九十九橋

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九十九橋
九十九橋(福井市)
九十九橋
基本情報
日本の旗 日本
所在地 福井市
交差物件 足羽川
用途 道路橋
着工 1982年[1]
開通 1986年5月10日
座標 北緯36度3分47.6秒 東経136度12分41.2秒 / 北緯36.063222度 東経136.211444度 / 36.063222; 136.211444
構造諸元
形式 4径間連続鋼床版桁[2]
材料 鉄筋コンクリート
全長 143.9 m[3]
26 m[2]
最大支間長 48.5m[3]
地図
九十九橋の位置
九十九橋の位置
九十九橋の位置
九十九橋の位置
九十九橋の位置
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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福井県道6号標識

九十九橋(つくもばし)は、福井県福井市足羽川下流部に架かる、福井県道6号福井四ヶ浦線上にある。現在の橋は1986年(昭和61年)に架け替えられたもの。福井市ではこの橋(あるいは足羽川)を境に橋北(きょうほく)、橋南(きょうなん)と分けられることもある。

現在の九十九橋[編集]

  • 開通:1986年(昭和61年)5月10日
  • 形式:4径間連続鋼床版桁
  • 活荷重:橋格一等橋(TL-20)[1]
  • 右岸(北詰):福井県福井市中央3丁目、福井県福井市照手1丁目
  • 左岸(南詰):福井県福井市つくも1丁目、福井県福井市つくも2丁目
  • 延長:[1]
    • 九十九橋:143.9m
    • つくも側取付道路:114.3m
    • 中央・照手側取付道路:61.8m
  • 幅員:[1]
    • 九十九橋:26.0m
    • つくも側取付道路:20.0m
    • 中央・照手側取付道路:31.5m
  • 車線数:4車線(北端部は北行に右折車線が増え計5車線)
  • 路線名:都市計画道路3.4.27嶺北縦貫線[1]

歴史[編集]

葛飾北斎・画『諸国名橋奇覧 ゑちぜんふくゐの橋』
福井県里程元標
福井県里程元標
柴田神社にある橋脚
柴田神社にある橋脚
福井市立郷土歴史博物館にある橋脚
福井市立郷土歴史博物館にある橋脚

明治以前[編集]

戦国期以来、福井城下の足羽川に唯一架かる橋であった。1491年延徳3年)、冷泉為広の越後下向日記には「石バ、百八間ノ橋アリ」とあり、また、水落神明社には1568年永禄11年)に朝倉氏奉行人が発給した橋修理の文書が存在する[4]。その後、柴田勝家の普請により、北半分が木造、南半分が石造の橋となる。江戸時代には半石半木の橋として有名になり、和漢三才図会[2][5]東遊記[5]葛飾北斎諸国名橋奇覧[2][5]に記載されている。また、橋番付では「福井掛合橋」として東関脇に位置付けられている[2]北国街道の一部であり、南詰には小石原門が、北詰には照手門、木戸、高札場、常夜灯があった[5][6]

半石半木の構造[編集]

当時、足羽川は河川敷の北側を流れ、南側には桃林が広がっていた。流れがある北側の47(約85 m)が木造、南側の41間(約75 m)が石造であった。橋脚は木造部に14基、石造部に31基あり、径間長は木造が石造の約2.5倍ある。[7]

半石半木の構造になったのは、以下の何れかの経緯によるものと言われている。

防衛面での説
福井の城下町に近い北側を壊し易い木造にすることで、敵の侵入をしづらくするため。[2]
土木技術面での説
当時、足羽川は河川敷の北側を流れていたため、石造にすると橋脚の数が多くなり、川の流れを妨げる虞があった。そこで、橋脚の数を減らすべく、木造にした[7]
水運の便での説
上記のように石造では径間が狭くなるため、舟が通れるように径間を広くとれる構造にした[7][8]
経済面での説
洪水が発生した場合、全てが石造であると全壊するおそれがある。そこで水勢の強い北側を木造にすることで、木造部分だけが流されて石造部は無事に残る。半分の木造だけであれば再建が容易である[2]。また、東遊記には「石の所は千載不朽なれば、唯木の所半分の手間にて済む事なれば、別して心やすかるべし。」とある。

石造部の素材には足羽山で採掘された笏谷石が使用された。石材を運ぶには労力を要するので、足羽山から近い南側を石造にしたとする説もある[8]。 なお、長さが88間(約160 m)であったことから米橋とも呼ばれていた。

明治以降[編集]

1874年明治7年)に半石半木としての最後の架け替えがあり、1909年(明治42年)7月18日[9]5径間木製アーチのボウストリングトラス橋に架け替えられた[10]。トラス橋への架け替えの際に、橋桁の一部を用いて福井県里程元標を作成し北詰に設置した。里程元標は後に柴田勝家の菩提寺である西光寺に移される。元の位置には復元された里程元標が建てられている。石橋の橋脚は、福井市立郷土歴史博物館柴田神社に残されている。また、柴田神社に再現された半石半木の九十九橋の高欄には、当時の石材がそのまま使用されている。

1933年(昭和8年)9月19日[11]に10径間鉄筋コンクリート桁橋[10]になり、1986年(昭和61年)5月10日[12]に現在の橋となる。橋上の歩道には、屋根付きでバルコニー型に張り出した休憩所が、上流側、下流側それぞれに3箇所ずつある。右岸では、橋詰下流側に復元された福井県里程原標、アプローチ途中西側の郵便局付近に「九十九橋の歴史」碑、アプローチ下の九十九橋北交差点南東角に「九十九『長寿』橋」という看板が建っている。

周辺[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 福井県土木部計画課『福井の名橋九十九橋』福井県、1986年。 
  • 福井県土木部計画課、吉田純一「半石半木の奇橋、九十九橋」『福井県歴史の道調査報告書』 第6集、福井県教育委員会、2006年、135-145頁。 
  • 土木学会中部支部 編『国造りの歴史 中部の土木史』名古屋大学出版会、1988年2月25日、151頁。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 18 福井県』角川書店、1989年。ISBN 4040011805 
  • 松村博『日本百名橋鹿島出版会、1998年8月20日、118-120頁。ISBN 4-306-09355-7 
  • 伊豆蔵庫喜「九十九橋について」『福井城下の視的考察』FUT福井城郭研究所〈FUT福井城郭研究所選書〉、2018年、15-22頁。