大久保忠益

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大久保忠益
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文16年(1547年
死没 元和3年10月9日1617年11月7日
改名 忠利、忠益
別名 通称:与一郎、助左衛門
戒名 日浄
幕府 江戸幕府徒歩頭
主君 徳川家康
氏族 大久保氏
父母 大久保忠俊
兄弟 忠勝忠政本多重定室、忠吉忠豊忠益忠直黒柳正利室、蜂屋貞次室、忠岡筧正則室、忠宗大津時隆
忠辰忠政忠尚青山正長室、中根喜八郎室
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大久保 忠益(おおくぼ ただます)は、戦国時代から江戸時代初期の武将徳川氏の家臣。

生涯[編集]

永禄6年(1563年三河一向一揆との戦いでは一族と共に上和田砦に籠城し負傷しながらも、敵に奪われた槍を奪い返して逆に討ち取るなど勇戦した。以後も姉川の戦い三方ヶ原の戦い長篠の戦い、色尾の合戦、高天神城の戦い小牧・長久手の戦いに従軍し、しばしば軍功があった。関ヶ原の戦いでは使番として参戦し、戦後は徒歩頭を務めた。

出典[編集]