マイケル・パウエル (映画監督)

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Michael Powell
マイケル・パウエル
マイケル・パウエル
本名 Michael Latham Powell
生年月日 (1905-09-30) 1905年9月30日
没年月日 (1990-02-19) 1990年2月19日(84歳没)
出生地 イングランドの旗 イングランドケント
死没地 イングランドの旗 イングランドグロスタシャー
国籍 イギリスの旗 イギリス
職業 映画監督
主な作品
うずまき』(1945年)
『天国への階段』(1946年)
黒水仙』(1947年)
赤い靴』(1948年)
血を吸うカメラ』(1960年)
 
受賞
カンヌ国際映画祭
特別賞
1951年ホフマン物語
ヴェネツィア国際映画祭
栄誉金獅子賞
1982年
ベルリン国際映画祭
銀熊賞
1951年『ホフマン物語』
英国アカデミー賞
フェローシップ賞
1980年
その他の賞
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マイケル・ラザム・パウエルMichael Latham Powell, 1905年9月30日 - 1990年2月19日)は、イギリス映画監督である。エメリック・プレスバーガーとのコンビで知られる。

生涯[編集]

ケントBekesbourneの生まれ。父親はホップ農場経営者のトマス・ウィリアム・パウエル。母親はウスターのフレデリック・コーベットの娘メーベル。キングズ・スクールダリッジ・カレッジで学んだ後、1922年、National Provincial Bankに就職。しかし自分は銀行家に向いていないと悟り、1925年、映画業界に入る。フランスニースにあるVictorine Studiosで、映画監督レックス・イングラムの下につく。パウエルの父はニースのホテルのオーナーで、イングラムとはコネがあった。最初は雑用係として、床を掃いたり、コーヒーを淹れたりした。しかし、すぐにスチルカメラマン、サイレント映画の字幕書きになった。さらに2-3の作品で俳優(主に滑稽な役)までこなした。俳優としてのデビューは『我等の海』(1926年)のおどけたイギリス人旅行者役で、他には『受難者』(1928年)がある。

1928年、パウエルはイングランドに戻り、さまざまな映画監督と仕事をする。アルフレッド・ヒッチコック監督とは『シャンパーニュ』(1928年)でスチール写真を担当した。ヒッチコックの初のトーキー映画『恐喝(ゆすり)』(1929年)にも同じ仕事で契約をしたが、パウエルは自伝の中で、ヒッチコックにとって最初の記念碑的クライマックスとなるラストの大英博物館のシーンは自分が提案したと述べている[1]。パウエルとヒッチコックの親交はその後も続いた[2]

脚本を2本書いた後、1931年から、アメリカの映画プロデューサー、ジェリー・ジャクソンとコンビを組み、イギリス映画振興のための法律Cinematograph Films Act 1927イギリスの映画参照)のノルマを満たすためのやっつけ作品(quota quickies)を作りだした。低予算スリラー映画『Two Crowded Hours』(1931年)で初めて監督としてクレジットされ、そこそこの興行成績をあげた。この年から1936年まで計23本の映画を監督した。多い時には年に7本も撮り、おおいに腕を磨いた[3]。その中でも、『Red Ensign』(1934年)、『The Phantom Light 』(1935年)は批評家にも好評だった。[3]

『The Edge of the World』(1937年)のおかげで。1939年にはアレクサンダー・コルダの下でコンスタントに映画を撮っていた。その中には、『Burmese Silver』など立ち消えになった作品も含まれる[1]

パウエルはコルダ映画の看板役者コンラート・ファイトとヴァレリー・ホブソンの主演映画『スパイ』を撮ることになった。しかし脚本は原作には忠実だが、あまりに冗長で、しかもファイトとホブソンの見せ場がなかった。会議の時、コルダはある小柄な男をパウエルに引き合わせた。それがエメリック・プレスバーガーだった。

パウエルはこの時のことを自伝の中でこう書いている。

エメリックはとても小さな巻紙のメモを広げて、会議で演説した。私はそれに聞き惚れた。トーキー席巻後、数人の素晴らしい脚本家と仕事をしてきたが、それでも彼以上の者はいなかった。サイレント映画の時代、(アメリカの)一流脚本家たちは劇作家というよりは職人だった(が)……(中略)……ヨーロッパ映画にはまだ高い学識があり、どの国も自国の文化・文学を意識して他国に勝ろうとしていた。それがトーキーですべて変わった。豊富な資金と熱狂と技術力でアメリカが指導権を握った。……(中略)……ヨーロッパ映画はもはや存在しない……(中略)……盛況だったドイツ映画もゲッベルス博士が1933年に終止符を打った。しかし、あの賢明な博士にとって、エメリックがナチ突撃隊員の突破の手間を省くため、ドアに鍵を挿したまま、自分のアパートを歩いて出た日は最悪の日だったことだろう。すぐにエメリッヒがどこにいるかわかるはずだから。話を戻そう。メモが6インチ広げられた時には、もう私はこの小柄なハンガリーの魔術師にすっかり魅了されていた。彼はストーラー・クラウストン(Storer Clouston)の(原作の)筋を完璧に映画に再構成していた。 — マイケル・パウエル、A Life in Movies: An Autobiography.[1]

二人は経歴も性格もまるで反対だったが、映画作りに対しては共通の姿勢を持ち、共同でいい仕事ができるであろうことをすぐに理解し合った。以後、『Contraband』(1940年)、『潜水艦轟沈す』(1941年)までは「監督 マイケル・パウエル、脚本 エメリック・プレスバーガー」として共作するが、『わが一機未帰還』(1942年)以降は「脚本・製作・監督 マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー」というコンビ名でクレジットにすることにした[1]

二人は共同で「アーチャーズ・プロ」を設立し、『老兵は死なず』、『天国への階段』、『黒水仙』、『赤い靴』、『ホフマン物語』、『戦艦シュペー号の最後』など、19本の長編映画を製作し、その多くが批評的・商業的成功を得た。それは今なお、20世紀イギリス映画の古典と見なされている[4]

ヒッチコックやデヴィッド・リーンと匹敵するイギリスを代表する監督だと推す声もあったが、1960年に撮った単独監督作品、サイコなスリラー映画『血を吸うカメラ』(1960年)の性的・暴力的な描写が映画評論家に酷評され、その名声は一気に失墜した。やがてパウエルは映画業界から追放された。再評価が起こったのは死後のことである。マーティン・スコセッシフランシス・フォード・コッポラジョージ・A・ロメロベルトラン・タヴェルニエといった映画監督たちがパウエル&プレスバーガー作品から大きな影響を受けたことを認めている[5]

パウエルは1927年にアメリカ人ダンサー、グロリア・メアリー・ロジャーとフランスで結婚したが3週間足らずで離婚。1943年7月、内科医ジェローム・リーディの娘"フランキー"・メイ・リーディと再婚。ケヴン・マイケル・パウエル(1945年生)とコロンビア・ジェローム・リーディ・パウエル(1951年生)という2人の息子をもうける。1983年7月、妻と死別。1984年5月19日アカデミー賞を3度受賞した映画編集セルマ・スクーンメイカーと3度目の結婚。グロスタシャーAveningの中心地でパウエルが亡くなるまで一緒だった。他に女優のパメラ・ブラウン(Pamela Brown)と数年間、1975年にパメラが亡くなるまで、同棲していたこともある。

フィルモグラフィ[編集]

監督作品[編集]

(行方不明のものは斜体で示す)

  • Riviera Revels(1928年、共同監督)
  • Caste(1930年、ノンクレジット)
  • Two Crowded Hours(1931年)
  • His Lordship(1932年)
  • C.O.D.(1932年)
  • Hotel Splendide(1932年)
  • The Star Reporter(1932年)
  • Rynox(1932年)
  • The Rasp(1932年)
  • My Friend the King(1932年)
  • Born Lucky(1933年)
  • Something Always Happens(1934年)
  • Red Ensign、アメリカ公開題名:Strike!(1934年)
  • The Fire Raisers(1934年)
  • Some Day、別題名:Young Nowheres(1935年)
  • The Price of a Song(1935年)
  • The Phantom Light(1935年)
  • The Night of the Party、アメリカ公開題名:The Murder Party(1935年)
  • The Love Test(1935年)
  • Lazybones(1935年)
  • The Girl in the Crowd(1935年)
  • The Man Behind the Mask、再公開題名:Behind the Mask(1936年)
  • Crown Vs. Stevens、別題名:Third Time Unlucky(1936年)
  • The Brown Wallet(1936年)
  • Her Last Affaire(1936年)

ここまでのパウエルの初期作品は、ノルマを果たすためのやっつけ作品ではあったが、それでも他の同様の映画よりは水準が高い。いくつかは現在行方不明で、おそらく廃棄されたものと考えられている。しかし現存するもののいくつかには洗練された技術が見られ、後の映画の中で再利用された初期ヴァージョンと言うこともできる。

テレビシリーズ『弁護士プレストン(The Defenders)』、『Espionage』、『看護婦物語(The Nurses)』

パウエル&プレスバーガー[編集]

(特記ないものは共同クレジット)

監督作品以外[編集]

著作[編集]

  • 200,000 Feet on Foula(1938年)、ペーパーバック版:Edge of the World(1990年) - 『The Edge of the World』のメイキング本。
  • Graf Spee(1956年)、アメリカ版:Death in the South Atlantic: The Last Voyage of the Graf Spee(1957年)、再版:The Last Voyage of the Graf Spee(1976年)
  • A Waiting Game(1975年)
  • The Red Shoes(1978年、プレスバーガーと共著)
  • A Life In Movies: An Autobiography(1986年、自伝)
  • Million Dollar Movie(1992年、自伝の第2部)
  • The Life and Death of Colonel Blimp(1994年、プレスバーガー、イアン・クリスティと共著)

演劇[編集]

  • アーネスト・ヘミングウェイ作『第五列(The Fifth Column)』(1944年、シアター・ロイヤル・グラスゴー)
  • ヤン・デ・ハルトグ(Jan de Hartog)作『Skipper Next To God』(1944年、シアター・ロイヤル・ウィンザー)
  • ジェームズ・フォーサイス(James Forsyth)作『Heloise』(1951年、ロンドン、ゴールダース・グリーン・シアター)

受賞歴[編集]

  • 1978年、イースト・アングリア大学、Hon DLitt
  • 1978年、ケント大学、Hon DLitt
  • 1981年、英国アカデミー賞フェローシップ賞
  • 1982年、ヴェネツィア国際映画祭、Career Gold Lion
  • 1983年、英国映画協会、Made fellow
  • 1987年、Royal College of Art、Hon Doctorate
  • 1987年、サンフランシスコ国際映画祭、黒澤明賞

記念[編集]

その他[編集]

チェスの愛好家で、1952年の来日時に、第1期王将戦第7局を観戦した[7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Powell 1986
  2. ^ 『天国への階段』にキム・ハンターを使うように薦めたのはヒッチコックだった。
  3. ^ a b Early Michael Powell at Screenonline
  4. ^ BFIトップ100(BFI 100)には、5本のパウエル作品がランクインし、うち4本はプレスバーガーとのコンビ作である。
  5. ^ Famous Fans of Powell & Pressburger
  6. ^ Filmmakers
  7. ^ 『作家が見た升田将棋』、1993年、朝日新聞社、91ページ

参考文献[編集]

  • Christie, Ian. Arrows of Desire: The Films of Michael Powell and Emeric Pressburger. London: Waterstone, 1985. ISBN 0-947752-13-7 , later edition, 1994. ISBN 0-571-16271-1.
  • Christie, Ian. Powell, Pressburger and Others. London: British Film Institute, 1978. ISBN 0-85170-086-1.
  • Christie, Ian and Andrew Moor, eds. The Cinema of Michael Powell: International Perspectives on an English Filmmaker. London: BFI, 2005. ISBN 1-84457-093-2.
  • Esteve, Llorenç, Michael Powell y Emeric Pressburger. Rio de Janeiro, Brazil: Catedra, 2002. ISBN 978-843-76195-07.
  • Howard, James. Michael Powell. London: BT Batsford Ltd, 1996. ISBN 0-7134-7482-3.
  • Lazar, David, ed. Michael Powell: Interviews. Jackson, Mississippi: University Press of Mississippi, 2003. ISBN 1-57806-498-8.
  • Macdonald, Kevin. The Life and Death of a Screenwriter. London: Faber & Faber, 1994. ISBN 0-571-16853-1
  • Moor, Andrew. Powell and Pressburger: A Cinema of Magic Spaces. London: I.B. Tauris, 2005. ISBN 1-85043-947-8.
  • Powell, Michael. A Life in Movies: An Autobiography. London: Heinemann, 1986. ISBN 0-434-59945-X.
  • Powell, Michael. Million Dollar Movie. London: Heinemann, 1992. ISBN 0-434-59947-6.

関連文献[編集]

外部リンク[編集]