塩沢とき

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しおざわ とき
塩沢 とき
本名 塩沢 登代路
生年月日 (1928-04-01) 1928年4月1日
没年月日 (2007-05-17) 2007年5月17日(79歳没)
出生地 日本の旗 東京市牛込区中里町[注釈 1]
死没地 日本の旗 東京都目黒区
職業 女優
配偶者 なし
事務所 東宝芸能
主な作品
テレビドラマ
バラエティー番組
ライオンのいただきます
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塩沢 ときしおざわ とき[1][2]1928年昭和3年〉4月1日[1] - 2007年平成19年〉5月17日)は、日本女優。本名及び旧芸名は塩沢 登代路しおざわ とよじ[1][3]

東京市牛込区[1]中里町[注釈 1]出身。実践高等女学校卒。亡くなるまで東宝芸能に所属[3]

来歴[編集]

1947年越後憲杉葉子らと東宝ニューフェイス第2期に合格[1][3]。芸能界入りからしばらくは、三越のファッションショーにモデルとしてたびたび出演した[4]1950年端役で『女三四郎』で映画初出演。以降、1950年代の東宝作品に出演し、デビューからしばらくは本名の塩沢登代路で活動した[4]

1958年舌癌を病み、手術の際に総入れ歯となったが、幸運にも担当医が舌癌の最新療法(当時)を学んでいたことで、寛解する[5]。ただし、この舌癌については1981年頃まで公表しなかった(後述)。

1961年の映画『アワモリ君売出す』にコミカルな講師役[注釈 2]で出演したことが転機となった[注釈 3]。その演技から本人に「明るく健康なイメージ」がつき、コミカルな役が増えるきっかけとなった[4]

1969年に放送開始された『ケンちゃんシリーズ』の全般に渡り、強烈な教育ママ役で数多くに出演。同作を皮切りに、1970年代に子供向け作品を中心に、上記を含めた様々な当たり役を得て脇役として大活躍した[4]

1972年、ドラマ『愛の戦士レインボーマン』の魔女・イグアナ役の怪演で演技の幅を広げ、より一層個性的な女優となる[4]1973年には、『へんしん!ポンポコ玉』で覗き見が趣味の隣の奥さん・鵜之目タカ子役を演じる。1976年、『円盤戦争バンキッド』では家のアンテナの異変をいつも目撃して大騒ぎする宇崎家の婿養子・博彦(演:柳生博)の妻役を演じた[4]

1981年、『徹子の部屋』で、30歳の折の癌と総入れ歯のエピソードを初告白、その後、自らの癌体験を本にして出版する。また、このときに過去の恋愛も披露し、さらには「男性のものを頂く」という間接的表現で精飲など情熱的な性行為を告白した。

1984年、『ライオンのいただきます』(以下、『いただきます』)にゲスト出演。派手なメガネと大きく結った独特のヘアスタイルに加え、その上品な口調でざっくばらんに下ネタを連発するトークがウケて出演を重ね、老若男女から一躍人気を得た[4]。また同時期に放送された『月曜ドラマランド』などでは、お金持ちの奥様役やカカア天下の上司夫人役を多く演じた。

1985年(昭和60年)、57歳。右乳癌を患い入院、手術。その後はマイペースにドラマ、映画、舞台、などの仕事をこなしていく。また、上記により世間を楽しませたことから、同年に「ゆうもあ大賞」を受賞[注釈 4]

1999年(平成11年)、71歳。今度は骨粗鬆症を患うが、5年間の闘病生活を送る[4]なか、その間も杖を使いながら少しずつドラマなどの仕事をこなす。

2004年(平成16年)、76歳。新薬の効果で骨粗鬆症を無事完治したのもつかの間、左胸に違和感があり、9月に受けた前回の執刀医による診察で、乳癌であることが判明。ごく初期だったため、乳房を残す方法も検討されたが「ありったけ取ってください」と全摘出。手術は無事成功し、回復後元気に仕事をこなす。

2005年、乳がんの手術のためにテレビ出演はできなかった。最後のテレビ出演は2005年5月12日放送された『徹子の部屋』だった。

2007年5月17日スキルス性胃癌のため東京都目黒区病院死去。79歳没。舌癌・左右両方の乳癌と3回もの癌の罹病を克服し、「癌は治る」と元気に話していた最中の死去であった。

生前、両親の生まれ故郷である長野県飯田市内に自身の墓を建てており、死後はそこに埋葬された[4]。墓には本名ではなく芸名の「塩沢とき」が刻まれ、墓石の隣には「とき観音」が建てられた[4]

エピソード[編集]

20代の頃の恋愛と舌がん[編集]

1950年に清楚な女優として映画デビューしたが、あまりパッとせず中々芽が出なかった[4]。本人はその理由を「まだ処女で色気がないからだ」と考え、当時たまたま知り合った23歳年上の会社社長に抱かれることを決めたという[4]。その男性が他の女性と付き合っていることを知りつつ、密かに彼と7年ほど付き合い、その間4回も彼との子を中絶した[4]

会社社長と別れ、30歳を迎えた1958年に突如舌がんを診断され、治療したが周りにはこのことをひた隠しにした。その後1981年に出演した『徹子の部屋』でがん体験を公に初告白し、同時に上記の恋愛についても赤裸々に語った[4]。後日、本人は「プライベートを話したことで、長年の憑き物が落ちたようだ」と言ったという[4]

女優として[編集]

『ケンちゃんシリーズ』で主演を演じた元子役・宮脇康之(現:宮脇健)からは後年、「短い場面の出演でも存在感があり、いつも印象に残る演技をされる方でした」と評されている[4]。また宮脇は、「視聴者には“アクの強いおばさん”のイメージが強いかもしれませんが、普段の塩沢さんはおとなしく声のトーンも穏やかでした。芝居とプライベートのギャップこそ塩沢さんの魅力でした」とも語っている[4]

『愛の戦士レインボーマン』の魔女・イグアナ役に関して、「メイクも衣装も全て自分で考えた」と『テレビ探偵団』でコメントしていた[出典無効][注釈 5]

生前、「(半生を踏まえて)自分の境遇が充実して幸せに生きていたら、楽しくて明るい演技はできない」というのが口癖だった[4]。その後還暦を迎えた頃の自著で、以下のように語っている。「私も女優となった以上、そりゃスターになりたかった。なにしろこれだけ女優生活が長くても主役ってただの一度もないのだから」[4][注釈 6]

バラエティ番組でのブレイク[編集]

1984年のバラエティ番組『いただきます』の出演に際し、自宅の洋服ダンスから一番派手な服を選び、美容院で当時のデヴィ夫人を意識した髪型にしてもらった[4]。この髪型は当初地毛による控えめなものだったが、同番組の出演を追うごとに徐々に大きくした[6]。その後髪の毛の下に特注の発泡スチロールを詰め込み、キノコのような独特の左右に張り出した巨大な髪型(かつら)になった[4]。最終的にセットに約2時間、元に戻すのに30分かかる大きさとなった[6]

同番組ではこの奇抜な出で立ちに加え、「身のシタ相談」に寄せられる視聴者からのハガキに上品な口調で下ネタ(セックス談義)を連発するキャラクターで一躍大人気となった[4][6]。ある日の視聴者からの「彼の精液がどうしても飲めないんです」という相談に対して、「私なんか(今迄に)一ぐらい飲みましたわよ」と発言したこともあった[出典無効]。またこのブレイク以降、週刊誌のインタビュー記事でも「女性はスケベでなくちゃいけませんね」、「恋愛では、多い時はお相手が15人もいました」など、性について奔放な発言をした[4]

右胸の乳がん発覚[編集]

ブレイク中の1985年7月23日、いつものように肌にローションを塗っていた所、右乳房にしこりを発見。2日後国立がんセンターで検査を受けると、右胸の乳がんと診断された[5]。舌がんの経験によりがんに対して敏感だったことから、右乳房の乳がんも比較的早期発見となった[5]

元マネジャーの松野行秀(現:ゴージャス松野)によると、がんの摘出手術から目を覚ますと病室にあったテレビから偶然、日本航空123便墜落事故現場のニュースが流れていた[4]。先の舌がんを含めて大病した塩沢は、この事故映像を見て「自分もいつまで生きられるか分からない。だったら自分の思い通りに生きよう」と決意[4]。以降仕事の時は、できるだけ周りの人の印象に残るように振る舞うようになったという[4]

同年8月12日に右乳房を切除する手術を受けて24日に退院し、9月16日の『いただきます』の出演から仕事復帰した[注釈 7]。後年左胸の乳がんが判明して全摘出した際は、「オッパイを残すとか残さないとか色々言っても、それを言えるうちが花。生き延びるためならオッパイと命は、天秤にかけられないでしょう」と発言した[5]

人物[編集]

  • 塩沢が生まれた頃、父親は伊那電気鉄道(現・JR飯田線)に勤めていた。塩沢の本名の登代路とよじは、伊那電鉄が当時開発していた豊橋とよはし)駅〜川路(かわ)駅にちなみ、名付けられた[4][注釈 8]。ちなみに平田昭彦は小学校の同級生で、同じ東宝に所属し多くの作品で共演していた。
  • 趣味は食べ歩き。好物はヒレステーキ。
  • 癌による乳房切除までは巨乳の芸能人として有名だった。ちなみに右胸の乳がんの手術後である翌1986年、患者役でゲスト出演した『今夜は最高!』では、医者に扮したタモリを驚かそうと無傷の左胸を突然ポロリと披露した[注釈 9][4]
  • 先述の独特な髪型である巨大なかつらのうち、1つは末成由美に進呈した。
  • モットーは「がんと共生する」[4]。普段の生活では「気配りをしすぎず、ストレスを溜めないことが肝要」との考えを持っていた[4]
  • 世田谷の家賃5万円ほどの借家に生涯住み続け、『いただきます』のブレイク後も生活は質素なものだった。在宅時も外の世界を遮断するように雨戸を閉めて過ごし、自分の世界にこもるように暮らしていた[4]。また、仕事の時は明るくあけすけな言動をしていたが、普段は神経質な所もあり、眠る時はアイマスクと耳栓を欠かさなかった[4]。生涯結婚することなく独身を通していた[4]

出演作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

舞台[編集]

  • アニーよ銃をとれ(1964年)
  • いちばん星(1978年)
  • ミズ(1984年)
  • ふしぎの国のアリス(1985年、シアターアプル)
  • 喜劇・手枕さげて(1986年、名鉄ホール)
  • 風と共に去りぬ(1987年、帝国劇場)
  • 義理人情いろはにほへど若旦那(1988年、新宿コマ)
  • 遠山の金さん(1991年、新歌舞伎座)
  • アンの愛情(1991年、東京芸術劇場 / 大阪メルパルク)
  • エニシング・ゴーズ(1991年、日生劇場 / 中日劇場)
  • リリーとリリー(1991年、セゾン劇場)
  • 大草原の小さな家(1993年 - 1996年、東京厚生年金会館 他)
  • アーサー家のローズ(1994年、新神戸オリエンタル劇場 / 博品館)
  • 名古屋嫁取り物語(1996年、中日劇場)
  • 五木ひろし特別公演(1998年、明治座)
  • 満ちたりぬ月(1998年、名鉄ホール)
  • 新・名古屋嫁取り物語(1998年、中日劇場)
  • あばれ女将(1999年、帝国劇場)
  • 松井誠奮闘公演 女形気三郎(2001年、サンシャイン劇場)
  • 嫁も姑も皆幽霊(2002年、三越劇場)
  • しあわせ家族(2004年、名鉄ホール 他)
  • 嫁も姑も皆幽霊(2004年、名鉄ホール)
  • 嫁も姑も皆幽霊(劇団NLTに客演)

劇場アニメ[編集]

吹き替え[編集]

  • イタリア式恋人アタック作戦 - フランチェスカ・ロマーナ・コルッツィ
  • 悪魔の毒々おばあちゃん - ダニー・デイヴン

バラエティ[編集]

CM[編集]

トークショー・講演会[編集]

  • 塩沢ときの泣き笑い人生

著書[編集]

  • 『愛ときどき涙-ガンも男も乗り越えて、いま青春まっただ中』(1985年、講談社
  • 『ときさんの いつだっておんな盛り花盛り-泣いても笑っても、いいじゃございません?!』(1988年、ベストセラーズ
  • 『がん人生』(1992年、データハウス)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 現・東京都新宿区中里町。
  2. ^ 女性らしい女性をつくる学校の設定で、生徒たちは美しい立ち振る舞いや男を悩殺するウインクの仕方なども学ぶ。
  3. ^ また、永六輔は同役の演技を絶賛し、後日彼女に自作のドラマへの出演依頼をしたという[4]
  4. ^ この年の受賞者は、他にアナウンサー・生方恵一、日本テレビディレクター(当時)の佐藤孝吉[4]
  5. ^ ドラマ終盤には再登板の依頼があったが、スケジュールが合わず実現しなかった。
  6. ^ ただし実際には、1954年の映画『うれし恥かし看板娘』で主役を演じている。
  7. ^ その放送では、「片パイ」のイラストを掲げて、手術当日に起きた日航機墜落事故に触れ、「私なんかオッパイが一つなくなっただけで(大変な墜落事故に比べたら)何でもない」と語った[5]
  8. ^ 当時の川路駅の駅名は「伊那川路」駅。伊那電気鉄道は1927年に起点の辰野駅から伊那川路のひとつ先にある天竜峡駅までの路線を全通させ、豊橋までは他の私鉄への直通で乗り入れる構想を持っていた(1937年に実現)。
  9. ^ 本人曰く「(左胸も乳がんになる可能性を見越して)こういうことができなくなる前に記念にやっておきたかった」とのこと[7]
  10. ^ デビュー作。
  11. ^ 本名から「塩沢とき」に改名[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 東宝特撮映画全史 1983, p. 530, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  2. ^ a b c ゴジラ大百科 1993, p. 121, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  3. ^ a b c 東宝特撮女優大全集 2014, p. 47, 文・浦山珠夫「一度見たら忘れない!パワフル個性派女優たち」
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 週刊現代2022年11月5日号「脇役稼業」第19回塩沢とき「ぶっとんだ女(ひと)」p25 - 32
  5. ^ a b c d e 乳がんで右乳房を切除した塩沢とき(その2)”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2013年4月2日). 2021年11月7日閲覧。
  6. ^ a b c 乳がんで右乳房を切除した塩沢とき(その1)”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2013年4月2日). 2021年11月7日閲覧。
  7. ^ 乳がんで右乳房を切除した塩沢とき(その3)”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2013年4月2日). 2021年11月7日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一Gakken〈Gakken MOOK〉、1993年12月10日。 
  • 別冊映画秘宝編集部 編『〈保存版〉別冊映画秘宝 東宝特撮女優大全集』洋泉社、2014年9月24日。ISBN 978-4-8003-0495-7 

外部リンク[編集]