井戸弘道

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井戸 弘道(いど ひろみち、生年不詳 - 安政2年7月26日1855年9月7日))は、幕末江戸幕府旗本。通称、鉄太郎、石見守井戸弘勗の長男、母は福原資明の娘。

当初西丸小姓番士だったが、弘化3年(1846年)徒頭となり、翌年には西丸目付に昇進。嘉永元年(1847年)目付となり、勝手掛、海防掛を兼務する。嘉永6年(1853年浦賀奉行となり、同年のペリー来航時には、同じく浦賀奉行の戸田氏栄とともに久里浜でペリーより国書を受け取った。同年には大目付に就任し、再び海防掛を兼務。安政元年(1854年軍制改正用掛となった。老練な実務官僚として優れていたとの評が残っている。安政2年(1855年)大目付在任中に卒去。墓所は下谷稲荷町の法養寺(現在は大田区池上に移転)と多摩郡成瀬村東雲寺

生年は不明だが、ペリーの日記によると「戸田氏栄より10歳から15歳ほど年長に見えた」とのことである。