ヨハン・フリードリヒ・ホルネル

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Johann Friedrich Horner

ヨハン・フリードリヒ・ホルネル(Johann Friedrich Horner、1831年3月27日-1886年12月20日)はスイスチューリッヒ大学に拠点をおいて活動した眼科医である。

1854年にチューリッヒ大学から医学士の学位を受けると、ホルネルはウィーンベルリンで研究を続けた。ベルリンでは有名な眼科医アルブレヒト・フォン=グレフェ(1828年-1870年)の助手を務めた。ホルネルが眼科医になろうと決めたのはこの頃である。1856年にチューリッヒに戻り、後にホッティングホフという眼科医院を開業した。

ホルネルは1873年に眼科学の教授になった。1886年に死去すると、チューリッヒ大学の教授職は、オットー・ハーブ(1850年-1931年)が引き継いだ。

交感神経系の病気であるホルネル症候群は、1869年に症例を記述したのに続いて自分に因んで名付けたものである。ホルネルの名前は、眼輪筋分泌部である「ホルネル筋」とも関係があり、tensor tarsi muscleとして知られることもある[1]。人生でホルネルは目の疾患に関する論文を約40書いた。

参照[編集]

  1. ^ Mondofacto Dictionary definition of orbicularis oculi muscle

外部リンク[編集]