勝矢寿延

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勝矢 寿延
名前
愛称 ガッチャ
カタカナ カツヤ トシノブ
ラテン文字 KATSUYA Toshinobu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1961-09-02) 1961年9月2日(62歳)
出身地 長崎県
身長 175cm
体重 76kg
選手情報
ポジション DF
利き足 右足
ユース
島原商業高校
1980-1983 大阪商業大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1984-1991 本田技研工業 140 (6)
1991-1992 日産自動車 20 (0)
1992-1993 横浜マリノス 25 (0)
1994-1997 ジュビロ磐田 99 (2)
1998 セレッソ大阪 14 (0)
代表歴2
1985-1993 日本の旗 日本 27 (0)
1989  日本フットサル 3 (0)
監督歴
2000 セレッソ大阪U-13
1. 国内リーグ戦に限る。
2. 1993年10月28日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

勝矢 寿延(かつや としのぶ、1961年9月2日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF。元サッカー日本代表。元フットサル日本代表。

人物[編集]

島原商業高校時代は全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。大阪商業大学を経て、本田技研工業に入社。センターバックとして活躍すると、1985年に開催された1986 FIFAワールドカップ・アジア予選香港戦でAマッチ初出場[1]。アジア地区最終予選の韓国戦の第2戦にも出場したが、0-1と破れ[2]ワールドカップ出場はならなかった。1987年にはソウル五輪のアジア地区最終予選まで進出したが、最終戦で中国に敗れ敗退。以降は代表を遠ざかったが、1991年に日産自動車へ移籍し存在感を発揮すると、新たに代表監督に就任したハンス・オフトによって代表に復帰。1992年のキリンカップ、アルゼンチン戦で約5年振りにAマッチ出場を果たし[1]、同年のアジアカップでも決勝のサウジアラビア戦を含む3試合に出場して優勝に貢献した。また1989 FIFAフットサル世界選手権フットサル日本代表として出場した。

1993年、Jリーグの開幕戦となったヴェルディ川崎戦にも先発出場[3]、同年7月17日にはJリーグオールスターサッカーに先発出場した[4]サッカー日本代表では、クラブと同じポジションであるセンターバック、もしくは右サイドバックの主に控えの立場であったが、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選では都並敏史の故障により代役探しに苦戦していた左サイドバックとして、第3戦の北朝鮮戦に三浦泰年に変わって先発出場。未経験のポジションながら安定した守備で勝利に貢献[5][6][7]すると、第4戦以降も起用され、ドーハの悲劇で知られるイラク戦にもフル出場した[8]。なお、日本がアジア最終予選まで勝ち上がりながらも本大会出場を逃した3つの大会(85年W杯予選、87年五輪予選、93年W杯予選)で、そのすべての最終予選に参加した選手は勝矢と都並のみで、すべての大会で試合出場もしたのは勝矢のみである。

マリノスではレギュラークラスの選手であったが、1994年、日本代表に復帰させ指導したオフトが監督に就任することとなったジュビロ磐田に移籍、11月19日、シーズン最終節の鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決めた[9]。同年、2年連続となるJリーグオールスターサッカーのメンバーに選出されていたが、怪我のため出場出来なかった[10]。ジュビロでの最終年は控え選手としてのプレーとなったが、1997年には2ndステージ優勝、Jリーグ年間チャンピオンにも輝いた。

1998年にセレッソ大阪に移籍、ファーストステージ開幕当初はレギュラーとしてプレーしたが、セカンドステージに入るとベンチを温める試合が増え、最終節のアビスパ福岡戦に後半開始から出場したのを[11]最後に現役を引退。C大阪のチーム統括部でコーチなどを歴任。2007年5月に強化部スカウト総括責任者に就任。2013年12月、C大阪の強化部長に就任した[12]

2015年2月10日、C大阪のサッカースクールのスクールマスターに就任した[13]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1984 本田 8 JSL1部 16 1
1985 22 0
1986-87 19 1
1987-88 22 1 3 0
1988-89 18 0 1 0
1989-90 22 2 2 1
1990-91 21 1 4 0
1991-92 日産 26 20 0 3 0
1992 横浜M - J - 6 0 0 0 6 0
1993 25 0 0 0 1 0 26 0
1994 磐田 22 1 0 0 1 0 23 1
1995 35 1 - 0 0 35 1
1996 27 0 13 1 1 0 41 1
1997 26 15 0 4 0 2 0 21 0
1998 C大阪 15 14 0 0 0 0 0 14 0
通算 日本 J 138 2 23 1
日本 JSL1部 160 6
総通算 298 8

JSLオールスターサッカー 4回出場(1987年、1988年、1989年、1991年)

その他の公式戦

代表歴[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 27試合 0得点(1985年 - 1993年)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1985 2 0 0 0 2 0
1986 4 0 3 0 7 0
1987 6 0 10 0 16 0
1988 0 0 0 0 0 0
1989 0 0 0 0 0 0
1990 0 0 0 0 0 0
1991 0 0 0 0 0 0
1992 9 0 5 0 14 0
1993 6 0 6 0 12 0
通算 27 0 24 0 51 0

指導歴[編集]

  • 1999年 - セレッソ大阪
    • 1999年:チーム統括部スカウト担当[13]
    • 2000年:U-13監督[13]
    • 2001年7月 - 12月:チーム統括部強化担当[13]
    • 2002年:チーム統括部チーフスポーツディレクター[13]
    • 2003年 - 2004年:チーム統括部テクニカルディレクター[13]
    • 2005年 - 2007年:トップチームコーチ[13]
    • 2007年5月 - 2013年:強化部スカウト統括責任者[13]
    • 2014年:強化部長[13]
    • 2015年2月 - :サッカースクール スクールマスター[13]

出典[編集]

  1. ^ a b 勝矢寿延”. jfootball. 2020年4月21日閲覧。
  2. ^ 1985 韓国vs日本”. samuraiblue. 2020年4月21日閲覧。
  3. ^ 93Jリーグサントリーシリーズ 第1節”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  4. ^ 93JリーグKodakオールスターサッカー”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  5. ^ 都並敏史が語るドーハの悲劇”. sportiva.shueisha. 2020年4月21日閲覧。
  6. ^ 今でも覚えているジャストミートの感触。「俺の中では完璧だった」【福田正博が語る“オフトジャパンの真実”EP4】”. www.legendsstadium.com. 2020年5月13日閲覧。
  7. ^ 93年のドーハ。DF勝矢寿延を奮い立たせたふたりとは? その4”. sportiva.shueisha. 2020年4月21日閲覧。
  8. ^ 93年のドーハ。DF勝矢寿延を奮い立たせたふたりとは? その5”. sportiva.shueisha. 2020年4月21日閲覧。
  9. ^ 勝矢寿延”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  10. ^ 週刊サッカーマガジン 1994年8月10日 no.466 p.6-7 ベースボールマガジン社
  11. ^ Jリーグ 1998年 セカンドステージ17節”. data-jleague. 2022年5月22日閲覧。
  12. ^ 勝矢寿延スカウト総括責任者 強化部長就任のお知らせ』(プレスリリース)セレッソ大阪、2013年12月30日https://www.cerezo.jp/news/2013-12-30-9/2020年4月29日閲覧 
  13. ^ a b c d e f g h i j 勝矢寿延氏 スクールマスター就任のお知らせ』(プレスリリース)セレッソ大阪、2015年2月10日https://www.cerezo.jp/news/2015-02-10-7/2020年4月29日閲覧 

外部リンク[編集]