三宅幸夫

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三宅 幸夫(みやけ ゆきお、1920年12月16日 - 1988年2月25日)は、奈良県橿原市出身の特許庁長官日本鋼管(現JFEスチールJFEエンジニアリング)副社長。67歳没。

来歴・人物[編集]

旧制八高東京帝国大学法学部政治学科卒業後、1943年に商工省入省。同期に山下英明通産事務次官)、新田庚一(経企事務次官)、楠岡豪(繊維雑貨局長)、長橋尚(公益事業局長、中部電力副社長、東邦石油社長)、井土武久(特許庁長官)など[1]

官僚たちの夏」の庭野のモデル。統制経済志向の佐橋滋の八高後輩であり、なおかつ重用され、池田勇人通産大臣秘書官(1959年 - )、重工業局鉄鋼業務課長(1960年 - )などを経て、通産省企業局次長(1968年 - 1969年11月)から繊維雑貨局長(1969年11月 - 1970年10月)を歴任。しかし、次長から局長に昇任する過程で、次官候補からは外れたとされている。

繊維雑貨局長在任中、1969年11月以来、日米繊維交渉で局面打開にあたってきたが、当時の下田武三駐米大使の「アメリカの規制案を呑め」といった発言に、業界保護の通産省の立場から苦慮した。外務省との呉越同舟関係が浮き彫りになった発言であったが、この駐米大使の発言に対しては、「日本政府の訓令違反にあたる」といった批判も出た[2][3]。こうした猛烈なせめぎ合いの立場から、持病の糖尿病が悪化したため、1970年8月に入院。

このことから、佐藤 - ニクソン会談で早急に政府間交渉を再開し、交渉妥結を図ることとされたため(1970年10月24日)、退任が認められ、同期の楠岡豪が局長(1970年10月29日 - 1971年8月13日)となり、その任にあたることとなった。のち復帰して同期の長橋尚のあとを受けて公益事業局長(1971年6月 - 1972年6月)に就任し、同じく同期の井土のあとを受けて就任した特許庁長官(1972年6月 - 1973年7月)にて退官。

退官後の1974年、日本鋼管(現JFEスチールJFEエンジニアリング)入社。常務、専務を経て、1982年に副社長。のち取締役相談役。中東経済研究所理事長。他にテレビ神奈川取締役など。1988年2月、自宅で脳梗塞にて死去、67歳。

略歴[編集]

  • 1943年 商工省入省
  • 1950年3月31日 経済安定本部貿易局計画第二課
  • 1950年6月30日 経済安定本部貿易局貿易政策課
  • 1951年7月16日 中小企業庁
  • 1952年8月16日 通商産業大臣官房総務課
  • 1953年11月16日 通商産業大臣官房企画室員併任
  • 1954年11月1日 通商産業大臣官房企画室員
  • 1955年2月16日 通商産業省企業局併任
  • 1956年8月16日 通商産業省企業局企業第二課長
  • 1959年6月19日 通商産業大臣官房審議官
  • 1960年7月23日 通商産業省重工業局鉄鋼業務課長
  • 1964年4月1日 通商産業大臣官房企画室長
  • 1966年3月31日 通商産業大臣官房調査課長併任
  • 1966年6月4日 通商産業大臣官房調査課長併任解除
  • 1966年7月1日 通商産業大臣官房総務課長
  • 1967年10月9日 通商産業大臣官房調査統計部長
  • 1968年10月1日 通商産業省企業局次長
  • 1969年11月7日 通商産業省繊維雑貨局長
  • 1970年10月29日 通商産業大臣官房付
  • 1971年6月15日 通商産業省公益事業局長
  • 1972年6月30日 特許庁長官
  • 1973年7月25日 退官
  • 1988年2月25日 死去、従三位勲二等瑞宝章

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(秦郁彦・戦前期官僚制研究会編、東京大学出版会、1981年)各年度高等文官試験合格者の頁。
  2. ^ 読売新聞 1970年2月20日付 7面
  3. ^ 下田の発言の裏には、1969年9月16日からの高橋調査団(高橋淑郎繊維雑貨局長・1942年入省)が米国繊維業界に実際に被害無しとの報告をしていたが、沖縄返還・1970年日米安保条約自動延長とその再編などを視野に、佐藤栄作リチャード・ニクソンの政権公約に対して早期の解決を約束したことが背景にあった。 『通産省』(川北隆雄講談社現代新書、1991年3月) p.p.176 ~ 178