島津忠亮

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島津忠亮

島津 忠亮(しまづ ただあきら、1849年6月30日嘉永2年5月11日〉 - 1909年明治42年〉6月26日[1])は、明治時代の華族通称は又之進。

佐土原藩主・島津忠寛の長男で、子爵からのちに伯爵となる。書を能くし、霞峰・東洋・穆山と号した。弟に大村純雄大村純熈婿養子)、西南戦争で薩軍側につき早世した島津啓次郎がいる。島津久宝の娘・盛子を娶り、子に島津忠麿島津健之助阿部正寛阿部正功養子)らがいる。

経歴[編集]

昌平坂学問所で学び、明治2年(1869年)に留学のため渡米し、同行した平山太郎・橋口宗儀とともにボストン14区に居住した(1870年時点)[2]。明治6年(1873年)に帰国し、明治12年(1879年)、初代東京府赤坂区長に任命され、1年間これを務める。明治17年(1884年)7月8日に子爵となる。明治21年(1888年)、香蘭女学校開校にあたり屋敷の一部を貸与する[3]。1890年(明治23年)7月10日、貴族院子爵議員に就任[1]

明治24年(1891年)4月23日に、父の忠寛が幕末に挙げた功績によって子爵から伯爵に陞爵するが[4]、貴族院子爵議員に在任していた時期のことであったため、明治25年(1892年)にこれを不服とする者から議員資格についての異議申し立てがなされ、結果として同年5月31日に議員資格を失うこととなった[5][6]。一方、同年5月31日に伯爵議員の補欠選挙があり、忠亮は最多得票したが当選無効とされ[7]、1票差の次点得票で当選者とされた酒井忠道伯爵を相手に資格訴訟を行い、勝訴して貴族院議員に復帰した[8]

明治31年(1898年)、宮崎神宮の社殿造営を目的とした神武天皇御降誕大祭会を結成し[9]、会長となる。明治42年(1909年)に没し、忠麿が家督を継ぐ。墓所は東北寺(渋谷区広尾)。

栄典[編集]

位階
勲章等

脚注[編集]

  1. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』26頁。
  2. ^ 55名の「ジャパニーズ」 : 1870年米国人口センサスの調査票(population schedule)への接近菅(七戸)美弥、東京学芸大学紀要. 2009-01-30
  3. ^ 120年の香蘭の歩み香蘭女学校
  4. ^ 『官報』第2342号、明治24年4月24日。
  5. ^ 議員伯爵壬生基修君、伯爵島津忠亮君、伯爵大村純雄君ノ資格ニ對スル異議『貴族院資格審査判決例』 (貴族院事務局, 1925)
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、5頁。
  7. ^ 貴族院議員伯爵島津忠亮ノ当選ヲ無効トシタル理由ノ件 明治24年12月18日国立公文書館
  8. ^ 貴族院第3回会議録第15号
  9. ^ 宮崎神宮とは宮崎神宮
  10. ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
  11. ^ a b 『官報』第7801号「叙任及辞令」1909年6月28日。
  12. ^ 『官報』第308号、1884年7月9日。
  13. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。

参考文献[編集]

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
佐土原島津家初代
1891年 - 1909年
次代
島津忠麿
先代
叙爵
子爵
(佐土原)島津家初代
1884年 - 1891年
次代
(陞爵)