久保幸江

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久保 幸江
久保幸江
基本情報
出生名 篠原幸江
生誕 (1924-01-24) 1924年1月24日
大日本帝国の旗 大日本帝国 台湾高雄州屏東市(現:中華民国の旗 中華民国 屏東県屏東市)
死没 (2010-09-08) 2010年9月8日(86歳没)
日本の旗 日本 東京都
職業 歌手
活動期間 1948年 - 2005年
レーベル 日本コロムビア

久保 幸江(くぼ ゆきえ、1924年(大正13年)1月24日 - 2010年(平成20年)9月8日)は、日本の女性歌手。芸者経験はないが、芸者風歌手として活動した。

経歴[編集]

1954年

1924年(大正13年)、日本統治下台湾屏東市で生まれる。本名:篠原幸江。

1942年昭和17年)屏東高等女学校を卒業後、家族とともにシンガポールに移る。当時のシンガポールは日本占領下にあり昭南島と称していたが、家族はそこで日本軍相手の料亭を開いていた。久保はこの店で好きな流行歌を歌い、また軍の慰問にも赴き、歌を歌っていたという。

1946年(昭和21年)、日本に引き揚げた後、翌1947年(昭和22年)、日本コロムビア社の新人歌手募集の新聞広告を見て応募、1500人の応募者の中から合格した。

1948年(昭和23年)「千鳥なぜ啼く」でデビューしたが不発に終わる。民謡を歌謡曲風にアレンジした2曲目の「おこさ節」も市井の注意を引かないまま終わったが、民謡もうまくこなせる新人として社内で注目を集めた。

ところで、このころ古賀政男は「炭坑節」に興味を持っていた。古賀はこれをさらに都会的な宴会ソングに仕立て上げ、1949年(昭和24年)、「トンコ節」として久保と楠木繁夫のデュエットとして発売させた。当初はさっぱり売れなかったが、都内、地方を問わずあらゆる営業先のステージで幾度となく一人で歌いまくったため、じわじわと売上が伸び、翌1950年(昭和25年)、新人歌手加藤雅夫と共に吹き込んだ新しい「トンコ節」が彼女の運命を決定づけるほどの大ヒット曲となった。それは松竹をして映画「初恋トンコ娘」(監督・斎藤寅次郎。柳家金語楼川田晴久他、久保自身も出演。1951年4月20日封切)を製作せしめるほどであった。当時の人気投票では、美空ひばりを抑え一位になったこともあった。

以後は1951年(昭和26年)発売の「ヤットン節」(30万枚の大ヒット[1])や、「パチンコ人生」、コミックソング「旅は楽しいシュッポッポ」などヒット曲を放ち、1952年(昭和27年)にはNHK紅白歌合戦に出場した。[2]1955年(昭和30年)、日本舞踊の名取になるため、コロムビアを退社。

しかしコロムビアの敵社である日本ビクターから再三カムバックの誘いを受けたため、1957年(昭和32年)9月、『靖國の母(詩吟入り)』で歌手復帰。1960年(昭和35年)にはブラジル公演を行い、その際に録音したLPレコード「久保幸江の南北みやげ」も発売している。しかし、外交員と結婚し、同年12月に再び引退した。

1969年(昭和44年)、NHKのテレビ番組「第1回思い出のメロディー」で久々に歌ったことや、渡辺はま子の勧めもあり本格的に歌手活動を再開。しかし1973年(昭和48年)、甲状腺手術中の医療ミスによって声帯を一本切除されてしまう。懸命なリハビリと治療のかいあって翌年には復帰した。1977年(昭和52年)、マリモスレコードに入社。リハビリの末アルバムやシングルを発売している。

その後は神奈川県内で歌謡教室を開きながら、テレビの懐メロ番組や舞台などに出演。1998年(平成10年)にはデビュー50周年を迎え、新曲『女の人生花ざかり』と代表曲『トンコ節』を古巣のコロムビアから発売。精力的に歌手活動を続けてきたが2003年(平成15年)に体調を崩す。一度は復帰し、同年12月に新曲『ふるさと府中』を発売したりもしたが2005年を最後に表舞台を退いた。

その後は東京都内の老人施設に入所。施設によると、「みんなにせがまれるとよく歌っていた」という。2010年9月7日未明、東京都内の老人施設で突然意識を失い、病院に搬送。翌8日に心不全のため死去[3]。86歳没。久保の死去は2年後の2012年になってから明らかにされた[4]

ディスコグラフィー[編集]

コロムビア

1948年(昭和23年)『千鳥なぜ啼く』『おこさ節』

1949年(昭和24年)『トンコ節』共唱:楠木繁夫

1950年(昭和25年)『トンコ節』共唱:加藤雅夫

1951年(昭和26年)『月が出た出た』共唱:霧島昇『ヤットン節』『五ツ木子守唄』『パチンコ人生』

1952年(昭和27年)『チャンバラ節』『トコトン節』『旅は楽しいシュッポッポ』

1953年(昭和28年)『キューッと一杯』

1954年(昭和29年)『阿波踊り』共唱:岡本敦郎『野球拳』共唱:高倉敏『今度生まれたら』

1955年(昭和30年)『船頭可愛いや』他


ビクター

1957年(昭和32年)『靖國の母』『月夜子守唄』『雪の南部坂』

1958年(昭和33年)『ソーラン吹雪』『温泉ぶし』

1960年(昭和35年)『おたまじゃくし』他


マリモス

1977年(昭和52年)『日本の母』『サラリーマン節』『徳島ばやし』他


コロムビア

1998年(平成8年)『女の人生華ざかり/トンコ節』


キング

2003年(平成13年)『ふるさと府中』

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

年度/放送回 曲目 対戦相手
1952年(昭和27年)/第2回 ヤットン節[4] 鈴木正夫

脚注[編集]

  1. ^ 塩澤実信『昭和の流行歌物語 佐藤千夜子から笠置シズ子、美空ひばりへ』展望社、2011年、163頁。ISBN 978-4-88546-231-3
  2. ^ https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history.html?count=2
  3. ^ 「トンコ節」久保幸江さん、死去していた 日刊スポーツ 2012年8月28日閲覧
  4. ^ a b “歌手の久保幸江さんが死去 「トンコ節」がヒット”. 共同通信社. 47NEWS. (2012年8月28日). https://web.archive.org/web/20120831062824/http://www.47news.jp/CN/201208/CN2012082801001801.html 2012年12月20日閲覧。 

外部リンク[編集]