佐瀬勇次

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 佐瀬勇次 名誉九段
名前 佐瀬勇次
生年月日 (1919-03-17) 1919年3月17日
没年月日 (1994-03-25) 1994年3月25日(75歳没)
プロ入り年月日 1944年10月1日(25歳)
引退年月日 1990年3月31日(71歳)
棋士番号 41
出身地 千葉県山武郡松尾町(現・山武市
所属 将棋大成会
日本将棋連盟(関東)
師匠 石井秀吉七段
弟子 米長邦雄丸山忠久高橋道雄西村一義田丸昇木村一基室岡克彦植山悦行沼春雄中座真安西勝一谷川治恵真田彩子本田小百合中井広恵大庭美樹大庭美夏
段位 名誉九段
棋士DB 佐瀬勇次
戦績
通算成績 458–599 (.433)
2017年8月22日現在
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佐瀬 勇次(させ ゆうじ、1919年3月17日 - 1994年3月25日)は、将棋棋士千葉県山武郡松尾町(後の山武市)出身。石井秀吉七段門下。1990年引退。棋士番号41。

経歴[編集]

戦前のアマ名人戦の県代表となる。1938年入門。軍隊生活を経験し、復帰後の1944年に四段となる。1946年より順位戦に参加。

1974年日本将棋連盟専務理事

現役生活44年間対局不休、無遅刻の記録を続けながら1990年3月に引退。生涯成績は458勝599敗。

1994年3月、尿毒症のため死去。享年75。

人物[編集]

米長邦雄ら、多数の弟子を持ったことで知られ、名伯楽との評価が高い。

盤上では目立った実績はなく、内弟子の米長邦雄が、家の雑用などをしたときのご褒美の対局を「お断りします。師匠と指したら、師匠の癖がつき、師匠どまりの棋士になる」と拒否して、げんこつを食らったという逸話もある[1]。また「私が今日あるのは佐瀬先生に一局も教わらなかったから」とも言っていた。しかし師匠としては人望手腕ともに卓越しており、米長は「師匠どまりになる」と言ってげんこつを食らった逸話について「しばらくして『考えたら、お前の言うとおりだ』言われた」と明かしており「破門だ、出ていけ」と弟子に言わなかったのは名伯楽だとして深く敬っていた。

米長を内弟子として預かっていた昭和30年代初頭は将棋界全体が苦しい時代で、佐瀬もまた例外ではなく、北区・十条にある一軒家の二階を借りて住んでいたという[2]。そのような経済状態にありながら自らを内弟子として迎え入れてくれたことについて、後年の米長は「このご恩は何物にも替え難い。師匠にはとてもお返しできるものではない」と語っている[2]

米長邦雄・丸山忠久と二人の名人の師匠となったが、これは近代将棋史上木見金治郎大山康晴升田幸三の師匠)と佐瀬のみの記録である。

妻との間に3女をもうけた。娘の1人は弟子の沼春雄と結婚し、沼は佐瀬家の婿養子となった。故に沼の戸籍上の本名は「佐瀬春雄」であり、「沼春雄」は将棋棋士としての名前(いわば登録名)であるといえる。

1987年、佐瀬の孫弟子にあたる櫛田陽一(田丸昇門下)がプロデビューしている。このため、佐瀬は自身が現役中に孫弟子がプロ棋士になるという珍しい快挙を達成している。

主な門下生[編集]

棋士[編集]

女流棋士[編集]

なお、米長と多数回のタイトル戦で対戦した中原誠や、中井と多数回の女流タイトル戦で対戦した清水市代は、いずれも高柳敏夫の弟子であり、多数の弟子を輩出した実績については、佐瀬と高柳が並んで評価されることが多い。

昇段履歴[編集]

棋歴等[編集]

  • 1990年、将棋大賞東京将棋記者会賞
  • 1993年、勲五等双光旭日章 叙勲

主な著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ NHKラジオ深夜便
  2. ^ a b 米長邦雄『米長の将棋 完全版 第一巻』日本将棋連盟、2013年6月30日、420頁。ISBN 9784839947439 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]