加東大介

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かとう だいすけ
加東 大介
加東 大介
キネマ旬報』1961年11月上旬号より
本名 加藤 徳之助
別名義 市川 莚司(旧芸名)
生年月日 (1911-02-18) 1911年2月18日
没年月日 (1975-07-31) 1975年7月31日(64歳没)
出生地 日本の旗 日本東京市浅草区
(現:東京都台東区
身長 160 cm
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1929年 - 1975年
著名な家族 父:竹芝傳蔵
姉:矢島せい子
兄:沢村国太郎
姉:沢村貞子
主な作品
七人の侍』(1954年)
秋刀魚の味』(1962年)
 
受賞
ブルーリボン賞
助演男優賞
1952年荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』、『おかあさん
1955年血槍富士』、『ここに泉あり
その他の賞
毎日映画コンクール
男優助演賞
1952年『おかあさん』、『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』
1961年 第20回文藝春秋読者賞南の島に雪が降る
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加東 大介(かとう だいすけ、本名:加藤 徳之助、1911年2月18日 - 1975年7月31日)は、日本俳優

東京市浅草区(現:東京都台東区)生まれ。身長160cm。東京府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)卒。歌舞伎役者を経て映画デビュー。代表作は『七人の侍』、『大番』、『南の島に雪が降る』。

来歴[編集]

1956年

父親は宮戸座の座付き作者で演出助手であった竹芝傳蔵、兄は四代目沢村国太郎、姉には福祉運動家の矢島せい子沢村貞子がいる。甥には長門裕之津川雅彦の役者一家。息子・加藤晴之は、黒澤明の娘・黒澤和子と結婚して孫・加藤隆之(俳優)が産まれるが離婚している。

「自分のこどもはみな役者にする」[1]という父親の意向で、兄とともに歌舞伎の世界に入った。

東京府立第七中学校を卒業後、1929年に二世市川左団次に入門、1933年前進座に入り、市川莚司を名乗る[2]。まるまるとした肢体に似ぬ精悍さで、山崎進蔵(河野秋武)、市川扇升とともに前進座の若手三羽烏として活躍する。同年には大日本自由映画プロの『段七しぐれ』で映画デビュー、その後は山中貞雄監督の『河内山宗俊』(1936年)や『人情紙風船』(1937年)などに出演し、中堅俳優の一人として広く知られるようになる。

兵役を1933年に伍長勤務上等兵(後の兵長)で除隊し終えていたが、1943年に陸軍衛生伍長として応召。ニューギニア戦線で、兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられ、長谷川伸の戯曲『関の弥太っぺ[注釈 1]などを演じる。舞台に降る「雪」に故国を見た兵士たちの姿を描いた記録は、小説『南の島に雪が降る』に結実する。

1946年に復員するも、直後に戦地でかかった悪性マラリアが再発し、一時は危険な状態が続く。回復してからは再び役者として活動するが、左傾した前進座に嫌気が差して退団、兄の国太郎、姉の貞子とともに神技座を結成するも、運営が上手く続かず映画入りを決意する。1948年からは大映京都と専属契約し、同年の東横映画『五人の目撃者』では作品が現代劇であったことから、歌舞伎役者くさい莚司という芸名から加東大介に改名する。

1950年黒澤明監督の『羅生門』に出演したのち、1951年秋にフリーとなり東宝に移籍する。以降、『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)をはじめ、黒澤作品に常連として出演する。1952年に黒澤脚本の『決闘鍵屋の辻』、成瀬巳喜男監督の『おかあさん』での明朗できびきびとした演技が批評家から絶賛され、1952年度の毎日映画コンクールブルーリボン賞の男優助演賞を受賞、1955年には今井正監督の『ここに泉あり』、内田吐夢監督の『血槍富士』で2度目のブルーリボン助演賞を受賞した。

持ち前の明るさや誠実さで多くの監督から可愛がられ、黒澤や成瀬の他にも小津安二郎などの作品にも常連俳優として出演し、この時期は監督運にも恵まれる。また1956年に東宝がダイヤモンド・シリーズと銘打った文芸映画『鬼火』で主演したことがきっかけで、監督の千葉泰樹獅子文六の連載小説『大番』の主人公・株屋のギューちゃん役に抜擢され、加東はユーモラスでエネルギッシュな男を演じ、映画は大ヒット。大番シリーズは4本も作られ、ギューちゃんのあだ名はそのまま加東自身の代名詞となるまでになった。また森繁久彌小林桂樹と共演した『社長シリーズ』でも軽妙な重役を演じるなど、日本映画にかかせない名脇役として人気を博した。

1956年頃『週刊朝日』の「夢声対談・問答有用」でニューギニアでの戦争体験を語ったところ、徳川夢声から是非執筆するよう強く勧められ、また小島正雄からも勧められて執筆を行い、『文藝春秋』1961年3月号[注釈 2]にて「ジャングル劇場の始末記 - 南海の芝居に雪が降る」として発表。これにより第20回文藝春秋読者賞を受賞、のちにベストセラー小説となった。1961年4月この内容が小野田勇の脚色によって『南の島に雪が降る』の題でNHKでドラマ化され、後東宝で映画化され加東自身が主演して大いに話題となる[4]

1971年には28年ぶりに前進座の舞台にも立った。1972年大河ドラマ新・平家物語』で北条時政を演じた。

1975年2月に結腸癌で入院、本人は癌であることは知らず、病院からレギュラー出演であるドラマの収録現場に通い続けたが、入院してから5ヵ月後の7月31日に64歳で死去した。遺作は倉本聰脚本『6羽のかもめ』のマネージャ役。『七人の侍』の中では生き残った侍であったにもかかわらず、最初に鬼籍に入る。墓所は川崎市春秋苑

人物[編集]

  • 下町っ子らしい気風の良さで誰からも好かれた反面、一滴の酒も飲まなかったという。

出演作品[編集]

映画[編集]

人情紙風船』(1937年)
羅生門』(1950年)
おかあさん』(1952年)
七人の侍』(1954年)
用心棒』(1961年)
陸軍中野学校』(1966年)

テレビドラマ[編集]

CM[編集]

受賞歴[編集]

演じた俳優[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 映画、舞台化では同作家のより知名度の高い「瞼の母」(マノクワリ歌舞伎座杮落し公演の一本)に差替えられることが多い。
  2. ^ 従来1月とあったたが、正確には3月号[3]
  3. ^ 戦後の細野久は、山本寛斎の実地現場での師匠でもある。「山本寛斎#来歴」参照。

出典[編集]

  1. ^ (2ページ目)26年、36冊の献立日記…女優・沢村貞子が大切にした「身の丈に合った暮らし」|教養|婦人公論.jp”. 婦人公論.jp(2020年12月15日). 2021年12月10日閲覧。
  2. ^ 「文藝春秋」写真資料部. “加東大介の夢は、縁日のお店やさんになること | 「文藝春秋」写真資料部 | 文春写真館”. 本の話(2014年9月29日). 2021年12月10日閲覧。
  3. ^ 濱田研吾「脇役本・増補文庫版」(ちくま文庫)P.39
  4. ^ 南の島に雪が降る』1961年「あとがき」より
  5. ^ 細野久『NHK婦人百科 立体式やさしい洋裁』日本放送出版協会、第7刷1981年5月(第1刷は1978年6月)、巻末奥付(p.160)「著者紹介」。
  6. ^ アサヒグラフ』1967年4月28日号、朝日新聞社
  7. ^ a b c 東宝特撮映画全史 1983, pp. 536–537, 「主要特撮作品配役リスト」
  8. ^ 1952年 第3回 ブルーリボン賞”. allcinema. 2022年9月20日閲覧。
  9. ^ ブルーリボン賞ヒストリー 成瀬巳喜男監督が「稲妻」で2年連続の作品賞”. シネマ報知. 2012年5月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。

参考文献[編集]

  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 

外部リンク[編集]