久米民之助

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久米民之助
久米民之助の胸像群馬県沼田市沼田公園

久米 民之助(くめ たみのすけ、文久元年8月27日1861年10月1日) - 昭和6年(1931年5月24日)は、日本土木技術者実業家衆議院議員を4期務めた政治家

来歴・人物[編集]

上野国沼田(現在の群馬県沼田市)に生まれた。父は沼田藩士の久米権十郎正章。幼い頃に父母、そして異母妹を相次いで失うなど家庭環境には恵まれなかった。1876年6月、久米は上京してまず慶應義塾(後の慶應義塾大学)に学ぶが、1878年明治11年)には工部大学校(後の東京大学工学部)に転学をした。造家科(のちの建築学科)ではなく土木科に第6期入学。

1881年(明治14年)に工部大学校土木科を首席(第一等及第)で卒業[1]宮内省に入省し、皇居造営事務局御用掛を拝命、皇居正門石橋の設計に携わった。1886年(明治19年)には工部大学校の助教授も兼ねたが、実業への関心が高かった久米は同年中に宮内省と工部大学校の助教授を退職して大倉喜八郎が経営する大倉組商会(現・大成建設)に入社、佐世保鎮守府開盤工事に従事した。1887年(明治20年)から1889年(明治22年)にかけては欧米諸国を視察して見聞を広めた。

帰国した久米は1890年(明治23年)、久米工業事務所を設立、その後大正の前半にかけて日本、台湾朝鮮の鉄道工事を数多く手がけた。久米が参加した鉄道工事の一部を紹介すると、山陽本線山陰本線、台湾西部幹線京義線湖南線などがある。鉄道工事以外にも代々木商会を興し、マニラから技師職工を招聘してタバコ葉巻の製造販売を手がけるなど実業家として幅広い活躍をした。また、生命保険会社の経営などの事業をも展開、久米の事業の多くは成功を収めた。

久米は1898年(明治31年)に行われた第5回衆議院議員総選挙に当選、その後1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙まで以後も軍部の推薦もあって連続4回当選を果たした。しかし実業への関心が第一であった久米にとって議員生活への執着は薄く、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙に際してライバルの立候補が決まるや立候補を断念、その後大正時代にも地元で久米の擁立が図られたが、実現しなかった。久米の政治家生活は5年あまりという短期間に終わった。

久米が明治後半から大正にかけて住んだ代々木上原の自邸は敷地4万もあって、趣味である能舞台をあつらえた豪華さで代々木御殿と呼ばれたという。宮内省内匠頭であった片山東熊に依頼[2]、建物の一部は木子幸三郎がかかわった[3]たもので、木造日本建築の御殿の他、鉄筋コンクリート造の西洋館が建てられていた。庭園は宮内省技師・市川之雄の設計[4]によるもので、8畳大の笠石の巨大な燈籠があり庭で鴨撃ちができたという[5]

金剛山電気鉄道終点・内金剛駅

1918年(大正7年)、久米は朝鮮半島金剛山とその周辺を視察した。当時の金剛山は交通の便が極めて悪く、景勝地でありながら訪れる人も極めて少なかった。久米は朝鮮半島の東側が急で西側がゆるやかな地形に着目した。西側に流れる水をトンネルで東側に導き、水力発電を行ってその電力で金剛山まで電気鉄道を走らせることが出来ないだろうかと考えたのだ。早速専門家に委託して事業の実現可能性を検討し、有望な事業であるとの結果が出るや会社設立に奔走、1919年(大正8年)に金剛山電気鉄道株式会社を設立し、自ら社長に就任した。金剛山電気鉄道は会社設立直後、第一次世界大戦後の不況の影響をまともに受け、その上に鉄道の営業開始直前に関東大震災が発生して、電車用の電動発電機が震災で発生した火事で焼失してしまうなど経営に苦労した。久米は代々木御殿を紀州徳川家に売却、その資金を金剛山電気鉄道の運転資金に充てるなど経営に尽力した。その結果1931年(昭和6年)7月1日、金剛山電気鉄道は完成するが、久米は完成を見ることなく病没した。墓所は渋谷区瑞円寺

晩年は、金剛山の観光開発に実業家人生の最後の情熱を注いでいた。例えば金剛山の登山コース整備や、金剛山協会という金剛山の保護と宣伝を行う機関の創設に尽力した。その功績が認められ、久米の遺骨の一部は金剛山の麓に建立された久米の顕彰碑の下に分骨され、金剛山の最高峰、毘盧峰直下に建てられた山小屋は久米の名を取って「久米山荘」と名づけられた。しかし朝鮮半島の南北分断朝鮮戦争の結果、金剛山電気鉄道は廃線となり、金剛山の観光開発に久米が尽力したことも忘れ去られた。

沼田公園

また、故郷沼田に沼田公園[6][7] を整備する事業にも情熱を注いだ。荒廃していた沼田城[8] の土地を買収、久米公園(現在の沼田公園)として整備して、沼田町に寄付している。沼田公園は現在も沼田市民の憩いの場として親しまれており、公園内には久米の胸像も置かれている。

家族[編集]

久米の長女である万千代は2歳の時に五島惣兵衛の養女となって五島姓を名乗ることになった。これは久米の父方祖母の実家、沼田藩士五島家が後継者がなく絶家となっていたが、万千代が五島姓を名乗り再興することになったものである。万千代は1912年(明治45年/大正元年)に小林慶太と見合い結婚をした。小林慶太は結婚と同時に五島慶太となる。五島昇は外孫にあたる。久米の長男の民十郎画家となって将来を嘱望されていたが関東大震災で夭折、次男の権九郎建築家として成功し、久米建築事務所(現在の久米設計)を設立した。三男に平八郎、五男の正七郎は服飾衣料業を営み、久米商店(現在の久米事務所)を設立している。

脚注[編集]

  1. ^ 『工部省沿革報告』大蔵省、1889年4月、978頁。 
  2. ^ 高橋箒庵『萬象録・第3巻』思文閣、1915年10月29日、397頁。 
  3. ^ 宮田ら「旧久米民之助邸(代々木御殿)に関する報告(その1)代々木御殿の敷地と建築の変遷,設計者について」日本建築学会論文2021,pp.639-640
  4. ^ 『造園研究 (13)』一水会 編 (西ケ原刊行会)、1935年4月、61頁頁。 
  5. ^ 久米権九郎『生い立ちの記』久米権九郎追憶誌編集委員会 編 久米建築事務所、1966年、8-13頁。 
  6. ^ 沼田公園”. 沼田市観光協会. 2019年6月28日閲覧。
  7. ^ 沼田公園”. 沼田市. 2019年6月28日閲覧。
  8. ^ 沼田城址公園”. 沼田市. 2019年6月28日閲覧。