木村恵吾

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きむら けいご
木村 恵吾
木村 恵吾
キネマ旬報社『キネマ旬報』第90号(1954)より
生年月日 (1903-06-19) 1903年6月19日
没年月日 (1986-01-20) 1986年1月20日(82歳没)
出生地 日本の旗 日本静岡県三島市
死没地 日本の旗 日本
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画サイレント映画
活動期間 1926年 - 1965年
活動内容 1926年 日活大将軍撮影所脚本家デビュー
1930年 帝国キネマ演芸で監督デビュー
1931年 同社改組により新興キネマ演出部
1942年 同社合併により大映京都撮影所演出部
1965年 大映を退社
主な作品
国姓爺合戦
歌ふ狸御殿
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木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 1986年1月20日)は、日本の映画監督脚本家である。サイレント映画の時代に脚本家、ついで監督としてデビューした。1940年(昭和15年)にオペレッタ映画狸御殿』を創出、『オペレッタ狸御殿』(2005年)につながる源流をつくった。

人物・来歴[編集]

1903年(明治36年)6月19日静岡県三島市に生まれる。

早稲田大学附属早稲田高等学院(現在の早稲田大学高等学院)の2年次終了で日活大将軍撮影所に入社[1]、1926年(大正15年)、オリジナル脚本が採用され、伊奈精一監督、根岸東一郎主演のサイレント映画『神田の下宿』で脚本家としてデビューした[2]。同年、オリジナル脚本第2作『都の西北』が映画化され、伊奈監督、中野英治主演で製作されたが、これには俳優時代ののちの映画監督渡辺邦男が出演している[2]。同撮影所は1929年(昭和4年)に太秦に移転したが、同年までに11本の脚本が採用されて映画化された。

1930年(昭和5年)、帝国キネマ演芸に移籍、川口松太郎の原作を自ら脚色した中野英治主演の『若き血に燃ゆる者』で監督としてデビューした[1][2]。同社で4作を監督し、オリジナル脚本を1作、松本英一監督に提供して、翌年1931年(昭和6年)に同社が新興キネマに改組されてからは、新興キネマ京都太秦撮影所(現在の東映京都撮影所)で活動した。1940年(昭和15年)、同社の紀元二千六百年奉祝のための大作『国姓爺合戦』の監督に抜擢され[1]八尋不二脚本、市川右太衛門主演で演出し、成功する[1]

千姫』(1954年)

1942年(昭和17年)、第二次世界大戦の戦時統制による同社合併により大日本映画製作(のちの大映)所属となり、以前日活太秦撮影所であった大映京都撮影所に異動になる。同年、オリジナル脚本による高山廣子宮城千賀子主演のオペレッタ映画『歌ふ狸御殿』を監督、成功する[1]。翌1943年(昭和18年)、召集を受けて戦地に赴く[1]。1945年(昭和20年)前半には復員し、波多謙治こと西條照太郎との共同脚本、市川右太衛門主演の映画『紅顏鼓笛隊』で監督として復帰する[2]

終戦後も大映京都撮影所に所属し、1949年(昭和24年)の脚本・監督作『花くらべ狸御殿』に出演した京マチ子を同年、宇野重吉との共演作『痴人の愛』のナオミ役に起用し、京の売り出しに成功する[1]1950年代には、同撮影所に所属しながら、新東宝宝塚映画東京映画にもお呼びがかかった。

1955年(昭和30年)4月29日から始まったフランスカンヌでの第8回カンヌ国際映画祭に、前年の京マチ子主演作品『千姫』(1954年)がパルムドールにノミネートされ、コンペティション上映されたが、賞は逃した。

1965年(昭和40年)、大映を退社後は、テレビ番組の演出をしたが、しばらくして引退した[1]

1986年(昭和61年)1月20日、胃癌により死去した。満82歳没。

おもなフィルモグラフィ[編集]

大映以前[編集]

大映京都撮影所[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h 木村恵吾raizofan.net, 2009年10月14日閲覧。
  2. ^ a b c d #外部リンク欄、「木村恵吾」の項リンク先、日本映画データベース、2009年10月14日閲覧。二重リンクを省く。

外部リンク[編集]