フランツ・デーレ

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フランツ・デーレFranz Doelle, 1883年11月9日 – 1965年3月15日)は、ドイツの作曲家。

来歴[編集]

7歳の時にピアノチェロを学び始め、学校を卒業後、1902年から1907年まではホルン奏者として楽団に加わった。軍楽隊の楽団長としての教育を施されるはずだったが、自らの楽団を結成し国内外でのツアーを行っていたが、第一次世界大戦によって音楽活動は中断させられた。

第一次世界大戦後、ベルリン市内の数々の劇場で楽長を務め、1919年にアポロ劇場で演奏されたヴィクター・ヤコビのオペレッタ『シビル』の制作に加わり、その後ハンス・アルバースの出演したレビュー『なんと驚いた-1000人の裸の女』の作曲を手がけ、その中で歌われた『再び白いライラックが咲いたら[1] は大流行し、単独のフォックスロットとしても多くの歌手に国内外で歌われた。、

世界恐慌によってベルリンの劇場が余儀なく閉鎖される中、ウーファ社と契約を結び、1932年の『レーマン夫人の娘たち』をはじめとして、35本余りの映画作品の楽曲を手がけ、第二次世界大戦前から戦中にいたるまで、ドイツトーキー映画の初期における代表的な作曲家として活躍した。

1953年に『再び白いライラックが咲いたら』の楽曲をモチーフとした同題名の映画が製作され、デーレが楽曲を担当した事実上最後の映画となった。

戦後、旧東独領のメクレンブルク=フォアポンメルン州の財産はソ連軍によって没収され、一家は西ベルリンへ移住し、1951年に メンヒェングラートバッハに移り、 1955年からレーヴァークーゼンのシェレブッシュで養鶏業を営み、同地で生涯を終えた。

主な作品[編集]

オペレッタ・レビュー[編集]

『なんと驚いた-1000人の裸の女』 (1929) 原題: “Donnerwetter - 1000 nackte Frauen”

映画音楽[編集]

題名

(原題)

日本公開年

(制作年)

出演 監督
カルメン狂想曲

(Viktor und Viktoria)

昭和 8年

(1933)

レナーテ・ミュラーヘルマン・ティミッヒ、アドルフ・ヴォールブリュック、ヒルデ・ヒルデブラント ラインホルト・シュンツェル
桃源郷

(Prinzessin Turandot)

昭和 9年

(1934)

ヴィリー・フリッチ、ケーテ・フォン・ナギ、インゲ・リスト、パウル・ケンプ、パウル・ハイデマン

ゲアハルト・ランプレヒト
ワルツの季節

(Königswalzer)

昭和10年

(1935)

ヴィリー・フォルストパウル・ヘアビガー、ヘリ・フィンケンツェラー、エレン・シュヴァネッケ ヘルベルト・マイシュ

桃源郷

(Amphitryon)

昭和10年

(1935)

ヴイリー・フリッチ、ケーテ・ゴールト、パウル・ケンプ、フィタ・ベンクホッフ、ヒルデ・ヒルデブラント ラインホルト・シュンツェル
ボッカチオ

(Boccacio)

昭和10年

(1935)

ヴィリー・フリッチ、ヘリ・フィンケンツェラー、ギナ・ファルケンベルク、パウル・ケンプ、フィタ・ベンクホフ ヘルベルト・マイシュ
再び白いライラックが咲いたら

(Wenn der weiße Flieder wieder blüht)

昭和28年

(1953)

ヴィリー・フリッチ、マグダ・シュナイダー、ロミー・シュナイダー、ゲッツ・ゲオルゲ ハンス・デッペ

参考[編集]

メンヒェングラートバッハ と ライト のタウン誌 ヒンデンブルガー

脚注[編集]

  1. ^ ドイツ語の原題名は„Wenn der weiße Flieder wieder blüht“ 日本では宝塚歌劇団で『すみれの花咲く頃』として有名

外部リンク[編集]