徳川熙

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徳川 熙
生誕 1916年2月15日
死没 (1943-07-12) 1943年7月12日(27歳没)
オーストラリアの旗 オーストラリアソロモン諸島クラ湾
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1938 - 1943
最終階級 海軍少佐
墓所 谷中霊園
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徳川 熙(とくがわ ひろむ[1]1916年大正5年)2月15日 - 1943年昭和18年)7月12日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少佐位階従五位勲等勲五等功級功五級

父は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の九男で男爵徳川誠。母は男爵・名和長憲の娘・霽子(さえこ)。妻は会津松平家第12代当主・松平保男の五女・順子(よりこ)。

生涯[編集]

呂一〇一潜(1943年)

1916年大正5年)2月15日男爵徳川誠の長男として生まれた。学習院中等科を経て1938年昭和13年)、海軍兵学校卒業。煕は海兵65期九軍神の一人岩佐直治、戦後海将となる石隈辰彦らは同期生である。太平洋戦争中期の1943年(昭和18年)7月12日、潜水艦呂101先任将校(水雷長)として戦死した。27歳没。

戦死状況[2]

煕はクラ湾夜戦が行われた直後、のちに「潜水艦の神様」[3]と異名をとった艦長折田善次指揮のもとクラ湾アメリカ軍上陸地点に潜入した。夜間、充電のため浮上し煕は見張員2名とともに艦橋にあったが、アメリカ軍駆逐艦テイラー(USS Taylor, DD-468)のレーダー射撃を受け煕は被弾した。煕は急速潜航を指示し、同艦は無事であったが、艦内に収容された煕は既に戦死していた(見張員2名も戦死)。煕の遺骸は折田らによってラバウルで荼毘に付された。墓所は谷中霊園

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 霞会館[1996: 157]
  2. ^ 『艦長たちの太平洋戦争』「武運長久」
  3. ^ 『指揮官たちの太平洋戦争』「月明の出撃」

参考文献[編集]