レオニード・クラーシン

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レオニード・クラーシン
Леонид Красин
生年月日 (1870-07-15) 1870年7月15日
出生地 ロシア帝国トボリスククルガン市
没年月日 1926年11月24日(1926-11-24)(56歳)
死没地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドロンドン
出身校 ハリコフ工科大学
所属政党 ロシア社会民主労働党
ソビエト連邦共産党

在任期間 1923年7月6日 - 1925年11月18日

在任期間 1918年11月13日 - 1920年6月11日

在任期間 1919年3月30日 - 1920年3月20日

在任期間 1920年6月 - 1923年7月
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レオニード・ボリソヴィチ・クラーシンロシア語: Леонид Борисович Красин, ラテン文字転写: Leonid Borisovich Krasin1870年7月15日 - 1926年11月24日)は、ロシア革命家ソビエト連邦政治家。ソビエト連邦対外貿易人民委員。ウラジーミル・レーニンの葬儀委員としてその遺体の保存を主張した人物の一人として知られる。

生涯[編集]

1870年7月15日、ロシア帝国トボリスククルガンに警察官僚であったボリス・イヴァノヴィチ・クラーシンの息子として生まれる。ジョージ・ケナンは自著『シベリアと流刑制度 (Siberia and the Exile System)』の中で1885年のチュメニ県の最高位警察官僚としてボリスに言及しており、10代のレオニードに会ってもいる。

ボリシェヴィキの資金係的な役割を果たし、マリヤ・アンドレーエヴァ英語版及びマクシム・ゴーリキーとともに、正教古儀式派ベロクリニツキー派の企業家サッヴァ・モロゾフ英語版へ資金提供の働きかけを行い1902年ごろから寄付を得ることに成功した。また、クラーシン自身は技師としてモロゾフの化学工場に1904年から勤務した[1]

1905年にはバクーを中心に『イスクラ』紙を出版していた[2]。1908年に革命運動から離れ、ドイツ系の企業に技術者として就職した[2]。1917年の十月革命は傍観する立場だったが、1918年のブレスト=リトフスク条約の交渉でレーニンらの要請に応じ復帰し、交渉を援助した[2]

ソビエト連邦全権代表としてロンドン駐在中の1926年に客死した。遺体はゴルダーズグリーン火葬場英語版で火葬され、その遺灰はクレムリン宮殿の壁に埋葬された。

脚注[編集]

  1. ^ 下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち 古儀式派が変えた超大国の歴史』(150-151、184頁)
  2. ^ a b c 下斗米伸夫『ロシアとソ連 歴史に消された者たち 古儀式派が変えた超大国の歴史』(184頁)
先代
マクシム・リトヴィノフ
ソビエト連邦駐イギリス全権代表
1922年 - 1923年
次代
フリスチャン・ラコフスキー
先代
-
ソビエト連邦駐フランス全権代表
1924年 - 1925年
次代
フリスチャン・ラコフスキー
先代
フリスチャン・ラコフスキー
ソビエト連邦駐イギリス全権代表
1925年 - 1926年
次代
アルカーディー・ローゼンゴリツ