曹純

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曹純
後漢
高陵亭侯・虎豹騎督将
出生 生年不詳
豫州沛国譙県
死去 建安15年(210年
拼音 Cáo Chún
子和
諡号 威侯
主君 曹操
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曹 純(そう じゅん、? - 210年)は、中国後漢末期の武将。子和[1]豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。祖父は曹褒(字は叔興、潁川太守[2]。父は曹熾(字は元盛[3]侍中・長水校尉[2])。同母兄は曹仁[1]。従兄は曹操。子は曹演。孫は曹亮。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に記述がある。

一族[編集]

祖父は、曹操の養祖父曹騰の兄であり、曹操と同族である。

1974年から1977年にかけて、安徽省亳州市譙城区(漢代の沛国譙県)の城南一帯で古墳群が発掘(曹氏公園と名づけられる)された。 調査の結果、この古墳群は曹一族の墓と判明した。それによると「大長秋曹騰、会稽曹君(曹胤)、故潁川太守曹褒、長水校尉曹熾、呉郡太守曹鼎…」と曹一族の名が記されている[4]

生涯[編集]

光和6年(183年)、曹純が14歳のときに父が39歳で死去した。この時、兄の曹仁が別居していたため、曹純が家を継いだ(『英雄記』)。

曹純は財産をよく管理し、数百人の召使・食客をよく監督したので、郷里の人々に有能だと認められた(『英雄記』)。また、学問好きで学者を敬愛したため、多くの学者が曹純の下に集まり、人々から賞賛された(『英雄記』)。

中平4年(187年)、曹純は18歳のときに黄門侍郎となり、中平6年(189年)、20歳のときに曹操に仕えた。襄邑での募兵に同行し、その後も曹操の側に付き従った(『英雄記』)。

議郎・司空軍事に就任した。

曹操は虎豹騎という精鋭騎兵隊を持っていたが、悩んだ末にその指揮官を曹純に任した。曹純は虎豹騎の指揮官になると、よく部下を可愛がり統率したので、部下からの信望が厚かったという(『魏書』)。

建安10年(205年[5]、曹純は虎豹騎の指揮を執り、袁譚の籠る南皮の包囲戦に参加した。袁譚が軍の指揮を執って出撃し、曹操軍が多大な被害を受けると、曹操は撤退しようとした。しかし曹純は「遠方に遠征しているので、今退けば威光を失うでしょう。敵が勝利につけあがっており、自軍は敗北し慎重になっています。慎重さをもって、つけあがっている者と戦えば必ず勝てるでしょう」と進言した。曹操はこの意見を尤もだと考え、袁譚を激しく攻め立て敗走させた。曹純は直属の騎兵を指揮して追撃し、袁譚の首を斬った。

建安12年(207年[5]烏桓との戦い(白狼山の戦い)では、曹純の騎馬隊が蹋頓を捕虜にした。また、前後に亘る功績を認められて高陵亭侯に封じられ、300戸を与えられた。

翌建安13年(208年[5]、曹操の荊州平定戦にも随行した。長坂では劉備を追撃し、劉備の2人の娘を初めとして多くの捕虜と輜重を得た。また、そのまま進撃し江陵を降した。

建安15年(210年)に死去。享年41歳(または40歳)。

曹操は曹純の死後、曹純ほどの指揮官は得られないとして、虎豹騎を自身で指揮を執る事を決めた。その後、ついに後任の指揮官が選ばれる事はなかったという(『魏書』)。

曹丕(文帝)の時代に諡号が送られ、威侯とされた。子は領軍将軍にまでなり、正元年間に平楽郷侯に昇進した。子が死去すると、孫が跡を継いだ。

三国志演義[編集]

小説『三国志演義』では、虎豹騎指揮官としての事跡は描かれていない。南郡攻防戦で曹仁の部将として登場し、孫権軍の周瑜と戦い大敗している。また、潼関での馬超との戦いでも曹操に従軍する設定となっている。

参考資料[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『英雄記』
  2. ^ a b 『魏書』
  3. ^ 曹操一族の墳墓から、「長水校尉曹熾字元盛」と描かれたレンガが出土した。 安徽省亳県博物館「亳県曹操宗族墓葬」『文物』8期、1978年、p33。
  4. ^ 水経注』によると、譙県に曹騰の兄の墓があり、その碑文には「漢の潁川太守曹君(曹褒)は、延熹9年(166年)に没した」および「(子の曹熾は)大中大夫・司馬・長史・侍中を歴任し、長水校尉に昇進して、39歳で没した」と記されているとある。また熹平6年(177年)、曹褒の子で曹熾の弟である曹胤(曹純の叔父)が埋葬され、その碑文に「漢の謁者(曹胤)、熹平6年に没した」と記されているとある。
  5. ^ a b c 「武帝紀」