正平地震

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正平地震
康暦碑。康暦2年(1380年)建立。正平地震による津浪犠牲者の供養碑とされる。徳島県美波町東由岐。
本震
発生日 正平16年(康安元年)6月24日・ユリウス暦1361年7月26日
震央 北緯33度00分 東経135度00分 / 北緯33.0度 東経135.0度 / 33.0; 135.0座標: 北緯33度00分 東経135度00分 / 北緯33.0度 東経135.0度 / 33.0; 135.0[1][注 1][注 2]
規模    M814~8.5[1][注 2]
津波 あり
被害
被害地域 畿内・熊野・紀伊水道
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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正平地震(しょうへいじしん)は、室町時代前期(南北朝時代)の1361年に発生した大地震南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている[2]

この地震名の「正平」は南朝元号から取ったものであり、北朝の元号である康安から取って康安地震(こうあんじしん)とも呼称され、多くの史料が北朝の年号で書かれているため現在の日本史学の慣習に従って「康安地震」と称した方が良いとする意見がある[3][4]

記録は南海道沖の地震と思われるものであるが、発掘調査や史料の解釈などにより東海道沖の地震も連動した可能性が提唱されている。

地震の記録[編集]

信頼度の高い史料とされる当時の日記である『後愚昧記』、『忠光卿記』、『後深心院関白記』(『愚管記』)、および『斑鳩嘉元記』[5]、また信頼度は低いとされる文芸作品や後世の編纂物であるが『和漢合運』、『南方紀伝』、『太平記』、および『阿波志[6]などに地震被害の記録がある。

正平16年(康安元年)6月24日刻(ユリウス暦[J]1361年7月26日4時頃、グレゴリオ暦[G]1361年8月3日)、畿内熊野などで被害記録が残るような大地震が発生した。

『後愚昧記』などには摂津四天王寺の金堂、奈良唐招提寺薬師寺山城東寺など堂塔が破損、倒壊したと記録される。『斑鳩嘉元記』によれば、法隆寺で金堂の仏壇が崩れ、東大門の築地の破損、東院伝法堂の壁が落下し、塔の九輪の上部の火炎(水煙)が折損した。なお、この塔の九輪の上で火災が生じたとする解釈があるが[7][8]、それは『斑鳩嘉元記』の「當寺ニハ御塔九輪之上火、一折ニテ下モヘハヲチス、(折れ懸けにて下へは落ちず)」を、「當寺ニハ御塔九輪之上火、一折テ下モヘハヲチス、」と誤読した翻刻文を掲載した『大日本地震史料』[9]によるものと思われる[10]

また『斑鳩嘉元記』には、薬師寺で金堂二階の傾損、2基の塔の内、1基の塔の九輪の落下、唐招提寺でも九輪の大破、回廊の転倒、諸堂の破損したとある。さらに紀伊では湯の峯温泉の湧出が停止し、熊野山の山路や山河の破損が多く、『愚管記』には熊野神社の社頭や仮殿が尽く破損したとある[5][11]

『太平記』巻第三十六、地震と夏雪の記録。軍記物語ゆえに文学的、誇張的表現、あるいは創作による不正確な記述も見られるが、阿波雪湊(由岐)の津波の存在は事実であろうとされる[5]

大地震並夏雪事

同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗男女、牛馬鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。

七月〔ママ〕二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。

又八月〔ママ〕二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。

鳴戸では三四日前に海が干上がり、地震前後に数時間に亘って地鳴りが響き渡り、地震による地殻変動と思われる現象で再び没して海に戻った様子が比喩的に表現されている。また6月22日の地震(前震?)の日は盛夏にもかかわらず冬至前後の様な寒さでが降りだしたことが記録されている。この夏雪の記事は当時の公卿の日記には見られないが、『高野春秋』に「辛丑六月廿二日、俄大雪降積」とあり高野山では降雪があった可能性があるとされる[9][12]

三河の記録としては渥美郡堀切の『常光寺年代記』に「自六月一日より廿一日迄大地震地破」とある[13]

『皇年代略記』には「貞治元年壬寅九月廿三日改元、依兵革流病天変地震也。」とあって、翌年の貞治元年9月23日(ユリウス暦1362年10月11日)に兵革・疫病・天変地異によって「貞治」に改元された。

前震・余震[編集]

『後愚昧記』、『後深心院関白記』(『愚管記』)、『忠光卿記』、および『斑鳩嘉元記』など複数の史料に、本震の3日前および2日前、京都・畿内において強い地震の記録がある[14]。『日本被害地震総覧』[14]や『理科年表』[15]は「前震か?」としており、それが事実なら南海トラフ沿いの地震とされるものとしては確認できる唯一の前震の例となるが、この見方は誇張や誤りが多い『太平記』や『続本朝通鑑』の記述を鵜呑みにした史料批判精神に欠く今村明恒の見解による[16]

6月22日の地震は京都および大和で強震であり、法隆寺の築地が崩れ、天王寺の金堂が倒れる。『太平記』によれば6月18日頃、『後愚昧記』、『春日若宮神殿守記』によれば6月16日刻から畿内付近で地震が頻発した。

  • 正平16年6月21日刻(1361年7月23日18時頃[J]、7月31日[G])- 京都で地強く震う。
  • 正平16年6月22日刻(1361年7月24日6時頃[J]、8月1日[G])- 京都および大和で地強く震う。

史料によれば正平16年6月24日の他に、6月16、18、20、21、22、25(天王寺金堂倒壊)、26日、7月24日(摂津難波浦の津波、太平記36)、8月24日(山王寺伽藍倒壊、太平記36、本朝通鑑142)などの地震被害記録があり、余震が多かったものと見られる[12]。ただし、創作が多分に含まれる『太平記』やこれを基に記述された『本朝通鑑』にある7月24日および8月24日の地震記事は6月24日のものであると解釈されている[9]

『愚管記』、『後愚昧記』には、本地震の10日後に「地また大いに震う」とあり、観心寺に修法が命じられ、熾盛光法、尊星王法を宮中に修め、地震の厄を祓わせた[9]。『後愚昧記』によれば6月21日、6月24日の地震に匹敵する強い揺れであったという[12]

  • 正平16年7月4日刻(1361年8月5日16時頃[J]、8月13日[G])- 京都で地大いに震う。

津波[編集]

法隆寺の文書である『斑鳩嘉元記』には「又安居殿御所西浦マテシホミチテ其間ノ在家人民多以損失云々」とあり、海岸から約4kmの距離にあった天王寺の西に位置する安居殿御所の西側まで津波が押寄せたことになり、津波は宝永地震よりもさらに1km程内陸に及んだと解釈され、宝永地震と同様に連動型地震の可能性があるとされる[17]。ただし宝永期とは海岸線が異なることが考慮されていない[4]

当時、天王寺西門の坂下には「西浦」などと呼ばれる、ハマグリなどを採集・販売を生業とする商人らが居住する地域が広がっていたという[5]。当時の海岸線は江戸時代とは異なっており、西浦と呼ばれた地域の西端は天王寺と今宮の境界である日本橋筋辺りと推定され、津波の遡上高は最大で4.65m程度、少なくとも3.3mと推定され、安政津波は上回るが宝永津波を上回ったかは不明であるとされる[18]

貞治の碑。徳島県美波町由岐。貞治6年(1367年)に正平地震津浪犠牲者供養のため地蔵尊を刻んだ石が、安政南海地震の際、異様な光を放ち地元の人が祀ったと伝わる。

地震・津波の描写と思われる『太平記』の冒頭の部分は『方丈記』にある文治地震における「山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸をひたせり。」の記述に似る。難波浦では津波襲来の約1時間前に数百(数10km)潮が引き、干上がった海底の魚を拾い集めようとした漁師ら数百人が突如襲来した津波により溺死した。

『太平記』には「山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千萬と云数を知ず」と記述され、阿波の雪湊(現・徳島県美波町由岐地区)において大津波で1700余りの家が流失した様子も記され「家に居た僧俗男女、牛馬鶏犬。一つも残らず海底のもくずとなった」とある[19]。阿波における被害記録が確認されているのは『太平記』およびこれを基に記された『阿波志』のみであり、その他の古文書からは確認できないが、雪湊は『平家物語』にも登場し、この頃、土佐および九州への中継の立寄り湊として1700余戸の家数を持つ当時としては大きな湊町であったことは妥当であると推定される[5]。『阿波志』には「雪池は東西由岐村間にあり、康安元年、地大いに震い海湧き、全村蕩尽す六月十六日より地震十月に至る。地裂けて池となる」とあり、由岐大池がこの地震で出現した池であるとされる[20]

土佐における津波の記録は『土佐国編年紀事略』に記された香美郡田村下庄の正興寺における「正平十六年六月廿四日、高塩香美郡田村下庄正興寺ニ上ル古文書等多流失ス。」のみが確認されている[9][21][22]。この正興寺跡地の場所は現在の高知空港付近の南国市田村・前浜であり、標高は4.5mと測定され、古文書が流されたのであるから、古文書は地上1mの高さの位置にあったと考えて、津波の高さは5.5mと推定されている[23]

地震像[編集]

大森房吉(1913)は本地震を「畿内及び附近の地震」と分類し、震源域は奈良附近から大坂を経て四国東北端に延長する一帯とし、その中心は大阪湾にあり、1510年の摂津・河内で被害の著しかった永正地震や、1854年の伊賀上野地震の震源域に続くもので同系列の地震に属すと考えた[12]

対して、今村明恒(1933)は宝永地震や安政地震と同類の津波被害の著しい南海道沖の大地震としている[24]

この年には新潟焼山が噴火し、この山は887年仁和地震の当日や1854年安政地震の前後にも噴火したと考えられており、噴火と南海トラフ沿いの巨大地震との関係が示唆されている[25]

河角廣(1951)は規模MK = 7. を与え[26]マグニチュードM = 8.4に換算されている。宇津(2001)も M = 8.4とし[11]、これは宇佐美(2003)による推定値M 8+14 - 8.5[14]の中間値を四捨五入したものであるが、断片的な記録しか有しない歴史地震であり詳しい震源域も不明な点が多く数値の精度は高くない。

発掘調査[編集]

『太平記』などの地震被害の記録は、畿内から紀伊半島四国のものであり、南海道沖の地震と思われるものであるが、発掘調査により同時期に東海道沿いも震源域となっている可能性が示された[19][注 3]

同時期の東海道沖の地震の痕跡
同時期の南海道沖の地震の痕跡
  • 奈良県明日香村のカズマヤマ古墳では14世紀前半までに盗掘に遭ったと思われ石室が崩落し、その上に15世紀の地層が堆積していることから、盗掘後に大地震が起きたことを示唆している[28]
  • 和歌山県潮岬、出雲崎および荒船崎における生物遺骸群集の調査では宝永地震や正平地震による地殻変動と見られる離水の痕跡が発見される[29][30]
  • 橋杭岩 : 津波の高い流速による巨岩の移動、宝永地震および正平地震によると見られる痕跡有り[31][32]
  • 徳島市の中島田遺跡では13世紀後半から14世紀前半の地層を引き裂く砂脈が15世紀前半の遺構により削られており、この間に砂脈が生成したことが示される[28]
  • 徳島県板野町の黒谷川宮ノ前遺跡と古城遺跡では砂脈の先端が正平地震の時期の地層で削られている[28]
  • 高知県土佐市、蟹ヶ池 : 正平地震または康和地震と推定される津波堆積物[33]
  • 大分県佐伯市の間越龍神池では3300年前までの地層中に8枚の津波堆積物が発見され、特に大規模な地震のみが津波堆積物を生成したと考えられる。有史以来ではこのうち3枚であり、新しいものから1707年宝永地震、1361年正平地震、684年白鳳地震に対応することが可能である[34]

東海道沖の地震連動の可能性[編集]

遺跡の発掘や地質調査および大坂における津波の遡上範囲から、正平地震は宝永地震と並ぶ大規模な南海トラフ巨大地震であった可能性を示唆している[17][29][35]。また潮岬の橋杭岩の転石は、高い流速をもつ巨大津波によって移動した津波石と推定され、その移動は1707年の宝永地震によるものと、12-14世紀頃の移動の痕跡が認められ、正平地震の可能性があるとされる[31][32]

東海道沖の地震の震源域で発生したと考えられた1360年の地震は存在が疑われるが、本震の2日前の地震については、これを前震と考えるよりは、この22日の地震こそが正平東海地震であり、その後余震活動が活発となり南海地震に至ったと考える方が自然であるとされる[16][36][37]

伊勢神宮に伝わる『神宮文書』には、「康安元年六月の地震により外宮正殿の御壁板が抜け懸け、御束柱が顛倒する」との記載があり、この付近の烈震をもたらしたのは東南海地震の震源域が動いた可能性が高いとされる[38]。これは1944年昭和東南海地震および1707年宝永地震による伊勢神宮外宮の被害と比較して著しく大きく震度5を大きく上回った可能性があるとされる[39]

関連地震[編集]

13世紀頃の地震[編集]

1099年の康和地震[注 4]から263年の間隔があり、南海トラフ沿いの巨大地震とされる正平地震以降の間隔である約90 - 150年[注 5]よりも長くなっている。この間にも記録にない地震があった可能性が考えられている[注 3]

明月記』、『平戸記』、『百錬抄』および『吾妻鏡』などに京都鎌倉における13世紀前半の強震の記録が幾つか見られるが、南海トラフ沿いの地震とする確たる証拠は発見されていない。この時期の東海・南海地震の発生時期を歴史記録から推定する試みもある[42]

『平家物語』および『方丈記』に現れる津波被害と推定される記録から、1185年の畿内付近の大地震と推定されている文治地震を南海トラフ沿いの巨大地震とする見方もある[11][43]が、被害の様相から琵琶湖西岸断層帯南部の活動による内陸地殻内地震との説が有力視される[44][45][46]。また、京都の強震動と高い余震活動、奈良・摂津四天王寺の無被害は、南海トラフ沿いの地震とは様相が異なり、内陸浅発地震を強く示唆するものである[47]

1998年時点の地震調査研究推進本部による南海トラフ沿いの巨大地震の長期評価の試算で、暫定的にデータセットとして用いられた、貞永2年(天福元年)2月5日(1233年3月17日[J]、3月24日[G])に発生したとされる天福地震も、中世に関して信頼度が低い『蓮専寺記』の「五日大地震、大風大雨にて諸国大荒、諸方にて人死之数不知、家潰事数不知候」以外に記録が見当たらず、存在が疑問視されている[48]

南海トラフ沿いの巨大地震は200年程度あるいはそれ以上の発生間隔が本来の姿であるとする見方もある[49][50]

元弘元年の地震[編集]

『太平記』には、本地震の30年前の元弘元年(1331年)に、紀伊で地震が発生し千里浜の遠干潟が隆起して陸地になり、その4日後、駿河で地震が発生し富士山頂で崩落があったとする記録がある。

これを東海道沖の地震と関連の深い地震に位置付ける見方もある[51]

『太平記』巻第二。

天下怪異事

嘉暦二年の春の比南都大乗院禅師房と六方の大衆と、確執の事有て合戦に及ぶ。金堂、講堂、南円堂、西金堂、忽に兵火の余煙に焼失す。又元弘元年、山門東塔の北谷より兵火出来て、四王院、延命院、大講堂、法華堂、常行堂、一時に灰燼と成ぬ。是等をこそ、天下の災難を兼て知する処の前相かと人皆魂を冷しけるに、同年の七月三日大地震有て、紀伊国千里浜の遠干潟、俄に陸地になる事二十余町也。又同七日の酉の刻に地震有て、富士の絶頂崩るゝ事数百丈也と。

感応寺の第三代住職日寿の伝記に「この地震で感応山滝泉寺が崩壊し、その後駿府に移転されて改名されたのが今の感応寺である」とあり、寺の移転の事実が『日蓮宗宗学全書』でも確認され元弘元年の駿河地震の存在が確かであるとされる[52][53]一方、この1331年の地震の記事は疑わしい部分があり、感応寺の記録が『太平記』と独立であるとは限らないとされる[3][54]

正平15年の地震[編集]

紀伊日高郡『蓮専寺記』には、正平地震の前年に以下のような地震の記録がある[55]

四日大地震十三淘、同五日九ツ時大地震淘、同六日朝六ツ時過津浪上、熊野尾鷲より摂州兵庫まで大荒、牛午人之死る事数不知、

この前年の地震の記録は、正平南海地震に対する熊野灘以東が震源域である東海道沖の地震と考えられたことがある[56]が、南海トラフ沿いの巨大地震ならば当然強い揺れが予想される京都で記された『愚管記』、『後愚昧記』など公卿の記録になく、地震の存在自体が疑わしいとされる[14][57][36]

『蓮専寺記』は、近世以降の内容については信頼性が高くこの地域の大変貴重な史料とされている。しかし、現存する『蓮専寺記』は、江戸時代の文化年間に書写整理されたもので、また蓮専寺文明17年(1485年)開基であり、『蓮専寺記』の記録が書き始められたのは明暦3年(1657年)からで、それ以前あるいは開基以前の内容に関しては古くなるほど信頼性が低下し、中世の頃の記録は史料価値が低いとされる[48]。この地震記事は『熊野年代記』にある、康安辛丑(康安元年・正平16年)の大雪・大地震の記事を誤読して、延文庚子(延文5年・正平15年)に位置付けて『蓮専寺記』に記されたとみるべきとされる[58]。この偽地震は年表から削除されるべきとされる[16]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b c 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。地震学的な震源は地震計が無ければ決まらず、震源域が広大な巨大地震では無意味な上誤解を与える恐れがある。-石橋(2014), pp.7-8.
  2. ^ a b c d 日本地震学会HPにある、「日本付近のおもな被害地震年代表」は吉井敏尅の好意により『理科年表』を引用したものである。またその内容は吉井敏尅が監修者となった1986 - 2001年版と同一の文章である。
  3. ^ a b 液状化痕跡だけならば内陸地殻内地震やフィリピン海スラブ内地震の可能性も否定できない。また年代推定には幅がある(「総合報告:古地震研究によるプレート境界巨大地震の長期予測の問題点 -日本付近のプレート沈み込み帯を中心として-」『地震 第2輯』 1998年 50巻 appendix号 p.1-21, doi:10.4294/zisin1948.50.appendix_1)。
  4. ^ 1099年康和地震を南海道沖の地震とする根拠であった『広橋本兼仲卿記』の紙背文書に疑義があり、1096年永長地震こそが東海道沖に加え南海道沖の地震を含む巨大地震であったとする説が出され(石橋克彦(2016): [論説]1099年承徳(康和)南海地震は実在せず,1096年嘉保(永長)地震が「南海トラフ全域破壊型」だった可能性―土佐地震記事を含む『兼仲卿記』紙背の官宣旨案の考察― (PDF) , 歴史地震, 第31号, 81-88.)、その場合は265年の間隔となる。
  5. ^ 1605年慶長地震は南海トラフを震源とすることに異論が出されており(松浦律子(2014):[講演要旨]1605年慶長地震は南海トラフの地震か? (PDF) , 歴史地震, 第29号, 263.、石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21‒03.)、これを除けば1498年明応地震から1707年宝永地震の間隔は209年となる。
  6. ^ a b これらは存在自体が疑われる幽霊地震の可能性が高く、仮に存在してもその地震像は殆ど不明で不確定であるため文献などに規模や震央が記載されていても殆んど意味をなさない。日本地震学会HPに引用されている時点における『理科年表』の記事はその新たな知見が反映されていない。

出典[編集]

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参考文献[編集]

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