来敏

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来敏
蜀漢
執慎将軍
出生 生年不詳
荊州義陽郡新野県
拼音 Lái Mǐn
敬達
主君 劉璋劉備劉禅
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来 敏(らい びん)は、中国後漢末期、及び三国時代蜀漢の儒学者。敬達本貫荊州義陽郡新野県

生涯[編集]

光武帝の功臣である来歙の末裔。父は霊帝の時代に司空に昇った来艶。

後漢末の大乱に遭遇し、姉と共に荊州へ逃れた。その姉の夫の黄琬は、益州劉璋の縁戚だったことから、後に姉弟揃って劉璋に招かれ、彼の下で賓客となった。書物を広く読み漁り、『三倉』『広雅』の訓詁学に詳しく、文字の校正を好んだ。

劉備が益州を平定すると典学校尉に任じられ、許慈胡潜孟光と共に、宮中儀礼の制定に当たった[1]劉禅が立太子されると劉巴により抜擢され、太子の下で家令となった。

劉禅が蜀漢の皇帝として即位すると虎賁中郎将に、諸葛亮漢中郡に赴任すると彼の要請で軍祭酒・輔軍将軍となるが、ある事件に関わって職を去った。諸葛亮の死後、大長秋として成都に戻るが、免職となり、後にまた光禄大夫に昇った。

延熙7年(244年)、の興勢侵出を受け、大将軍費禕が迎撃に向かうことになったが、来敏は彼のもとを訪れて囲碁の対局を申し出た。出陣が迫る慌ただしい中でも費禕はそれに応じ、集中して対局に臨んだ。対局を終えると来敏は「先程は貴方を試してみただけです。貴方は本当に信任すべき方だ。必ずや賊を処理できることでしょう」と述べた。果たして費禕が出陣すると、魏軍は敗走に至った[2]

後に過失を犯し免職となるが、また執慎将軍に任じられる。度重なる免職はその言葉に節度がなく、行動が異常だったためだという。『春秋左氏伝』を尊ぶ来敏と、『春秋公羊伝』を尊ぶ孟光は度々議論を重ねたが、その度に孟光は大声で騒ぎ立てた[3]。このように孟光もまた慎みがなく、議論を乱していたが、来敏の言動はさらに酷いものだったと言われる。それでも年長の学者であり、荊楚の名族の出身であり、また劉禅の東宮時代からの旧臣であることから、免職となってもまた改めて起用を受けた。

景耀年間に97歳で没した。

子の来忠もまた経学に通じ、来敏の風格があった。大将軍の姜維を補佐して評価され、彼の下で参軍となった。

評価[編集]

三国志』の撰者である陳寿は来敏を、「徳業についての称賛はなかったが、まことに一代の学者であった」と評している[4]

三国志演義[編集]

羅貫中の小説『三国志演義』では、諸葛亮の第1次北伐に先立ち、名前のみ挙がる。祭酒に任じられ、成都に残留し、他の文官と共に政務を任された[5]

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『三国志』蜀書 許慈伝 s:zh:三國志/卷42#許慈
  2. ^ 『三国志』蜀書 費禕伝 s:zh:三國志/卷44#費禕
  3. ^ 『三国志』蜀書 孟光伝 s:zh:三國志/卷42#孟光
  4. ^ 『三国志』蜀書 杜周杜許孟来尹李譙郤伝評 s:zh:三國志/卷42#評價
  5. ^ s:zh:三國演義/第091回