上松隠の娘で、延宝3年(1675年)に卒去した。松寿院殿永誉馨庵貞玉大姉と贈られる。

脚注[編集]