丸ト北村

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丸ト北村
Maruto Kitamura
旧「丸ト北村」建物画像。
店舗概要
所在地 北海道釧路市北大通4丁目6番[1]
開業日 1906年(明治39年)10月
(丸と北村呉服店)[2]

1967年(昭和42年)
(丸ト北村百貨店)[3]
閉業日 2000年(平成12年)2月29日[2]
正式名称 丸ト北村
施設管理者 株式会社 丸ト北村[3]
商業施設面積 4,200[3] m²
前身 丸と北村呉服店[2]
最寄駅 釧路駅
KITAMURA
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丸ト北村(まるときたむら)は、かつて北海道釧路市に存在していた百貨店[3]。キャッチフレーズは「ニュー・ファミリー・タウン」。

北海道で二番目に経営破綻した百貨店である[3]

歴史[編集]

1906年(明治39年)10月に北村藤吉が釧路の西幣舞(現・釧路市北大通2丁目)で「丸と北村呉服店」を開業したのが始まりである[2]

1955年(昭和30年)に商号を丸ト北村に改称し[3]、1967年(昭和42年)には百貨店営業許可を取得して百貨店となった[3]

実用衣料を中心とする衣料品を全般に強みを持つ釧路では有力な百貨店の一つへ成長し、1975年(昭和50年)12月に約9億円を投じて増改築を行って増床を図った[3]

しかし、地元釧路の主要産業の一つである水産業が200カイリ規制の開始に伴って低迷するなど地域経済が低迷していたうえ[3]、1976年(昭和51年)には4月4日に長崎屋釧路店が開店し[2]、6月1日に丸三鶴屋が新館の増築を行って増床するなど競合が激化し[2]、売上が伸び悩んでこの増床が結果として過大投資となった[3]

そのため、1977年(昭和52年)2月期に7700万円の赤字に陥り、業績の悪化を受けて1977年(昭和52年)1月に主取引銀行であった北海道拓殖銀行から沢村二郎が代表取締役副社長に就任して再建を図った[3]

1978年(昭和53年)2月期に約4.6億円とさらに赤字幅が拡大して負債総額約26億9247万円に達して約4億円の債務超過に陥ったことから、3月27日に釧路地方裁判所に和議手続を申請して同日に受理されて財産保全命令を受け、事実上倒産した[3]

この和議申請は百貨店法に基づいて営業した北海道内の企業としては初の経営破綻であった[3]

和議手続を申請した翌日の3月28日から一旦営業停止して翌4月8日に債権者に対する説明会を開いて債権者の理解を求め[3]、4月11日に営業再開に漕ぎ着けて復活した[2]

この和議申請に伴って、関連会社の丸ト友の会も事業を事実上停止し、3月29日から積立会費に当時の法定利息年6%を加算して現金で返済する形となった[3]

また、従業員を136人から約70人に削減するなど事業規模を大幅に縮小すると共に実用衣料への特化することで再建が図られた[3]

2000年(平成12年)2月29日に閉店[2]

24年間にわたって使われていなかった建物が解体されることが、2024年2月9日北海道新聞で報道された[4]

沿革[編集]

  • 1906年明治39年)10月 - 創業者の北村藤吉が西幣舞(現・北大通2丁目)で「丸と北村呉服店」開業[2]
  • 1907年(明治40年) - 北大通4丁目6番に移転。
  • 1937年昭和12年)5月 - 創業者死去(享年62)。二代目 北村藤兵衛が次期社長に就任。
  • 1950年(昭和25年)4月 - 株式会社化(株式会社 丸ト北村呉服洋品店)を果たす。
  • 1955年(昭和30年) - 商号を丸ト北村に改称[3]
  • 1967年(昭和42年) - 百貨店営業許可を取得[3]。増改築工事の後、百貨店として開店。
    • 資本金3,000万円。社長:北村藤兵衛 常務:北村藤一朗・北村和男・村上勘一 取締役:北村和子・菅原辰之丞
  • 1975年(昭和50年)12月 - 約9億円を投じて増床[3]
    • この際に、建物全体の外壁色も閉店時の白色になる。
  • 1978年(昭和53年)
    • 3月27日 - 釧路地方裁判所に和議手続を申請して同日受理[3]
    • 4月11日 - 営業再開[2]
  • 2000年平成12年)2月29日 - 閉店[2]
  • 2024年令和6年) - 建物解体予定[4]

主なフロア構成[編集]

丸ト北村フロア概要
塔屋1F・屋上 一般客には公開されず
6F 事務所
5F ゲームセンターデパート食堂カレー屋
4F ミシン屋、子供服売り場(開店当時は2F)、中古レコードショップ
3F 紳士服売り場(開店当時は1F)、ベビー洋品、肌着売り場、タオル・シーツ売り場、駄菓子屋(昭和懐古向け)
2F 婦人服売り場、手芸店、布地販売、学生服販売
1F 和洋菓子店、ヤング服売り場、洋品売り場
地下1F 喫茶店社員食堂、バックヤード

エレベーターは2台あり、1台は地下1Fから4Fまで、もう1台は1Fから5Fまで運転されていた。末期になると、地下1Fから4Fまで運転されていたエレベーターは、事実上の社員・荷物運搬専用エレベーターになっていた。

主な入居テナント[編集]

その他[編集]

  • 商号は、創業者 名の先頭文字のカタカナ表記「ト」を丸で囲み、苗字を後ろに付けて発案。画像解説HP
  • 閉店後に中心街活性化の一環として跡地に釧路市民プラザを建設する構想案があったが[5]、2002年(平成14年)に構想が凍結となり[6]、2003年(平成15年)度釧路市予算案に盛り込まれず構想は頓挫した[5]
  • 近隣には「喫茶エリート」、「三東瀬戸物屋」、「高橋電器」、「餅の二幸」(市内鶴ケ岱公園に移転)、「渡部酒屋」、「浜野薬局」等が立地していた。「喫茶リリー」は現在も健在している。

丸ト北村を扱った作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 日本商業年鑑 1972年版, 商業界, (1972), pp. 498 
  2. ^ a b c d e f g h i j k 釧路市地域史研究会 『釧路市統合年表:釧路市・阿寒町・音別町合併1周年記念』 釧路市 、2006年10月。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t “丸ト北村に財産保全命令 釧路地裁 和議申請を受理 負債約27億円 200カイリなど響く”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1978年3月28日)
  4. ^ a b 釧路・旧丸ト北村ビル解体へ 国と市、費用一部補助:北海道新聞デジタル(2024年2月11日閲覧)
  5. ^ a b “釧路市新年度予算案 削減、改善 知恵絞る 「プラザ」予定地断念 ごみ焼却炉建設費減額 遊学館規模見直し”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2003年2月8日)
  6. ^ “地域の経済 釧路 北大通商店街、存亡の危機 郊外に大型店集積 市民プラザ構想も凍結”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2002年7月17日)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]