古田篤良

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古田 篤良
名前
カタカナ フルタ アツヨシ
ラテン文字 FURUTA Atsuyoshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1952-10-27) 1952年10月27日(71歳)[1]
出身地 広島県広島市
身長 174cm[1]
体重 70kg[1]
選手情報
ポジション DF
ユース
早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1975-1984 東洋工業
代表歴2
1971-1978 日本の旗 日本 32 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
2. 2018年5月28日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

古田 篤良(ふるた あつよし、1952年10月27日 - )は、広島県広島市舟入(現在の同市中区)出身[2] の元サッカー選手、サッカー指導者。

来歴[編集]

現役時代のポジションはFB(フルバック)。守りの要として活躍し、守備にとどまらず高いキック力で攻撃の起点にもなった。

小学5年生からサッカーをはじめ、広大付属高校時代は福原黎三から指導を受けた。1971年、日本で行われたAFCユース選手権1971では守備的なハーフバックとして、高田一美奥寺康彦永井良和らとプレーしている。

代表デビューは、早稲田大学1年時の1971年8月13日アイスランド代表[1]。18歳292日での代表デビューで、これは1998年に市川大祐に破られるまで日本代表の国際Aマッチ最年少出場記録だった。その後も1974 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選1976年モントリオールオリンピック予選、2度のアジア大会に出場した。

卒業後は東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島F.C)の選手として活躍。1978年には渡辺由一安原真一らとともに天皇杯決勝進出に貢献。

引退後は社業に専念する他、広島県サッカー協会の理事を務め、2018年3月に同協会会長に就任[3]。また、シニアサッカーの大会にも選手として出場している[4]

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1975 東洋 JSL1部 -
1976
1977
1978
1979 1 1 1 3 1 3
1980 1 1 0
1981 マツダ 1
1982
1983
1984 JSL2部 0 0
通算 日本 JSL1部 158 6
通算 日本 JSL2部 0 0
総通算 158 6

JSL東西対抗戦 3回出場(1979年、1981年、1982年)

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 32試合 0得点(1971-1978)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1971 1 0 2 0 3 0
1972 4 0 9 0 13 0
1973 3 0 3 0 6 0
1974 5 0 11 0 16 0
1975 11 0 5 0 16 0
1976 2 0 3 0 5 0
1977 0 0 0 0 0 0
1978 6 0 1 0 7 0
通算 32 0 34 0 66 0

出典[編集]

  1. ^ a b c d 親善試合”. 日本サッカー協会. 2018年6月1日閲覧。
  2. ^ 『早稲田大学ア式蹴球部50年史』WMW50年史編集委員会、1977年、p350
  3. ^ サッカースタジアム問題前進なき4年間…広島県サッカー協会、小城会長から古田会長へバトン”. ひろスポ! (2018年3月17日). 2018年6月1日閲覧。
  4. ^ 第16回全国シニア(60歳以上)サッカー大会”. 日本サッカー協会 (2016年6月7日). 2018年6月1日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『サッカーマガジン』1975年8月25日号

関連項目[編集]

外部リンク[編集]