三隅研次

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みすみ けんじ
三隅 研次
三隅 研次
キネマ旬報』1962年4月上旬春の特別号より
本名 三隅 研次(同じ)
生年月日 (1921-03-02) 1921年3月2日
没年月日 (1975-09-24) 1975年9月24日(54歳没)
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市
職業 映画監督
ジャンル 時代劇
活動期間 1954年 - 1975年
主な作品
座頭市物語
眠狂四郎
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三隅 研次(みすみ けんじ、1921年3月2日 - 1975年9月24日)は、日本映画監督。代表作は勝新太郎を主演に起用した「座頭市」シリーズ市川雷蔵主演の「剣」三部作(『斬る』『』『剣鬼』)に「眠狂四郎」シリーズ若山富三郎を主役に据えた映画版『子連れ狼』シリーズなど。

来歴・人物[編集]

新映画『映画評論』第10巻第19号(1962)より

神戸の海運業者の父親と、京都の芸妓の母親との間に、妾腹の子として京都市に生まれる。神戸市出生との説もあり、成人するまで母親に一度も会うことなく育った。立命館大学専門部商学部卒業後[1]日活京都撮影所に助監督として入社[1]。1942年に召集され満州へ配属される[1]。戦後の1947年までシベリアで抑留生活を送り[1]、そこでの過酷な経験や人間観察が、自身の屈折した生い立ちと相まって後の作風を形作ることとなった。

復員後は大映に籍を置き、伊藤大輔衣笠貞之助らに師事した[1]。監督デビュー作は1954年の『丹下左膳 こけ猿の壺[1]田中徳三池広一夫と共に「大映三羽烏」と称され、全盛時の大映京都撮影所を支える主力監督としてプログラムピクチャーを撮り続ける。また国産初の70ミリ映画『釈迦』の監督も務め、注目される監督となった[1]。1962年には『座頭市物語』を監督した[1]

大映倒産後は映像京都の立ち上げに参加して[2]、テレビシリーズを手がける傍ら、勝プロ=大映京都撮影所(配給は東宝)で数本の劇場用作品を完成させる。初の他社撮影所(松竹大船)での劇場映画『狼よ落日を斬れ』を完成させたが、これが映画の遺作となった。翌年、『必殺仕置屋稼業』第13話「一筆啓上 過去が見えた」の演出を務めていたが、撮影中に病院に運ばれ、1975年9月24日、肝臓ガンのため死去、同作品が最後の演出となった[3]。54歳没。墓所は京都市北区霊源寺。

映画では「座頭市」シリーズや、「剣」三部作、「眠狂四郎」シリーズなど、テレビドラマでは『木枯し紋次郎』『座頭市物語』『必殺シリーズ』などの作品により[1]、時代劇の巨匠監督の地位を得た。また、若山富三郎を主役に据えた映画版『子連れ狼』は海外でも公開され[1]クエンティン・タランティーノサム・ライミなどの映画にもにも影響を与えたとされている[1]

その他[編集]

  • 田中徳三監督とは同期で、井上昭によると、「お互いどこかライバル視していたのではないか」としている[4]
  • 撮影監督の牧浦地志、美術監督の内藤昭は、三隅との相性も良く、三隅にとって参謀の様な存在であったという[5]

伝記[編集]

  • 『三隅研次 白刃の美学』 大映株式会社 開発事業部 1991年5月9日 (40ページ程のパンフレット)
  • 野沢一馬『剣 三隅研次の妖艶なる映像美』四谷ラウンド、1998年。回想証言
  • 吉田広明『映画監督 三隅研次 密やかな革新』作品社、2021年

主な監督作品[編集]

映画[編集]

座頭市物語』(1962年)のスタッフ、キャスト
『座頭市地獄旅』(1965年)のロケシーン。右上が三隅研次。中央下は勝新太郎。
古都憂愁 姉いもうと』(1967年)の新聞広告

テレビドラマ[編集]

日本テレビ
フジテレビ
毎日放送
NETテレビ(現・テレビ朝日)
朝日放送

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 三隅研次 略歴”. 映画DB. 2022年8月28日閲覧。
  2. ^ 生誕百年記念”. Cinemaveau. 2022年8月28日閲覧。
  3. ^ 映画監督 三隅研次”. National Film Archive of Japan. 2019年11月22日閲覧。
  4. ^ 日本映画の玉(ギョク)』 井上昭が語る三隅研次 『町奉行日記 鉄火牡丹』のこと”. 映画の國. 2022年8月28日閲覧。
  5. ^ 日本映画の玉(ギョク)』 林土太郎が語る三隅研次”. 映画の國. 2022年8月28日閲覧。

外部リンク[編集]