南千住砂場

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南千住砂場
南千住砂場(2015年11月13日撮影)
地図
南千住砂場付近
店舗概要
所在地 103-0022
東京都荒川区南千住1丁目27番6号
座標 北緯35度43分59.67秒 東経139度47分26.95秒 / 北緯35.7332417度 東経139.7908194度 / 35.7332417; 139.7908194 (南千住砂場)座標: 北緯35度43分59.67秒 東経139度47分26.95秒 / 北緯35.7332417度 東経139.7908194度 / 35.7332417; 139.7908194 (南千住砂場)
開業日 金曜日 - 水曜日
閉業日 木曜日
正式名称 南千住砂場
施設所有者 有限会社砂場
営業時間 午前10時30分 - 午後8時
駐車台数 0台
前身 糀町七丁目砂場藤吉
最寄駅 JR常磐線南千住駅
都電荒川線三ノ輪橋駅
東京メトロ日比谷線三ノ輪駅
最寄IC 首都高速入谷出入口
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有限会社砂場
種類 特例有限会社
本社所在地 日本の旗 日本
103-0022
東京都荒川区南千住1丁目27番6号
業種 小売業
法人番号 4011502009268
事業内容 そば店の運営
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南千住砂場(みなみせんじゅすなば)は、東京都荒川区南千住一丁目にある嘉永期(1848年-1854年)に創業のそば屋。江戸以来、東京の「砂場」は、ふたつの系統が伝えられてきた、そのうちのひとつの本家。

概要[編集]

寛政10年(1798年)、『摂津名所図会』、「砂場いづみや」の表口の挿絵[1]
寛政10年(1798年)、『摂津名所図会』、「砂場いづみや」の店内の挿絵[1]
寛政10年(1798年)、『摂津名所図会』、「砂場いづみや」の店内の挿絵[1]
嘉永2年(1849年)、『二千年袖鑒』、「津国屋」の表口の挿絵[2]

嘉永元年(1848年)、江戸名物のひとつとまで評価された「糀町七丁目砂場藤吉(現・南千住砂場)」は、幕末維新当時の当主は十一代目・長岡保で、動乱の時代にも暖簾を守り続け「本石町砂場(現・室町砂場)」と「琴平砂場(現・虎ノ門大坂屋砂場)」の、2軒の名店を輩出している。「糀町七丁目砂場藤吉」は、「巴町砂場」とともに江戸時代から続く老舗で、江戸・東京を代表する「砂場」の暖簾である。1889年明治22年)、菩提寺である常仙寺で保管されていた過去帳が紛失、「糀町七丁目砂場藤吉」の店暦を物語る資料を散逸したため、現在に至るまで十四代を重ねたことは明らかだが、創業年は不明である。

江戸時代の「糀町七丁目砂場藤吉」の場所、麹町七丁目は現在の麹町四丁目で、嘉永期(1848年-1854年)の切絵図によれば、麹町一帯はほとんど大名屋敷や旗本屋敷の武家地であった。「久保町すなば」同様、容易にそば屋が開業できる場所ではなく、「糀町七丁目砂場藤吉」にも相当の後ろ盾がついていたのだろう。1912年大正元年)、十二代目・長岡紋治郎のとき、現在の荒川区南千住一丁目に移転した。江戸時代の千住は江戸四宿のひとつの千住宿で、奥州日光水戸の三街道が通る東京の北の玄関口だった。

砂場」の名は、豊臣秀吉大坂を築いたとき、大坂の和泉屋という菓子屋が、資材の砂置き場に蕎麦屋を開店し、「砂場」と呼ばれていたのに始まる。徳川家康江戸城を築くときは、江戸に進出し糀町(現・麹町)に店を構えた。

沿革[編集]

  • 1583年天正11年) - 豊臣秀吉大阪城築城に着手。
  • 1629年寛永6年) - 大阪城が完成した後、砂場跡地一体帯を整備した新町に、官許の遊郭が建設され、新町遊郭は江戸吉原京都島原 (京都)、と並び称される一大遊里となる。
  • 1730年享保15年) - 『絵本御伽品鏡』、長谷川光信画、千草屋新右衛門、享保15年(1730年)には、「いづミや」という暖簾を掛けた麺類屋がある、当時の大坂市中の名物を狂歌とともに紹介した絵本である[3]
  • 1757年宝暦7年) - 『大坂新町細見之図澪標』、「廓名物之分」、宝暦7年(1757年)には、大阪城築城のさいの、資材の砂や砂利の置き場になった新町砂場地域には、「和泉屋」と「津国屋」の2軒の麺類屋があった[4]。細見とは、江戸・吉原の妓楼や遊女名、玉代などを事細かに記した遊郭案内書[5]。「和泉屋」と「津国屋」の初代は、どちらも和泉国(現・大阪府南部)の出身である。
  • 1777年安永6年) - 『富貴地座位』、安永6年(1777年)には、三都(京・江戸・大坂)の名物を紹介しており、浪花名物の「和泉屋」について記している。
  • 1798年寛政10年) - 『摂津名所図会』、寛政10年(1798年)には、「砂場いづみや」として挿絵入りで紹介している[1]。挿絵は店の表口の様子と店内の光景をで、いかにも大店らしい立派な構えで、牡蠣殻葺きの庇の下には「すな場」と染め抜かれた暖簾がかけられている。店内は広大な土間に座敷の島がいくつも置かれ、座敷の間の通路は町中の往来のように広い。店の裏側には、鰹節の蔵、そばの蔵、麦の蔵、醤油の蔵に、臼十二と書かれた臼部屋がある[5]
  • 1849年嘉永2年) - 『二千年袖鑒』、伊豫屋善兵衛、嘉永2年(1849年)には、「津国屋」の外観を描いた挿絵がある、牡蠣殻葺きの庇の下に「すなば」と書かれた暖簾がかけられている[2]。牡蠣殻葺きは享保頃(1716年-1736年)から江戸や大坂などの町屋で防火上用いられた、店構えは「和泉屋」の表口の様子と似ている[5]
  • 1912年大正元年) - 十二代目・長岡紋治郎の時、現在の荒川区南千住一丁目に移転、麹町から移転した原因は先物相場での失敗だった。店名も「南千住砂場」と改称した。
  • 1933年昭和8年) - 暖簾会「砂場長栄会」を結成、初代会長に「南千住砂場」十二代目・長岡紋治郎が務める。
  • 1954年(昭和29年) - 現在の店舗は1954年(昭和29年)の普請で、東京の昔のそば屋を偲ばせる、風情ある木造建築である。昔から夏は白地、冬は紺地と暖簾を使い分け、軒下には「江戸麹町七丁目砂場」と書かれた提灯が提げられている。
「この家を建ててくれた大工さんは近所の人で、まだ健在です。もう90歳くらいでしょうか。そば屋の建物専門の大工というわけではないのですが、建てる前に、都内の老舗のそば屋をひととおり見て歩いたそうです。」 — 十四代目長岡孝嗣 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、「砂場の系図」より抜粋[5]
  • 1955年(昭和30年)11月 - 「砂場長栄会」から暖簾会「砂場会」に受継がれ、会長「虎ノ門大坂屋砂場」稲垣一男、副会長「南千住砂場」十三代目・長岡源太郎、ほか2名、相談役「巴町砂場」萩原長康と「室町砂場」三代目・村松茂となる。
  • 1956年(昭和31年)11月1日 - 「砂場」と「すなば」の商標登録が正式に認可、会員数は28軒。その後、商標登録は「す奈ば」、「寿那ば」、「寿奈ば」が加えられた。
  • 1963年(昭和38年) - 「南千住砂場」十三代目・長岡源太郎が43歳で急逝。十四代目を継ぐ孝嗣は小学校5年生で、未亡人となったサクヨが店を切り盛りして暖簾を守った。
  • 1985年(昭和60年)3月 - 大阪新町南公園に「ここに砂場ありき」の石碑が建立され[6]、二代目会長「巴町砂場」萩原長昭ほか出席し除幕式 。
  • 2003年(平成15年) - 「南千住砂場」十三代目・長岡源太郎の妻・サクヨが79歳で亡くなる。
  • 2016年(平成28年) - 現在、「南千住砂場」十四代目・長岡孝嗣が暖簾を受継いでいる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『摂津名所図会』、秋里籬嶌著、竹原春朝齋図画、森本太助、寛政10年(1798年)
  2. ^ a b 『二千年袖鑒』、伊豫屋善兵衛、堀田両平氏寄贈、嘉永2年(1849年)
  3. ^ 絵本御伽品鏡』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 長谷川光信画、千草屋新右衛門、享保15年(1730年)、2016年4月11日閲覧
  4. ^ 大坂新町細見之図澪標』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 靖中菴畫、「廓名物之分」、和泉屋卯兵衞、宝暦7年(1757年)、2016年4月11日閲覧
  5. ^ a b c d 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、「砂場の系図」、光文社、2011年(平成23年)7月20日、2016年2月20日閲覧
  6. ^ 「老舗そば屋の碑 江戸のツルッ 大阪生まれ」 - 朝日新聞、2011年(平成23年)5月11日、2016年4月10日閲覧

関連項目[編集]