因斯羅我

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因斯羅我
各種表記
ハングル 인사라아
漢字 因斯羅我
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: いんしらが
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因斯羅我(いんしらが、生没年不詳)は、百済から渡来したと伝える画工[1]。『新撰姓氏録』によると、中国人の末裔(百済に帰化していた中国系技術者)。画部因斯羅我(えかきべ いんしらが)とも。

概要[編集]

日本書紀』雄略紀七年条によると、463年陶部高貴鞍部堅貴、因斯羅我、錦部定安那錦らの四衆の工匠・画工群、及び訳語卯安那が百済から来日したという[1]雄略天皇は、通説では中国南朝に遣使した倭王武であるため、『日本書紀』雄略紀七年条記事が事実であるならば、5世紀の第四四半期に百済から工匠・画工群が渡来して、すでに中国で発達していた作画技術を伝えたことになるが、これには別伝があり、『新撰姓氏録』には、左京に貫籍された大岡忌寸の家系を「魏の文帝の後安貴公より出づ。雄略天皇の御世四部の衆を率いて帰化す。男龍〈一名辰貴〉絵工を善くす。小泊瀨稚鷦鷯天皇〈武烈〉其の能を美めて姓を首と賜ふ。五世の孫勤大壱恵尊亦絵の才に工なり。天智天皇の御世、姓を倭画師と賜ふ。高野天皇神護景雲三年、居地に依りて改めて大崗忌寸の姓を賜ふ。」とある[2]。すなわち、画才の優れていたのは初代の安貴公よりもその子の龍といい、雄略代に四衆とともに渡来したというから、『日本書紀』記事と重なる。また、安貴公という『日本書紀』に無いよび名も、陶部高貴、鞍部堅貴と揃えている[2]

雄略天皇の治世は『古事記』『日本書紀』では、中国南朝への遣使が始まり、建築造船織機などの新技術の流入時期であるから、工匠・画工の家も自らの祖先がこの時代に渡来したことを伝えてきたものとみられる[3]。また、工匠・画工群が渡来してきたという本家の百済も、『三国史記』百済本紀聖王十九年(541年)条に、「王使を遣してに入らしめて朝貢し、兼ねて表して、毛詩博士涅槃等の経義、並びに工匠・画師等を請ふ。」とあり、6世紀後半でも、中国から工匠・画工群を招いており、とても自国の需要に応えうる工匠・画工は育っていない[3]。したがって、最初の工匠・画工群が百済から渡来したことを5世紀にあてることは問題が多く、この辺りの『日本書紀』記事の紀年には信憑性はなく、内容も説話的である。雄略とおくり名されたこの天皇は、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣から読みとれた「大王」がそれとされるが、様々な出来事の伝承が、ことさらこの治世の出来事として集められた傾向にあり、工匠・画工群の渡来も事実であるかは不明である[3]。また、工匠・画工群を百済から呼び寄せたきっかけは、天皇が吉備上道田狭の妻吉備稚媛が美人と聞き、吉備上道田狭朝鮮に追いやった留守に吉備稚媛を奪ったため、吉備上道田狭が敵対国である新羅と結んで反乱を計り、それを抑えるために、その子弟君の派遣時とされるが、事件自体が『旧約聖書』のダビデウリヤを戦場に送ってその妻を奪った話に類似した物語であり、それだけ説話的であるだけに、『日本書紀』でさえ、工匠・画工群について「或本に云ふ」として「漢手人部・衣縫部・宍人部」という異伝を紹介している[3]

『日本書紀』は7世紀から8世紀に編纂された史書であるため、記事編纂時の知識が投影されており、因斯羅我に画部という称を冠したのも、律令制下の画工司の職名である画部を念頭においている。ふつう××部というと、律令制成立以前に大和の国家が組織していた特定技能を有する隷属的部民集団か、それを率いる伴部を指すが、これ以後の史料からは画工が部民集団を形成したことは記録にない。後代の注釈書『釈日本紀』が、「画部」を「エカキ」と読ませ、わざわざ「部の字を読むべからず」という注記を附すのは、これが部民を指すものではないという知識がある[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b 日本人名大辞典+Plus因斯羅我』 - コトバンク
  2. ^ a b 武者小路穣『絵師』法政大学出版局〈ものと人間の文化史〉、1990年3月1日、15-16頁。ISBN 4588206311 
  3. ^ a b c d e 武者小路穣『絵師』法政大学出版局〈ものと人間の文化史〉、1990年3月1日、17-19頁。ISBN 4588206311