山口教吉

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山口 教吉
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄3年(1560年)?
別名 通称:九郎次郎(九郎二郎)
主君 織田信秀今川義元
氏族 山口氏
父母 父:山口教継
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山口 教吉(やまぐち のりよし)は、戦国時代武将織田氏今川氏の家臣。

略歴[編集]

山口教継の子として誕生。織田信秀死亡して信長がその後を継ぐと、鳴海城主であった父と共に今川義元寝返る。教継は鳴海城を教吉に任せ、自らは桜中村城に立て篭もった。天文22年4月17日1553年5月29日)、19歳の信長は約800の軍勢を率いて鳴海に攻め込むが、鳴海の北にある小鳴海の「三の山」[1]で、そこより東の赤塚[2]に教吉が約1,500の軍勢を進めているのを発見する。これに気付いた信長は赤塚に向かって攻撃を開始、戦闘となった。しかし勝敗はつかず結局、互いの捕虜や捕らえたを交換して双方は引き上げた(赤塚の戦い[3]

その後、教継が調略をもって大高城沓掛城を乗っ取り、鳴海城には義元家臣の岡部元信が城代として立て篭もった。それから程なく教吉は教継と共に駿河国へ呼び出され、義元の命により父子ともども切腹を強いられ果てた[4]

脚注[編集]

  1. ^ 旧・鳴海町名古屋市緑区)にある山王山
  2. ^ 旧・鳴海町(名古屋市緑区)赤塚。
  3. ^ 太田牛一信長公記』 「三の山赤塚合戦の事」
  4. ^ 太田牛一 『信長公記』 「おどり御張行の事」

関連項目[編集]