ルイーズ・エリザベート・ド・フランス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルイーザ・エリザベッタ
Luisa Elisabetta
パルマ公妃
ルイーズ・エリザベート(アデライド・ラビーユ=ギアール画 1788年
在位 1748年10月18日 - 1759年12月6日

全名 Marie Louise Élisabeth
マリー・ルイーズ・エリザベート
Maria Luisa Elisabetta
マリーア・ルイーザ・エリザベッタ
出生 1727年8月14日
フランス王国 ヴェルサイユ ヴェルサイユ宮殿
死去 1759年12月6日
フランス王国 ヴェルサイユ
埋葬 フランス王国 サン=ドニ、サン=ドニ修道院
結婚 1739年10月25日 アルカラ・デ・エナーレス
配偶者 フィリッポ1世
子女 マリア・イザベラ
フェルディナンド
マリア・ルイーザ
家名 フランス・ブルボン家
父親 フランス王ルイ15世
母親 マリー・レクザンスカ
テンプレートを表示

ルイーズ・エリザベート・ド・フランスフランス語: Louise Élisabeth de France, 1727年8月14日 - 1759年12月6日)は、パルマ公フィリッポ1世スペイン語名フェリペ)の妃。

イタリア語名ルイーザ・エリザベッタ・ディ・フランチア(Luisa Elisabetta di Francia)。

生涯[編集]

フランスルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの長女として、ヴェルサイユで生まれた。双子の妹アンリエットがいる。誕生時から「マダム・プルミエール」(Madame Premiere)と呼ばれたが、父からはバベット(Babette)と呼ばれていた。1739年2月、父の従弟にあたるスペイン王子フェリペ(フェリペ5世と王妃イサベルの三男)との婚約が発表された。政治的・軍事的なカトリック勢力の結びつきを強める目的で、フランス・スペイン間の政略結婚は伝統となっていた。ルイーズ・エリザベートはヴェルサイユを出発し、同年10月、アルカラ・デ・エナーレスでフェリペと結婚した。

夫との結婚生活は不幸だった。スペイン宮廷は、フランス宮廷より儀礼的で厳格であり、ルイーズ・エリザベートは自分も義母イサベルに支配されていると感じた。彼女は人形遊びで一日の大半を過ごし、14歳で生んだ長女マリア・イザベラを甘やかした。ルイーズ・エリザベートは、自分の不幸な状況を手紙で父に伝えた。

フェリペの妹、マリア・テレサはルイーズ・エリザベートの弟ルイ・フェルディナン王太子の元へ1745年に嫁いでいった。両家の二重結婚も珍しいことではなかった。[1]

1748年、ルイーズ・エリザベートはスペインから避難することができた。エクス・ラ・シャペル条約によりオーストリア継承戦争が終結し、マリア・テレジアは夫フランツの神聖ローマ皇帝位を認めさせる代わりに、パルマ・ピアチェンツァグアスタラの公位を仇敵フェリペ5世へ渡した。ルイ15世の介入により、パルマ公位はフェリペとルイーズ・エリザベートのものになった。1748年12月にルイーズ・エリザベートはパルマ経由でヴェルサイユを訪れ、父に感謝を伝えた。この滞在時に、ルイーズ・エリザベートは寵姫ポンパドール夫人を知った(ルイ15世の寵姫全てを嫌った弟妹たちとは違い、ポンパドール夫人に好感を持った)。1749年にパルマへ帰国すると、彼女はフランス宮廷の儀礼や料理を持ち込んだ。

1752年に、双子の妹アンリエットが亡くなったため、フランスを訪問し妹の墓のあるサンドニ修道院を詣でた。数週間の滞在のつもりだったが、結局1年あまりのヴェルサイユ滞在となった。

ルイーズ・エリザベートはマリア・テレジアと同盟し、長女マリア・イザベラをヨーゼフ大公(のちのヨーゼフ2世)へ嫁がせた。

1759年、ヴェルサイユ滞在中にルイーズ・エリザベートは天然痘に罹患し、10月に急死した。彼女はサン・ドニ修道院の妹アンリエットの隣に埋葬されたが、2人の墓はフランス革命の最中に荒らされた。

子女[編集]

ルイーズ・エリザベートと娘・マリア・イザベラ

脚注[編集]

  1. ^ 長女マリア・イザベラ、長男フェルディナンドもハプスブルク=ロートリンゲン家との二重結婚だった。
  2. ^ 兄フェルディナンドが1751年1月生まれであるのに対し、マリア・ルイーザは同年12月生まれである。