井上邦雄

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いのうえ くにお

井上 邦雄
生誕 (1948-08-22) 1948年8月22日(75歳)
日本の旗 大分県日田市
住居 日本の旗 兵庫県神戸市北区
国籍 日本の旗 日本
職業 暴力団組長
活動期間 1966年 -
団体 神戸山口組
肩書き 神戸山口組組長
元六代目山口組若頭補佐
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井上 邦雄(いのうえ くにお、1948年昭和23年〉8月22日 - )は、日本ヤクザ特定抗争指定暴力団神戸山口組組長。大分県日田市出身。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1948年昭和23年)8月、大分県に生まれる。野球好きな少年だったが高校を喧嘩沙汰で中退し、素行の悪さに業を煮やした母親により、山口組山健組傘下の中野会に預けられる[1]。しばらくして、同じ山健組系列の健竜会に移った。

健竜会での活動[編集]

1975年(昭和50年)、健竜会愛芳会(あいほうかい)を設立し、健竜会理事長補佐に就任した。

1978年(昭和53年)、山口組三代目・田岡一雄松田組系組員に狙撃されたベラミ事件を受けて、山健組は松田組への報復に参戦。
同年9月2日、和歌山市内の松田組系西口組組長・西口善夫の自宅で、警備中の組員2人が健竜会組員に銃撃される。井上はこの事件の首謀者として起訴され、懲役17年の判決を受ける。なお、服役中に山健組直参に昇格した。

2000年平成12年)に出所後、四代目健竜会会長となり三代目山健組若頭補佐と兼務しながら活動し続けた。

山健組跡目継承から山口組直参へ[編集]

2003年(平成15年)5月、三代目山健組若頭に就任し、2年後の2005年(平成17年)8月には山健組の四代目を継承し、六代目山口組の直参に昇格、役職は幹部からのスタートだった。また同年12月4日、六代目山口組若頭補佐に就任する。

山口組離脱・新団体設立へ[編集]

2015年(平成27年)8月、二代目宅見組組長・入江禎池田組組長・池田孝志らと共に六代目山口組を離脱する。井上は、この時離脱した十数に及ぶ山口組二次団体を纏めて新団体・神戸山口組を結成し、組長に就任した。 一連の動きに際して、六代目山口組からは即座に絶縁処分を受けた[2][3][4]

2018年(平成30年)5月、山健組の跡目を五代目健竜会会長・中田浩司へ譲った。これにより、神戸山口組(一次団体)と山健組(二次団体)のトップを兼務していた状態が解消された。

事件[編集]

2017年6月6日、知人女性と共謀し、2013年11月に知人名義で携帯電話の機種変更契約を申し込んで携帯電話1台を詐取したとして、詐欺容疑で兵庫県警に逮捕された[5]。兵庫県警は7日、井上を神戸地検に送検した。また、神戸山口組の本部などを詐欺容疑で家宅捜索した[6]

さらに同年6月16日、会津小鉄会組員に集団暴行により軽傷を負わせたとして、任俠団体山口組組員など5人とともに傷害容疑で京都府警に逮捕された[7]。なお、翌月7月7日、傷害事件について井上は処分保留となり釈放された[8]

金融制裁指定[編集]

2016年12月30日、アメリカ財務省外国資産管理室(OFAC)は、井上を国外の著しい犯罪組織とその支持者であると認定し、国際緊急経済権限法大統領令13581号に基づき金融制裁の対象に加えたと発表した[9]

OFACは、麻薬密輸資金洗浄などを通して暴力団関係者の世界的な非合法的活動を支援していると指摘し、アメリカ合衆国の司法権が及ぶ範囲の資産凍結、さらにアメリカ人との取引を禁止する制裁対象とした[9]

脚注[編集]

出典[編集]

関連項目[編集]

  • 山本広 - 1984年、山口組を脱退し一和会を結成した。
先代
-
神戸山口組組長
初代: 2015年 - 現在
次代
-
先代
桑田兼吉
山健組組長
四代目: 2005年 - 2018年
次代
中田浩司
先代
山本一廣
健竜会会長
四代目: 2000年 - 2005年
次代
中田浩司