小谷承靖

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こたに つぐのぶ
小谷 承靖
別名義 トム・コタニ
生年月日 (1935-12-21) 1935年12月21日
没年月日 (2020-12-13) 2020年12月13日(84歳没)
出生地 東京府東京市杉並区
死没地 東京都狛江市
国籍 日本の旗 日本
職業 映画監督演出家
活動期間 1960年 - 2020年
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小谷 承靖 (こたに つぐのぶ、1935年12月21日 - 2020年12月13日) は、日本の映画監督演出家脚本家

父は鳥取県倉吉市2代目市長の小谷善高[1][2]

来歴・人物[編集]

東京府東京市杉並区出身で、小学校2年生まで東京で育つ[2]。公職追放になった父の故郷・鳥取県東伯郡西郷村村長の後釜を引き受けたため[1][2]1944年3月末、当地に引っ越す[2]県立倉吉東高校卒業まで鳥取で過ごし、東京に戻りたくて[2]、一浪後東京大学文学部フランス文学科入学を機に東京へ戻る[2]。同時期に大江健三郎久世光彦が在学していた[2]。この2人は東大在学中から目立つ存在で、次第に落ちこぼれて映画に方向転換した[2]

大学卒業後、1960年に、暮しの手帖社と東宝の入社試験を受け、東宝に入社[2]。他の映画会社は募集はなく[2]、東宝もコネがないと入りにくかったが[2]、400人近い応募で30~40人程度が採用され[2]、同期は小谷と奈良正博、針生宏、千葉隆司(成瀬巳喜男千葉早智子の子)、久松正明(久松静児の子)、河崎義祐(宣伝部配属)、橋本幸治(美術課配属)の7人が撮影所入りし[2]、監督になったのは、小谷、河崎、橋本の3人だった。1961年稲垣浩監督・円谷英二特技監督の『ゲンと不動明王』で初めて助監督に就く[2]

1964年には東宝のヨーロッパロケ企画の準備のために渡欧し、『はなればなれに』撮影中のジャン=リュック・ゴダールの演出を見学[2]同年のカンヌ映画祭では藤本眞澄浜美枝とゴダールとの通訳を務め、東京オリンピック開催を機に帰国。

1967年坂野義光西村潔らと水中撮影班「東宝フロッグメンパーティ」を結成し[2]、『南太平洋の若大将』の水中撮影に協力。同年、『ドリフターズですよ!前進前進また前進』でチーフ助監督に昇進し、翌年、『クレージーメキシコ大作戦』(坪島孝監督)では劇中のショー場面の演出を担当した[2]。その後、1968年から1969年にかけて、恩地日出夫と共に、大阪万博電力館で上映されたマルチスクリーン映画『太陽の狩人』の助監督、B班監督として世界を巡る。

1970年、映画『俺の空だぜ!若大将』で監督デビュー[2]。主演の加山雄三とはザ・ビートルズ来日時、一緒に赤坂ヒルトンで会うなど親交があり、この作品の前にも加山のコンサートの記録映画『歌う!若大将』で監督昇進の話もあったが、「本編じゃないんだろ?そんなもので監督になるな」という恩地のアドヴァイスで見送っている(替わりに引き受けた長野卓は、結局このあと劇場映画を監督する機会を得られずに終わった)[2]。また、この年から団令子主演の連続テレビドラマ『Oh.カンパク君!』(関西テレビ)でテレビドラマの監督も務めた[2]

1973年ランキン・バス・プロ東宝映像の合作ミュージカル映画で、ゼロ・モステル主演『Marco』の共同監督をセイモア・ロビーと共に務める。同年には、石原プロモーション製作、渡哲也主演によるバイオレンス・アクション映画『ゴキブリ刑事』に東宝から監督として参加。

日本国外での仕事はトム・コタニでクレジットされ、他には『極底探険船ポーラーボーラ』、『バミューダの謎/魔の三角水域に棲む巨大モンスター!』、『The Ivory Ape』(未公開、1980年アメリカでテレビ放映)、千葉真一丹波哲郎三船敏郎や英米俳優が出演し、幕末をテーマにした作品『武士道ブレード』(1981年)などがある。

1974年フォーリーブス主演の『急げ!若者 TOMORROW NEVER WAITS』を監督。小谷にとって初めてのアイドル映画となった[2]。『ピンク・レディーの活動大写真』ではピンク・レディー、『愛の嵐の中で』で桜田淳子、『ホワイト・ラブ』で山口百恵三浦友和、『すっかり…その気で!』でビートたけし、『潮騒』で堀ちえみ、それぞれの主演作品を手がける。 また1975年には、東宝による一般公募で「最も映画化して欲しい外国文学」に選ばれたツルゲーネフ原作『はつ恋』の映画化作品を監督。現在でも根強い人気のある文芸映画となった。

1985年にフリーランスとなり、テレビ映画ビデオムービーなどのジャンルで活動。2009年より、青春期を過ごした鳥取県を舞台とした谷口ジロー劇画父の暦』映画化を企画。2011年11月13日には同作品を朗読劇化、自らの演出で鳥取市民会館大ホールで上演された。

2020年12月13日に心不全のため死去[3]。84歳没。

監督作品[編集]

映画[編集]

公開年 作品名 製作
1970年 俺の空だぜ!若大将 東京映画
1971年 夕日くん サラリーマン脱出作戦 東宝
1973年 ゴキブリ刑事 石原プロ
夕日くん サラリーマン仁義 東宝
ザ・ゴキブリ 石原プロ
Marco(共同監督) ランキン・バス・プロ / 東宝映像
1974年 急げ!若者 TOMORROW NEVER WAITS 東宝・ジャニーズ事務所
1975年 がんばれ!若大将 東宝
はつ恋 東宝
1976年 激突!若大将 東宝
1977年 極底探険船ポーラーボーラ ランキン・バス・プロ / 円谷プロ
1978年 愛の嵐の中で 東京映画・サンミュージック
バミューダの謎/魔の三角水域に棲む巨大モンスター! ランキン・バス / 円谷プロ
ピンク・レディーの活動大写真 T&Cミュージック
1979年 ホワイト・ラブ ホリ企画制作
1980年 The Ivory Ape ランキン・バス・プロ / 円谷プロ
1981年 帰ってきた若大将 東宝・加山プロ
武士道ブレード ランキン・バス・プロ / トライデント
すっかり…その気で! 田中プロ
1982年 コールガール 松竹
1984年 F2グランプリ 東宝
1985年 潮騒 ホリ企画制作

テレビドラマ[編集]

放映年 作品名 製作
1973年 - 1974年 クレクレタコラ 東宝企画
1982年 火曜サスペンス劇場

「危機一髪の女」

日本テレビ/松竹
1983年 火曜サスペンス劇場

「狙われた美人キャスター」

日本テレビ/東京ビデオセンター
1983年 火曜サスペンス劇場

「妻たちの昼下り」

1984年 火曜サスペンス劇場

「真夜中の妻たち」

1984年 - 1986年 私鉄沿線97分署 テレビ朝日/国際放映
1987年 火曜サスペンス劇場

「髪(ヘアー)」

1987年 ジャングル 日本テレビ/東宝
1988年 NEWジャングル 日本テレビ/東宝
1988年 火曜サスペンス劇場

「風のターンロード」

1992年 ミステリー体験ゾーン 本当にあった怖い話「幽霊刑事」[4] インタープレナー/大映テレビ/ホリプロ/テレビ朝日

出演[編集]

映画[編集]

脚本[編集]

映画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 倉吉市名誉市民 | 倉吉市行政サイト
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 寺岡ユウジ「小谷承靖インタビュー 『海外の現場で学んだことがアイドル映画で役に立ちました』」『映画論叢』第27巻2011年7月15日発行、国書刊行会、99–124頁。 
  3. ^ "[訃報]小谷承靖さん 映画監督". 沖縄タイムスプラス. 沖縄タイムス社. 19 December 2020. 2020年12月19日閲覧
  4. ^ 『呪死霊 外伝』というタイトルでビデオ発売


関連項目[編集]