ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史/過去ログ4

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分割提案その2[編集]

2017年3月1日 (水) 07:27 (UTC) に「政教分離における歴史学的視座」節が加筆されました。例えば、この節を本記事の核にして、本記事をあくまで政教分離史の概略にとどめる、というのはどうでしょう。上述のふたつの政教分離のそれぞれについては本記事においては概略にとどめ、二つの記事に分割するというものです。--Susuka会話2017年3月2日 (木) 07:39 (UTC)

仲介の労をとってくださっているSusukaさんにまず感謝を。さて、基本的には分割という形での解決は望みません。というよりすでにしてその必要はなくなったように思われます。こちらの記事は歴史学的な政教分離の歴史を扱っており、政教分離原則の歴史ではないという立場を明確にし、「政教分離における歴史学的視座」節の信頼できる文献からの加筆によってそれを明確化しました。政教分離原則自体に関わる歴史については政教分離原則記事の歴史節があり、すでにそれぞれの概念はウィキペディア上で併存両立可能となっております。こちらを歴史学的内容でブラッシュアップした以上、内容の一貫性と独自研究の疑惑についても問題が解決されたと思われます。むしろ分割するならば、歴史学的政教分離論の立場での問題提起が求められますが、現状で歴史学的政教分離論の出典や文献を挙げての議論は一切なされていません。現状の政教分離原則視点の分割提案自体はそもそもの根拠がなくなっているように思われます。そして政教分離原則との混淆著しい議論がさらなるブラッシュアップを不可能にしていることがありますが、その原因は「政教分離の歴史」という記事名の「政教分離」の部分にあることは明らかなので、「聖俗分離の歴史」あるいは「歴史学における政教分離」、「政教関係の歴史」に変えるなど現状内容に即した適切な改名処理などは必要とは思われます。政教分離の考え方とその制度には多くの学問分野が関わっているために、政教分離という言葉に引きずられて本来の国家と宗教の機構的分離という歴史動態的意味に集中することが困難だからです。現在において政教分離というワードに言及する文献の大多数は政教分離原則をその直接の対象としているという当然の事実からも今後もそうした議論の混乱が起こることは予想されます。さて、分割という点に関しては以前詳しく述べたように歴史学的な関心の広がりを考えますと、詳しい各論の記述は読者の便にも必要と思われます。それは歴史学が個別研究の総体として全体的な概説を構成するという学問的な性質によっても細部にこだわるものだからです。またこの政教分離の過程は10世紀近くにわたる動態像として提示されているもので、さらに先行する政教一致的事象動態も含めるとキリスト教成立以来現代までの2000年史を包含することになります。法思想史、政治思想史、政治神学的研究と歴史学のこの分野の交流は広くかつ濃密で、用語上の統一性など分かちがたく、そうした各論的広がりをおぼろげながらでも提示するのがこの記事の趣旨のように思われます。もちろん分量的な問題などは観点としてまた別ですが。--2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D 2017年3月2日 (木) 10:05 (UTC)
  • コメント では分割ではなく、『政教分離原則』および『政教分離の歴史』の両記事の更に上位記事として『政教分離』(仮称)などという記事が必要ですね。「【政教分離】という言葉には、歴史学的なものと、現在のいわゆる【政教分離原則】の二つの意味がある。現在【政教分離】が意味するのは後者であるが、本項では【政教分離】が二つの意味を持つことを概説する」などという記事はいかがでしょう。--Susuka会話2017年3月2日 (木) 10:32 (UTC)
ここでの議論の混乱ぶりを踏まえますと、新たに『政教分離』という記事を作るのはまた大変そうで、また混乱が生じそうなので、現在ある『政教分離原則』の「歴史」節付近に「国家とキリスト教会の歴史的な機構分離については『政教分離の歴史』を参照とのこと」という形での案内を加えるのがよいかなと思っております。で、『政教分離の歴史』は政教分離原則そのものを意識させない記事名にして混乱を防ぐのが読者の益になるという観点です。--2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D 2017年3月2日 (木) 10:42 (UTC)
  • コメント では、最初に記事の解明を行うのがよろしいですね。記事名については、2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29Dさんに提示していただきたいです。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 11:02 (UTC)
  • コメント 「政教分離における歴史学的視座」節は、ますます独自研究の分量が増えただけのことですよね。初めのほうは、エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの主張をもって、定説であるかのように記述されてますが、不適切でしょう。「政教分離」誕生以前は宗教改革の概念の一部に過ぎず、これを政教分離の歴史、と勝手に位置づけて自分の主張に合う学説だけを出典にされるなどは、Wikipediaで行うべきことではないでしょう。妥当な対処としては、大まかな分類でいうと、前半を宗教改革へ統合、後半を政教分離原則へ統合、関連する各学者の主張は主張として記述、となるでしょう。現状、重複記事になってるだけですね。--ぽてから会話2017年3月4日 (土) 16:08 (UTC)
政教分離の歴史を語る際に、494年まで遡る必要あるんですかね? 「政教分離の歴史」に関する文献で、494年から遡って述べてるものってあるんですか? ないなら、単なる独自研究であることが明らかになったと言えるでしょう。--ぽてから会話2017年3月4日 (土) 16:11 (UTC)
  • 【ぽてからさんへ】ぽてからさんのおっしゃっていることは近代的な政教分離原則と機構上および思想史上の国家と教会の分離過程としての政教分離を混同した議論で、そもそも前提が成り立っていません。ここの議論で延々と繰り返されてきた単なる誤解か常識論です。この記事が「政教分離の歴史」という記事名でなければそもそも成り立たない、そんな言葉遊びのような議論です。ですから今の議論の改名していくという流れであれば、もはや問題にならないと思われます。そして、ご批判の記事内容についてですが、ベッケンフェルデとそれを継承した山田欣吾の議論はいまや歴史学の概説書(たとえば『ヨーロッパの歴史と文化('09)』)においても言及される基本的な考え方で、すでに本議論の間に歴史学上の主要研究文献での言及とその継承が確認されているので、一学者の整理ではありますが、単なる一学者の説で無視され共有されていないとか評価未定で特筆するに当たらない、というものではありません。そもそもこうした議論はマックス・ヴェーバー以来の近代化論の系譜にもあり、ベッケンフェルデも彼自身が従来の常識を塗り替える新説を形成したわけでなく、ヘルマン・リュッペらの先行学説を整理して提示したというのが一般的な理解です。その点についてはすでに121.107.209.16さんが示した文献においても確認されています。そのうえで思想史上の問題にもなりますから、494年に遡る云々については実際上その種の議論は意味がないと思われます。いくつかの画期を設定することに反対するわけではなく、実際画期はありますが、こうした議論はいつから明確に国家と教会の分離は始まったということは事件としては示せても、その背景思想や社会状況を含めると、いつという部分は明確には定まりません(とはいえ、自然法論など一部分野を除いていまのところキリスト教誕生以前に遡らないことは確かです)。少なくとも歴史学的議論は政教分離に関連してすでにキリスト教迫害史(政教分離なしで信仰の自由に至った)や初期ビザンツ帝国の教会政策との比較国制史にまで踏み込んでいます。それは近代政治史における有名ななぜ国家的枠組みにおいては国民性が先行していたように思われる東欧ではなく、西欧で近代化が典型的に進展したのかという議論(飯田芳弘さん)に関わりますし、最近上梓された阿部俊大さんのスペインにおける国家形成を問う研究(『レコンキスタと国家形成 アラゴン連合王国における王権と教会』)などもあり、歴史学的には関係学問分野も巻き込んだメジャーな議論で一学者が独立して展開しているというものではありません。そもそもが政教分離という言葉が本来は国家(的な政治秩序)と教会(的な宗教道徳的秩序)の分離をいうのですが、近代国家の政治的装置として国家とあらゆる宗教組織を原則的に分けるべきとする政教分離原則のイメージが強く、現代社会においては両者の議論は一体なので区別されません。しかし歴史的には今日のような制度的政教分離が行われている社会は稀なので、その歴史過程は特殊ヨーロッパ史的に政治秩序と教会倫理の分離過程、国家機構と教会組織の分離過程として理解されています。あくまでベッケンフェルデ=山田欣吾的「教会国家論」は学界で現在最も定着しているのでそれを挙げているだけで(とはいってもほかの説を第一に挙げることは不適当と思われますが)、個別各論ではそれに修正を加えた五十嵐修さんの「キリスト教帝国」論や千葉敏之さんの伝道王権論などを取り上げていくというのがよいと思われます。個人的にはぽてからさんの「独自研究」に関する方針理解には些か問題があるように思われます。独自研究とはまだ信頼できる文献に発表されておらず検証可能性を満たしていないか、検証可能でも一般的に受け入れられてはいないと思われる一次研究のことで、文献的に十分な2次的3次的裏付けのある本記事の冒頭部分を指して使う物とはとても思えません。
  • 【Susukaさんへ】ぽてからさんのような誤解が絶えないと思われますので、政教分離ではなく、「聖俗分離の歴史」への改名が適切と思われます。理由として聖俗という言葉は特殊キリスト教会的な用語であり、そのため西ヨーロッパ史に特殊に関わる歴史記事であることが明確になること、政教分離原則との混同が起きにくいこと、聖俗分離とすることで政教分離原則や制度的政教分離に纏わる世俗的イメージが薄らぎ、思想史上の政教分離と親和的になることが挙げられます。同時に聖俗分離という形で地域的限定を直接的に設けなければ、時代を超えて広がりつつ研究の現状を踏まえて当然衝突することが予想される時空的限界を緩和できると思われるからです。--2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26 2017年3月4日 (土) 17:35 (UTC)
  • コメント 上述の議論を見た限りでは、2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんとぽてからさんは、「現在の本記事の記事名と内容が一致していないので、現状を変更することが望ましい」という点では一致していますね。2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんは『聖俗分離の歴史』への変更、ぽてからさんは『宗教改革』との統合が望ましいと主張されています。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 17:51 (UTC)
率直に言って、私にはぽてからさんの「『政教分離』誕生以前は宗教改革の概念の一部に過ぎず」というところは全く理解できません。そして本記事の内容は宗教改革については後半部で扱うだけですし、宗教改革がグレゴリウス改革まで遡る、あるいはそれと同質であるという理解はちょっとなじみがありません。むしろ従来その意義を強調されすぎた宗教改革に対して、グレゴリウス改革を含めた12世紀革命がむしろ強調されて提示されているというのが現在の学界の共通理解に近い(たとえば千葉敏之ら『ドイツ史研究入門』)ですし、はっきり言って文献的にしっかりとした根拠があるのか非常に怪しいです。気分で論じているような雰囲気を感じます。たとえば古典的な研究である野口洋二『グレゴリウス改革の研究』はまさに宗教改革に目がいきがちな歴史論を批判し、グレゴリウス改革にこそ独立した大きな意義を認めるべきという研究の流れを振り返っていますし、この視点は同じく邦文におけるグレゴリウス改革の中心的研究である井上雅夫『西洋中世盛期の皇帝権と法王権』ではすでにもはや当然のこととして、宗教改革など話にも出てきません。--2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26 2017年3月4日 (土) 18:09 (UTC)
  • 質問 12世紀革命が強調されつつあるというのは、「宗教改革」の重要度が相対的に弱くなった、ということですか?たとえば、「"宗教改革"の定義が(扱われる時代的に)変化(あるいは前倒し)されつつある」という側面はないのでしょうか。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 18:37 (UTC)
宗教改革は宗教改革で別個の歴史事象です。はっきり言ってしまえば、宗教改革は活版印刷術の発明が前提とされており、歴史学的理解において、活版印刷術の発明なしで宗教改革に触れることは出来ません(アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』)。この一点をもってしても基本的にグレゴリウス改革とは本質的に異なるものですし、その他の相違点はベッケンフェルデが論じているとおりです。--2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26 2017年3月4日 (土) 18:45 (UTC)
(補足)思想史においても、たとえば自然法と神法の区別などは宗教改革ではかなり常識となっていますが、グレゴリウス改革期のグラティアヌス教令集では自然法=神法と捉えられています。この相違には理由があり、間にスコラ哲学による自然法論の進展が挟まっております。宗教改革とグレゴリウス改革ではその思想的状況も社会状況も全く異なっており、どちらも教会の改革を目指しているというかなりおおざっぱな外面は似ていても、実際に争われた論点や目標、問題関心、歴史的進展は全く異なっていますから、これを同質あるいは一連のものとしてひとくくりにする議論には率直に言って相当の無理があります。宗教改革はすでに政治秩序と宗教倫理の分離が相当程度進んだ思想・社会状況と活版印刷術の発明という決定的な変革を前提にした歴史事象で、国家と教会の未分化という問題と直面していたグレゴリウス改革とは全く異質です。--110.132.106.234 2017年3月4日 (土) 19:34 (UTC)(IPが変わりました。以上の発言は2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26のものです--2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7 2017年3月4日 (土) 19:57 (UTC)

記事の内容整理の提案[編集]

(新たにセクションを作成--Susuka会話2017年3月4日 (土) 19:52 (UTC)

  • コメント わかりました。では、現在の記事の記述のうちどこを残し、どこを転記させるか(その転記先はどこか)を、2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんに具体的に提案していただけないでしょうか。--Susuka会話2017年3月4日 (土) 19:13 (UTC)
基本的に日本は関わりないので削除します(すでに政教分離原則記事にほぼ同内容がありますので、転記の必要なし)。それと政教分離原則成立後の近現代については、政教分離原則それ自体に関わる現在の記述はすべて転記か削除。残りはブラッシュアップしてなんとかドイツ国制史上の政教分離が定まったと一般に理解される1803年まで記述をつなげるのが目標と思われます。--110.132.106.234 2017年3月4日 (土) 19:34 (UTC)(IPが変わりました。以上の発言は2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26のものです--2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7 2017年3月4日 (土) 19:57 (UTC)
ここまでの議論でご指摘の部分が2次3次の文献から確認でき、独自研究でないということはかなり明らかになっていますが、そうした議論を無視して独自研究であるとするぽてからさんの意見にはいまのところ全く文献的な根拠がありません。方針文書を適切に解釈されているとは思えませんが、ご自身の主張についてしっかりと文献で示すことが出来ますか?はっきり言うとぽてからさんの主張は以前詳しく申しましたように根拠がないことをいつも思いつきでおっしゃってごねていらっしゃるようにしか思えません。--2001:268:C068:C188:BDD6:6713:7688:2CE0 2017年3月5日 (日) 01:57 (UTC)
  • コメント 2次3次の文献から確認できたのは、やはり、現状、この記事は独自研究の状態でしかないってことですよね。中立的な観点を守って書かれればそれなりになる可能性はあるのに、これは絶対だ、と100%信じ込まれて、学説を学説として書かないなど書き方の問題も大きいんですよ。内容整理についてですが、まず、合意形成できそうな近現代の移動と、古代を中心とした無出典箇所の除去等、できるところから始めるほうが手っ取り早そうですね。現時点では完全に独自研究なんですけど、余計なところをそぎ取らないと議論がしにくいです。冒頭部からして、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」ってどう考えてもおかしいですよね。「ヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に」っていうか、キリスト教の教会と国家の関係性以外のことは不要じゃないんですか。だいたい、政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。まず、政教分離原則関連は移動、出典なしは除去、という内容整理を優先させて、残ったところをどうするかって議論にしませんか。そうすれば、政教分離の歴史#近代社会とキリスト教(1500年~1800年)宗教改革との重複でしかないことがわかりやすくなるでしょう。--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 08:45 (UTC)
なんていうか全然わかってないですよね。まず独自研究の方針文書は信頼すべき文献からの記載を独自研究から明確に除外しており、認めております。そのうえで学説として書かない云々については、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」という記述が、要はここに書かれている内容は歴史学的な学説に基づいて歴史を述べるんですよという意味です(この日本語難しいでしょうか)。「政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。」についてはすでにぽてからさんの個人的感想でしかありません。要はぽてからさんの意見は一言で言うと「根拠はないけど、なんか独自研究だと思う」という個人的感想でしかなく、記事の発展に何ら資するものではないと思われます。さすがにここまで方針文書を恣意的に解釈されてしまうと、私としては呆れるしかないというところではあります。ほかでも類似の議論を展開していらっしゃるようですが、ご自覚なさっていらっしゃいますでしょうか。宗教改革との重複うんぬんとかについては文献的な裏付けも全く示されておらず、もはや何を言ってるのかわからないというのが私の述懐です(宗教改革が1800年まで続いていたと言いたい?以前はグレゴリウス改革を宗教改革に含めるというような別の奇抜な主張をしていらっしゃったと思いましたが、変わりました?)。--2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527 2017年3月5日 (日) 09:07 (UTC)

コメント 宗教改革が1800年まで続いていたとかいつ言いましたか? グレゴリウス改革宗教改革に含めるなど言った覚えはありませんね。そのあたりは基本的に、グレゴリウス改革と重複記事になってるだけで出典もあまりないので除去で良いだろうと思って言及してなかっただけです。まあ、出典なしは除去してから、内容の話をしましょう。今の状況ですと、この記事は独自研究で削除したほうがいいくらいなんですよね。「政教分離における歴史学的視座」なんて節名で加筆された時点で、内容もあわせて完全に独自研究なわけなんですよ。

ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません

ウィキペディアは百科事典的な参照資料であって、教科書ではありません。ウィキペディアの目的は事実の提示であって、主題について教えることではありません。

「政教分離における歴史学的視座」をいきなり持ってこられたことで、完全に「歴史学的視座」について教えるぞという内容になってしまってますよね。そうではなくて、このような学説がある、と学説を紹介(事実の提示)するのが、Wikipediaなんですよ。独自研究という概念を独自に解釈されているためだと思いますが、百科事典ではなく、教科書か学術レポートの一種になってしまってますよね。歴史学の課題レポートとして、この内容を提出されたら及第点を取られるくらいに良く書けているとは思うんですけど、百科事典的とは到底言えないという、この違い、わかっていただけませんかね? 「政教分離における歴史学的視座」などについては、編集対応によって百科事典的にできればいいんでしょうが、2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527さんが、独自研究ではなく中立的な観点に書き直すことができるかどうかにかかってますね。このままであれば、ケースEで削除依頼提出とするしかないでしょう。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかも読まれてください。内容整理に関するコメントからズレてきてるみたいですが、まず、「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」をするだけで、わりとスリムになるんじゃないですかね。まずはじめに集中的に「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」を行うべき、ということについてコメントされてませんが、反対する理由はありませんでしょう?--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 14:12 (UTC)

「完全に『歴史学的視座』について教えるぞという内容になってしまってますよね。」というのは率直によくわかりません。現在の記事はどちらかというと学説の提示のスタイルをとっているように思われます(なにせ冒頭で歴史学的であると断っています)。この点については非常に表現感覚的な議論で、だから独自研究だというのはやはり方針文書に依拠しているとは思えません。そもそも学説について「教える」ことも提示することですし、そうした営みにおいて学説は十分相対化されているわけですから「教える」スタイル?だから中立的でないというのはいまいち理解できません。中立的な観点は意見を意見があるという事実として記すということを推奨しており、教える形というのが具体的でないのでいまいちわかりませんが(方針文書の教えるというのは独自研究を提示するあるいは教科書的に記述するという意味だと思われます。ウィキブックスに教科書があったり、それに関連するウィキバーシティが独自研究の場だとされていることからもそれは明らかです)、通例「○○という学説に基づけば、××である」とか「○○という学説に基づいて××を記述する」というのは事実の提示として中立的な観点を満たしているように思われます。そしてこの記事はそうした事実を検証可能な、しかも学術的にも信頼性の高い文献で十分裏付けており、独自研究であるという主張はどうして成り立つのか全く説明されておりません。少なくとも記述方式において百科事典的でないという根拠は全く見いだせないように思われます。一方で出典うんぬんについてはそもそも私が議論と平行して記事の出典は確認しており、その点の脚注追加を求めていますが、いまだ議論で合意が出来ず(なぜこんなことも許してくれないのか謎です)、その感触から言えば本記事はかなり出典に忠実です。なので、作業としては出典の追加をおこなってから必要であれば分割を議論すべきと思われます。どちらにせよ記事内容の一部重複が一方の一方への統合につながるというようなぽてからさんの議論も方針文書に基づいておらず、ウィキペディアの現状とも異なるもの(宗教改革についての記述が宗教改革の記事だけにあるわけではない)ですから、いずれにせよどうしてそうなるのか私には全く理解できません(おそらくぽてからさんのいう重複は記事内容の競合をいうと思われる。この記事は宗教改革そのものを記述しているわけではなく、国家と教会の関係史の文脈で一面的に触れているに過ぎないので、宗教改革を別の言葉で置き換えて別記事にしているわけではなく、宗教改革記事と競合しているということにはならない)。--2001:268:C068:D7DE:D982:AD98:2525:2849 2017年3月5日 (日) 14:32 (UTC)
参考としてややスタイルは異なりますが、たとえば九州王朝説を挙げることが出来ます。九州王朝説記事では九州王朝説に従った歴史叙述がされていますが、これは同時代の大化の改新などの記事と内容的な重複がありますが、競合関係にはないため、九州王朝説での記述を大化の改新に統合しようという話にはなりません。こちらも同様に歴史学的な政教分離論での議論を扱いますから、内容的に重複しても直接それを部分で分割して別の記事に統合すべきとはならないでしょう。--2001:268:C068:D7DE:D982:AD98:2525:2849 2017年3月5日 (日) 14:49 (UTC)
九州王朝説は、冒頭部にも「現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書[1]においては記載されていない[2]ことに留意する必要がある(後述)。」と記述があり、百科事典的な記事と言えるでしょうね。「政教分離における歴史学的視座」について言えば、誰による学説なのか、提唱者が書いていないのが一番まずいところなんですよ。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」も読んでもらいたいんですが、「Aさんがこのように提唱した。BさんはAさんをこう評価した。CさんはAさんの理論を発展させてこう主張した。」などと、提唱者を書かない限り、「事実の提示」であるとは言えないんですよね。2001:268:C068:D7DE:D982:AD98:2525:2849さんは真実を書こうとされてますけど、それはWikipediaではやってはいけないことなんです。そこをご理解されて修正されれば、百科事典的な記事になる可能性はあります。百科事典的な内容であれば、en:Church and state in medieval Europeのように、「キリスト教の教会と国家」(ただし、ヨーロッパ限定)などとするのもありかもとは思ってます。まあ、それはおいおい、ということで、まず、「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」をしちゃっていいですよね? じゃないと、毎回、イエスから現代までを網羅して発言しない限り、宗教改革が1800年まで続いているとか、グレゴリウス改革宗教改革に含めると言ったことになったりして、議論がしにくいんで。「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」に反対される理由はありませんね?--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 15:00 (UTC)
本記事のような記述方式が「事実の提示」に当たらないという解釈は一般的でないように思われます。そして今回の件に関して言えばベッケンフェルデ個人の意見ではなく、歴史学で共有されているもので、その典型としてベッケンフェルデの文献が取り上げられているだけですから、九州王朝説のような異端的な学説ではなく、歴史学界の共通理解であるという点で現状の提示の仕方に問題はないように思われます(そもそも明確に否定している人は管見の限りいない)。もちろんベッケンフェルデが提示した説を山田欣吾が発展させたという点については加筆可能です。次に編集としては政教分離原則関連のみ取り除くという点には賛成ですが、現状の記述の編集は出典の追加&加筆することを私は考えています。ので、ぽてからさんの提案に関わる点については政教分離原則に関わる日本の記述と近現代を除去することは十分想定しています。ほかの点についてはぽてからさんの方針理解と編集態度にいまいち信頼が持てないので、私のほうでやらせていただきたく思います(そもそもぽてからさんは文献も持っていないようですし、この点は私がやる以外不可能ですよね)。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 15:11 (UTC)
  • コメント 本項目に関しては、学界の定説が近年で変わってきているようですので、単純に学説を提示するだけでは一般の読者に「定説が近年変化しつつあること」はわかりにくいのではないでしょうか。例えば、宗教改革とグレゴリウス改革とに対する史学的な捉え方の変遷を記述したら、読者の便益になるでしょう。それから、「歴史的展開」の節は、その必要性は認めるにしても、少々分量が多すぎる(細かすぎる)ように思います。本項目の内容説明に関連がある幹の部分が枝葉で覆われてしまったら、これもやはり読者の理解の妨げになりかねません。--Susuka会話2017年3月5日 (日) 15:20 (UTC)
「政教分離における歴史学的視座」について言えば、まず、「ベッケンフェルデが提唱した。」と名前を出して書かなければなりませんね。「ベッケンフェルデが提示した説を山田欣吾がこのように発展させた」と、また、名前を出して書かなければなりません。今定説とされてるとしても、いつ評価が変わるかわからないものですよ。学説の提唱者の名前は必ず書くべきです。分量が多すぎて議論に差し障りも出てるんで、古代と近現代を中心に、移動と除去(「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」)をすすめるという内容整理については、どうですかね? 「この節は出典をつけるつもりだから、後回しにしてほしい」等要望は柔軟に聞くつもりですが。--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 15:33 (UTC)
では、ベッケンフェルデうんぬんについては加筆対応で。「歴史的展開」節の分量の問題についてはあると思います。その点については個人的にはしきりなおしの提案で出典などをチェックし、ブラッシュアップ中にそぎ落とすか、ブラッシュアップ後に必要となれば分割と考えておりました。あと通説が近年変化しつつあるわけではなく、通説の細かい論点が非常に掘り下げられて、細かい歴史事実の解釈について細かく修正されているという感じです(具体的にはカロリング朝が理念的にも教会であったか。その時代における帝国と王国という類似概念との関係性はどうか)。それはたとえば歴史的展開や冒頭の各論解説部分で掘り下げるということを想定しています。いずれにせよ、ぽてからさんのいうようないきなり分割っていうのはちょっと理解できませんね。古代については議論に密接に関わるので、どうして除去になるのか正直わかりません。文献を読んでいればそうはなりませんから。ぽてからさんのノートの議論の進行のために記事を削除すべきって主張はさすがにおかしいと思いますね。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 15:41 (UTC)
この記事の現状はグレゴリウス改革を専論にしているというよりは、広く西洋中世に存在したRespublica Christiana(「キリスト教国家」とか「キリスト教世界」と訳される)を扱っていますから、たとえば西ゴートの神権政治は歴史学的な政教分離論の中心課題に入りますが、これをグレゴリウス改革と結びつけるという話は聞いたことがないという問題があり、困難が予想されます。この記事はこの記事の体裁のまま、とりあえず適切な記事名への改名を優先させた方がよいように思われます。「政教分離」の言葉にひっかかりすぎて議論が全く進んでいません。改名を急がないとこの循環論争はいつまでも終わらない不安があります。--2001:268:C068:D264:DC8A:3373:B82D:AD26 2017年3月6日 (月) 15:14 (UTC)
  • 「歴史学的政教分離論」は既存の文献で学術語として確認できませんので、独自研究でしょう。それをいうなら「ドイツ国制史の視点から」というのが正確でしょう。
  • 「聖俗分離の歴史」ですが、「聖俗分離」の使用例はCiNiiでは存在しません。「聖俗分離」として事典に記載はありますか?インターネット検索では田中総一郎「聖俗の棲み分けとしての「政教分離プロセス」に関する考察 : イスラーム世界における新たな政教関係の構築に向けて」、また「聖俗分離原則」として政教分離原則の別の表記の例がありました[1]。これでは「政教分離」との棲み分けも曖昧ですし、Wikipedia:記事名の付け方の「曖昧でない - その記事の内容を曖昧さなく見分けるのに必要な程度に的確な名称であること」の観点、および「認知度が高い - 信頼できる情報源において最も一般的なもの」の方針からから、反対します
  • 事典類でも立項されており、ドイツ語版ウィキペディアでも記事として存在する「教会と国家」「キリスト教と国家」では合意できないのですか。
  • また、山田欣吾は「叙任権闘争期を通じて、聖と俗、教会と世俗の概念的・原理的分離がなしとげられることにより、今やキリスト教世界における宗教と政治、教会と国家の関係をどう定めるかというヨーロッパ的問題がはじめて本格的に提起された」(『教会から国家へ』p.15)とあり,この記載と他の事典とを総合判断すると、「キリスト教世界における宗教と政治」「キリスト教世界における教会と国家」なども適切でしょう。--121.107.209.16 2017年3月6日 (月) 16:25 (UTC)
まず記事名は現状の内容に即しておこなわれるべきであり、辞典類にあるものから選ぶべきという前提が間違っているように思われます。「教会と国家」「キリスト教と国家」「キリスト教世界における宗教と政治」「キリスト教世界における教会と国家」などはすべて歴史学的議論を前提にしている現状の内容に必ずしも適合していません。たとえば歴史学的理解と神学的理解ではキリスト教迫害史に対する見解は現状全く異なり、グレゴリウス改革についての評価も全く異なるのですが、その点について曖昧にすると記事内容を無際限に広げることになります(こうした議論に対し、ウィキペディアの方針に忠実であれば、両論併記することになると思われますが、この記事でそれをすると記事内容はかなり煩雑になることが予想されます)。「聖俗分離」という言葉は耳慣れない言葉であるという点については認めますが、「政教分離」という言葉が無用な誤解のもとになるために提案したものです。ちなみに聖俗分離の出典については「叙任権闘争期を通じて、聖と俗、教会と世俗の概念的・原理的分離がなしとげられることにより、今やキリスト教世界における宗教と政治、教会と国家の関係をどう定めるかというヨーロッパ的問題がはじめて本格的に提起された」という記載がその根拠であり、その点については了解できるものと思います。--2001:268:C068:D264:A49D:FFA6:F92D:DB35 2017年3月6日 (月) 17:03 (UTC)
「まず記事名は現状の内容に即しておこなわれるべき」とは自己愛もほどほどにしてください。問題だらけですよ。世俗化論が加筆されたからといって、それ以外の箇所が改善されたわけではありません。
Wikipedia:記事名の付け方では「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」、信頼できる情報源における慣例や認知度の高さ、最も一般的に使われているものが推奨され、「記事名を選ぶにあたっては、編集者の関心よりも読者の関心を、専門家よりも一般的な利用者の関心を重視してください。」と明記されています。「聖俗分離」と「政教分離」との区分も曖昧だし読者を混乱させますし、「聖俗分離」は一般的な用語ではなく特殊な表記ですから、「政教分離とは異なる聖俗分離」なんてどの書物にも書いてありません。2001IP氏が一人で思っているだけです。歴史学事典でも「聖俗分離」項はなく、「政教分離」として立項されています。
2001IP氏は歴史学事典の「キリスト教と国家」項について、「樺山紘一さんの記述はかなり典型的に歴史学的な政教分離論を記しているので、これを中心に整理するとわかりやすい」と発言しており、自分でも内容との適合を3月5日(日) に認めていたのに、わずか一日でまるで反対のことをいっています。これはさすがに訂正しませんか。
「辞典類にあるものから選ぶべきという前提が間違っている」といいますが、辞典と事典は違います。私は「辞典」といっていません。複数の研究者による編集会議を経て作られたも全16巻にもなる歴史学事典は日本の歴史学界の一般的な状況が伺えるもので、その立項状況を参照することが望ましいのはいうまでもないのですが、「間違っている」というのなら、自分独自の判断以外に、ウィキペディアの方針文書などで該当するものはありますか?
「聖俗分離の歴史」以外の記事名がないなら、改名提案の議論は終了すべきでしょう。問題箇所を改善する作業および分割議論に移行しましょう。--121.107.209.16 2017年3月8日 (水) 14:42 (UTC)
たとえば上の発言では「キリスト教と国家」項が「樺山紘一さんの記述はかなり典型的に歴史学的な政教分離論を記しているので、これを中心に整理するとわかりやすい」と発言したのは事実ですが、この発言が「キリスト教と国家」が記事名として適切であるという意味で亡いことは明らかです。こういうのを詭弁と言います。また政教分離と異なる聖俗分離があるなどとは言っておらず、あくまで「教会と国家の分離」の意味の政教分離(この用法での政教分離があることはご自身でも確認されていますよね?新カトリック大事典II、研究社 p.596-597)は政教分離原則と紛らわしいので、聖俗分離に置換すべきという議論です。政教分離と聖俗分離が別概念でなく場合によって置き換えられることは、[2]でご自身が確認されたのではなかったのですか?ともあれまず議論としては「教会と国家」という記事名が問題だということであり、聖俗分離が積極的に支持されるという議論ではありません。聖俗分離の歴史がダメなら、別に「教会と国家の分離の歴史」でいいんです。分離の方向性が示された方がよいのではないかという話をしているのですが、以前の議論ちゃんと確認していますか?--2001:268:C068:C235:2882:94D3:3DF6:D777 2017年3月8日 (水) 15:55 (UTC)
「キリスト教と国家」「教会と国家」という記事名が不適切な理由が分かりませんし、「聖俗分離」は「政教分離と聖俗分離が別概念でなく場合によって置き換えられる」からこそ、別記事にしてしまうと曖昧になるし記事名が重複してしまいます。「教会と国家の分離の歴史」は「聖俗分離の歴史」よりいいですが、2001IP氏が書きたいことは「政教一致から政教分離へ」の経緯であり、「教会と国家の一致と分離の歴史」ということですよね。「一致と分離の歴史」は内容で書けばよく、理解しにくいので、「教会と国家の歴史」はどうです?あるいは、「政教一致と政教分離の歴史 (ヨーロッパ)」でもいいかもしれません。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 09:44 (UTC)

事典等の立項状況、および諸論文での言及状況の調査:分割提案の理由として[編集]

調査報告(121.107.209.16 2による)[編集]

文献調査のため議論に参加できませんでした。私の最近の発言より以降の議論を吟味していませんことを前提として、調査結果を報告します。従来私が主張していた分割や改名などの編集が必要であるということの裏付けがとれました。コメントは後述します。「政教分離の歴史」を分割するか、改名するかの議論に移る前に、既存の文献における一般的な傾向を確認すべきですし、ウィキペディアはそれらに準じるべきです。

百科事典等、研究諸論文における立項・言及状況 
出典 記載内容 「政教分離の歴史」の出典としての有意性。また適切な記事名
歴史学事典(全16巻)第11巻 宗教と学問,2004年、弘文堂、p.399-400。編集委員は樺山紘一尾形勇加藤友康川北稔岸本美緒黒田日出男佐藤次高南塚信吾山本博文 「政教分離」項(岩井淳)。信教の自由と不可分。16世紀の宗教改革以降に信教の自由が、18世紀後半のアメリカ独立時に政教分離が達成。
[歴史] 古代は政教未分離が多い。政教一致型には教会国家型(宗教が世俗領域に権威や権力を持つ。例としてヨーロッパの教会、シャリーアを奉じるイスラム世界)と、国家教会型(絶対主義期の国家教会、近代日本)がある。参照として「宗教改革」「信教の自由」「ピューリタニズム」 「政教一致」(イスラムについて解説)。
○ または「政教一致」
歴史学事典第12巻 王と国家、弘文堂、p.399-400. 「政教分離」項(渡辺昭子)。アメリカ、フランスの近代憲法について言及し、国家と教会(政治と宗教)が相互に干渉すべきではなく、それぞれ固有の領域であるという思想は、宗教改革以降のヨーロッパで広まった。神聖ローマ帝国ではアウクスブルクの和議によってルター派公認。ほか、領邦教会制(諸侯および都市ごとに宗派を選択する)、トランシルヴァニア議会、ポーランドのワルシャワ連盟協約、ロックの寛容論、ナントの勅令、イギリスのピューリタンに言及し、「寛容思想の普及、そしてアメリカ独立革命やフランス革命を契機として、19世紀になるとヨーロッパの国々が教会との関係の制度的再編にのりだす」と解説。参照として「英国教会」「キリスト教と国家」「国家宗教」「ジョン・ロック」「王(中世ヨーロッパ)」「王(東ヨーロッパ)」「王(近代西ヨーロッパ)」。 ○ または「国家と教会」「キリスト教と国家」
歴史学事典第12巻 王と国家 「キリスト教と国家」項(樺山紘一)。
1.キリスト教初期。391年の国教化、西ローマ帝国崩壊後、キリスト教と王権の関係は、ゲルマン部族諸国家に継承される。東西ゴート王国。
2.東ローマ帝国(ビザンツ)。皇帝教皇主義(カエサロパピスム)は後にロシア帝国が継承。16世紀教会改革以降のイングランド教会でも、その国王との間で実現したとみるのは可能。ただし、神政政治の純粋な形に移行はしていない。
3.ゲルマン諸国家。カール大帝。国王と教皇の関係。両権力は別種として二分されるわけでもなく、独自性を保持し続けた。「頂点としての皇帝と教皇の関係はもとより、地方権力と地方教会とのあいだでも、微妙な距離をたもちつつ、聖俗の権力は分離されたうえで、なおファジーな形で結合されもしている。」 教皇はテオクラシー(神政政治)を希求、国王は自国領教会の従属化を要請。14世紀以降のフランス国家教会制度、ガリカニスムが例。ガリカニスム原則は近世の絶対主義国家をへて、ナポレオンによる政教条約(コンコルダート)で公認の原則となる。
4.宗教改革。
5.近代社会に「国家と教会はそれぞれの領分を截然と分離」した(政教分離)。社会の世俗化現象は教会の介入を拒否。19世紀から20世紀にかけて、聖職者は、公務員に準じる地位となる。
6.このように、教会からの国家政治へと経緯がある。しかし、別の観点として、古代世界では国家権力は教会内紛争に介入。しかし、中世にかけて、異端問題は教義というよりも、政治問題であった。異端の監視や処遇は教会でなく、国家が実施した。
参照として「神政政治」「教会国家論(フランク王国の)」「教皇領国家」「皇帝教皇主義」「社会主義国家」「政教分離」「カール大帝」「イギリス国教会」
△ 「キリスト教と国家」
西洋中世史事典(H.R.ロイン) 東洋書林 「政教分離」の項目なし。事項索引にもなし。
西欧中世史事典II(ハンス・K・シュルツェ)五十嵐修他訳 「政教分離」の項目なし。「帝国」「皇帝権」「王権支配」として立項。事項索引にも「政教分離」なし。
ヨーロッパ中世史事典(A・ジェラール) 藤原書店 見出し項目にも事項索引にも「政教分離」なし。
 世界歴史大事典(全10巻)1956/1990 平凡社 「政教分離」の項目なし。「第三共和政」項目で政教分離法(1905年)に言及があるだけ。
世界歴史大事典(全22巻)1988 教育出版センター(梅棹忠夫、江上波夫監修) 「政教分離」の項目なし。事項索引にもなし。
新編西洋史辞典(平成5年、改訂増補)、京大西洋史辞典編纂会。 「政教分離」の項目あり。フランス革命、1801年の政教条約に言及。
新カトリック大事典II、研究社 p.596-597 「政教分離」の項目あり。伝統的には「教皇権と皇帝権」の関係の問題として議論されてきた。「教会の自由」や教会の権威の問題など。ゲラシウスI世は、世界が「教皇の権威」 (auctoritas) と「君主の権力」 (potestas) によって治められるとした(両剣論)。叙任権闘争を経て教皇権至上主義は頂点に達した。対立教皇時代を収拾するためのコンスタンツ公会議では投票が国別に行われた。14世紀前半のパドヴァのマルシリウスは、聖職者の権威を否定し、君主の政治的主権を主張。中世末期の教皇権の衰退、宗教改革、近代国家体制、フランス革命などによって世俗主義、良心と信教の自由が掲げられ、「反教会・反聖職者主義的」であった。現代、ヨアンネス23世回勅「マーテル・エト・マギストラ」「パーチェム・イン・テリス」、第2バチカン公会議の現代世界憲章に言及。
新カトリック大事典II、研究社 p.905 「国家教会」項。キリスト教社会における教会と国家の関係についての記事。広義では国家がキリスト教を唯一の正当な宗教として指定すること。狭義の通常の意味では、宗教改革期に成立し、絶対主義時代に頂点を極めた国家主導型の国家・教会関係。[歴史的概観]として、ローマ帝国、中世のシャルルマーニュやオットー朝、ザリエル朝、ビザンチンなどは「割愛して」「狭義のみ述べる」とし、フランスのフィリップ4世、シャルル7世、ドイツのルートヴィヒ4世で国家教会の先駆的な形態が形成されたが、宗教改革が決定的である。  「国家教会」
 宗教の事典(朝倉書店) 山折哲雄川村邦光, 市川裕, 大塚和夫, 奥山直司, 山中弘 (編),pp.862-864. 「政教分離・政教一致」項あり(中野毅)。政教一致には教会国家主義と国家教会主義があるとし、前者は神聖政治または神権政治(テオクラシー)、アウグスティヌスの普遍教会が、後者にはトマス・エラストス(1524-1583)やイングランド国教会がある。政教分離を最初に国制として取り入れたのはアメリカ合衆国と解説。 ○  または「政教一致」
Steven K. Green,The Separation of Church and State in the United States,OXford Reseach Encyclopedias. The Historical Antecedents of Church-State Separation節で、Augustine of Hippoの「神の国」と「地の国」に言及するが、1行程度。教会と国家の分離の画期は、宗教改革、啓蒙主義、ホイッグ党の活動(参考:ホイッグ史観)にある。カルヴァン、ルターについて5行程。英米ピューリタン、ロジャー・ウィリアムズ、ロックの寛容論、モンテスキュー、ジェファーソン、ジョン・トレンチャードとトマス・ゴードン、James Burgh、大覚醒などアメリカ建国期以降が主。
Encyclopedia of religion 「政教分離(Separation of church and state)」項はなく、「Church and State」「Politics and Religion」で立項 「教会と国家」「政治と宗教」
ブリタニカ国際大百科事典 「政教分離」項あり。アメリカ憲法に言及。
知恵蔵 「政教分離」項あり。国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。信教の自由と表裏一体。欧米で生まれ、近代化と共に非キリスト教国にも浸透。
百科事典マイペディア 「政教分離」項あり。国家権力と宗教の分離。信教の自由の必要条件。未開社会,古代・中世社会では政治と宗教が一体となり宗教的権威によって支配が行われた。
世界大百科事典 「政教分離」項あり。「国家の非宗教性,宗教的中立性の要請,ないしその制度的現実化」。[歴史]として「ヨーロッパにおいて政教分離は歴史過程のなかで徐々に進行。聖職叙任権闘争,宗教戦争,フランス革命が画期。 」
日本大百科全書(ニッポニカ) 「政教分離」項あり。国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。「中世および近世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権が密接に結合していたため信教の自由が認められず、国教または公認の宗教以外は異端として刑罰を含む迫害を受けた。17、18世紀に宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいにヨーロッパ社会に広まり、現代国家においては、政教分離は信教の自由の保障のための憲法原則として広く採用されることになった。」
英語版ウィキペディア「政教分離」 古代について書かれているが、一次資料を並べたもので、独自研究の疑いがある。「後期古代」でアウグスティヌス「神の国」、「中世」では皇帝教皇主義、教皇権について解説。以降、宗教改革、啓蒙時代、ジェファーソンがそれぞれ10行程で解説。「中世」については、Church and state in medieval Europe(中世ヨーロッパにおける教会と国家)記事へのリンクがされており、日本語版「政教分離の歴史」もこの記事へ言語間リンクされている。 「中世ヨーロッパにおける教会と国家」
ドイツ語版ウィキペディア 「政教分離(Trennung zwischen Religion und Staat)」記事 20世紀以降の解説。
ドイツ語版ウィキペディア「教会と国家」 啓蒙時代、フランス革命以降、教会の優位性が低落し、中立的法治国家について冒頭で解説したあと、「聖書における教会と国家」「カトリック神学における国家論」「プロテスタントにおける国家論」について解説。 「教会と国家」
CiNii「政教分離」検索 「政教分離」関連文献は731件。しかし、ほとんどがアメリカ、フランス、日本の近代の政教分離原則についてのもので、ヨーロッパ中世史の論文名で「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
CiNii「皇帝権」検索 「皇帝権」関連文献は61件。ドイツ王権(皇帝権)とローマ法王権の関係、ビザンツ皇帝権、ロタール一世の皇帝権、教皇権と皇帝権などについての論文。しかし、論文キーワードで「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
CiNii「教皇権」検索 「教皇権」関連文献は34件。論文キーワードで「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
ゲオルク・シュトラック「教会「改革」から宗教「改革」へー盛期・後期中世における教皇権」史苑第75巻2号,pp.387-415. 「政教分離」不使用。
山田欣吾『教会から国家へ』 「比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想」したもの。目次、事項索引に「政教分離」なし。「ヨーロッパでは、その長い歴史を通じて、政治ないし国家の「脱宗教化」、「世俗化」がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」(p.1)。12−13世紀から18-19世紀にいたるヨーロッパの諸国家は「統一的・包括的な権力構成体」として成立したが、ベッケンフェルデは「世俗化」過程を重視した(p.1-2)。「ヨーロッパの政治秩序の世俗化過程には、巨視的に見て、二つの大きな画期」があるとし、第一の画期は11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争期、第二の画期は16、17世紀の宗教改革と宗教戦争である、「本稿では、後に、世俗化の第一段階としての叙任権闘争期」を考察するが、その前に、「ヨーロッパの世俗化過程の行き着く先を示唆しておく意味で、第二段階の問題についても、ごく常識的な諸点を述べておきたい」(p.2-3) 本文で「政教分離」という語句は使用されていない。  △ または☓  「世俗化」「宗教と国家」「キリスト教と国家」
山田欣吾「西洋文明史の片隅から」(橋問叢書 第59号) 叙任権闘争やグレゴリウス改革のときに初めて、宗教に支えられた政治秩序が世俗化し、近世初めの宗教改革で加速。この動きの終点が、政教分離、つまり「どの信仰を持っている者でも市民的・政治的な権利は持つことができる、新教の立場にある者でも、旧教の立場にある者でも、政治的な権利を持つことができる、こういう原則が確立するのは三十年戦争を経て、一応の終点はやはりフランス革命に至る」。「ヨーロッパは政治と宗教との分離というものを世界の中で初めて自覚的に達成した地域」と述べている。 ○(ただし著書の代表的著作ではない)
五十嵐修『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』 論文概要書および論文審査報告書では、カールの戴冠、国家と教会の関係、王国と帝国との関係、皇帝権、教皇権、世俗権力、国制史について触れられているが、「政教分離」という用語は使用されていない。なお、目次でも「政教分離」は使用されていない。(巻末事項索引は未確認)
世界歴史体系 ドイツ史I  山田欣吾も執筆。しかし、索引項目になし。
第二章「フランク時代」(渡部治雄)ではメロヴィング朝フランク王国、第3章「ザクセン朝」(山田欣吾)ではオットー1世と皇帝権の獲得、王国支配の集権化と王国教会の体制化について、第4章は「叙任権闘争」(山田欣吾)、5.6章は「シュタウフェン朝」、第7章「ドイツ王国の国制変化」で国王=皇帝選挙と教皇権、カール4世などについて解説。
 世界の歴史10 西ヨーロッパの形成、佐藤彰一, 池上俊一 カロリング朝、叙任権闘争も扱われるが、「政教分離」索引になし。
古谷圭一「イングランド市民革命とプロテスタント各教派の成立」キリスト教と文化 : 関東学院大学キリスト教と文化研究所所報14,2016.pp.33-45. エキュメニズムからの研究。イングランド市民革命による宗教的迫害から「教権から切り離された人々の万人祭司主義の徹底化による会衆主義、教権の政治的かかわりを禁じる政教分離主義に突き進んだ」と解説。 ○、または「会衆制」「教会政治史
柳原 邦光「アメリカとフランスの市民宗教論の比較」地域学論集5巻3号、鳥取大学地域学部地域文化学科,2009,p227-251. 論文キーワード「政教分離」あり。 ○、または「市民宗教」
豊川 慎「リベラル・デモクラシーにおける政治認識とキリスト教民主主義の政治思想序説」キリストと世界17 : 東京基督教大学紀要,2007年 論文キーワード「政教分離」あり。
久保田泰夫「ロージャー ・ウィリアムズと教会と国家」東京工芸大学芸術学部紀要 4, 85-98, 1998 ウィリアムズの政教分離論 ○、またはロジャー・ウィリアムズ
中山勉「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」(東京大学) 「政教分離とは信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「「中世でも政教分離はなされていた」式の議論は、この制度的保障としての政教分離の意義をトータルに見誤っている。た だ単に政治と宗教の管轄が違うだけでなく(そんなものなら古代にもあった)、それが(特定宗教だけでなく)あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準である」(p.213)
森本あんり『アメリカ的理念の身体― 寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社) 一章「中世的寛容論から見た初期アメリカ社会の政治と宗教」で中世寛容論に言及。ただし、近世近代アメリカにおける政教分離が主たる考察対象。前史としての言及。

コメント 2001IP氏はいわゆる「政教分離」については「政教分離原則」で、「政教分離の歴史」は「歴史学的な」内容にすべきであると繰り返し主張されています。しかし、各種文献を調査しましたところ、2001IP氏の主張は牽強付会、つまり自分の都合のいいように強引に理屈をこじつけることであると結論を出さざるをえませんでした。2001IP氏は「歴史学における政教分離」という改名を提案されていますが、Wikipedia:記事名の付け方における「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」ではないし、また「政教分離」は2001IP氏が主張するような意味に限定される使い方をされていません。日本の歴史学の集大成ともいえる事典である『歴史学事典(全16巻)』では「政教分離」は二種類の項目があり、一つは宗教改革とアメリカ独立によって近代の政教分離が実現とし、古代の政教一致と対比しています。二つ目では、アメリカ、フランスの近代憲法、国家と教会(政治と宗教)が相互に干渉すべきではなくそれぞれ固有の領域であるという思想は、宗教改革以降に広まったとして、神聖ローマ帝国のアウクスブルクの和議(1555年)等に言及しています。要するに『歴史学事典(全16巻)』では「政教分離」は宗教改革、フランス革命、アメリカ独立における経緯が解説されています。また、2001IP氏が主張される記事内容は、同事典であれば「キリスト教と国家」で立項されているといってよいでしょう。この他、新編西洋史辞典では「政教分離」項でフランス革命、1801年の政教条約と近代以降を解説。中世史事典各種には、見出し項目としても、また事項総索引にも「政教分離」はありませんでした。

新カトリック大事典での内容は、「教皇権と皇帝権」、ゲラシウスI世両剣論、叙任権闘争、パドヴァのマルシリウスなども解説し、また、宗教の事典(朝倉書店) では「政教分離・政教一致」として立項されていました。2001IP氏の主張の根拠としてはこの二つの事典は有用でしょう。

しかし、これらを解説するにしても、Wikipedia:ページの分割と統合で「ページの分量が肥大化したため、読者にとって全体の見通しが悪く不便な場合、または、ページ中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合」に該当する点からもやはり分割が検討されるべきです。

英語版ウィキペディア「政教分離」は一次資料を並べたもので、内容の状態はよくありません。しかし、アウグスティヌス、中世の皇帝教皇主義、教皇権について簡潔に解説したあと、宗教改革、啓蒙時代、ジェファーソンがそれぞれ10行程で解説されており、分量としては目安にはなります。そして、「中世」についてはChurch and state in medieval Europe(中世ヨーロッパにおける教会と国家)記事へのリンクがされており、日本語版「政教分離の歴史」もこの記事へ言語間リンクされています。「中世ヨーロッパにおける教会と国家」を日本版でも新規に立項するほうがいいでしょう。

ドイツ語版ウィキペディアでは、 「政教分離」は20世紀以降のもの、「教会と国家」記事が啓蒙時代、フランス革命以降、教会の優位性が低落し、中立的法治国家について冒頭で解説したあと、「聖書における教会と国家」「カトリック神学における国家論」「プロテスタントにおける国家論」について解説しています。「教会と国家」を日本版でも新規に立項するほうがいいでしょう。

CiNii検索では、「政教分離」関連論文は731件でそのほとんどがアメリカ、フランス、日本の近代の政教分離原則についてのもので、ヨーロッパ中世史または2001IP氏のいう意味での「歴史学」の論文名で「政教分離」を使用した例は見つかりませんでした。


山田欣吾『教会から国家へ』は「比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想」した書籍ですが、目次、事項索引に「政教分離」はなく、2001IP氏が引用した箇所は「政教分離」でなく、「宗教と政治の分離」という表記でした。また、すでに以前の議論でも新保論文でのベッケンフェルデ紹介と同じく、ベッケンフェルデの理論をヨーロッパにおける「世俗化」過程についてのものとして解説しており、「ヨーロッパの政治秩序の世俗化過程」の画期は叙任権闘争、宗教改革としてい解説しています。つまり、2001IP氏は、本来、ベッケンフェルデや山田の見解を歴史学的または文献的に厳密に、また誠実に紹介しようとするならば、「世俗化」とすべきところを、原文にはない「政教分離」をあるとし、牽強付会し、強引に解釈しています。もっとも、新保論文にもあるように、ベッケンフェルデが「政教分離」について触れているのは確かですが、それも終着点としての言及であって、ベッケンフェルデの歴史学的対象は、「政教分離」というよりも、「世俗化」という概念で構想されています。「政教分離とは、世俗化の言い換えにすぎない」と2001IP氏は言うかもしれませんが、実際の文献では「世俗化」という用語・概念が多用され、論文の題名にもなっているのに、「世俗化」でなく「政教分離」という語句に執着するのか、根拠が不明です。私は幾度も「世俗化」はどうかといっていましたが、何も理解していないくせにいうなと非難を繰り返すばかりでした。なお、山田欣吾は橋問叢書 第59号という同窓会冊子で「政教分離」といっていますが、これは代表的な論文でもなく、講演における質疑応答での回答におけるものでした。また、専門研究者向けではない一般書であるが、内容がかなり高度な『世界歴史体系 ドイツ史』は山田欣吾も執筆していますが、索引項目にも本文にも「政教分離」はありませんでした。

その他の文献は、私がこれまで述べてきたように、フランス革命、アメリカ独立以降のものですが、中山勉は「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」(東京大学) では「政教分離論」が使用されていますが、「歴史学的」という曖昧な表記はされていません。政教分離の歴史において重要なロジャー・ウィリアムズについて書かれたこの論文を出典に、人権信教の自由、自由権、プロビデンス入植、千年王国論、そしてこの論文でも紹介されているティモシー・ホール『教会と国家の分離』(Hall, T. M., Separating Church and State, Urbana, University of Illinois Press, 1998.)をもとに合衆国憲法修正第1条とロック、ジェファーソン、マディソン、ウィリアムズの思想を、「政教分離の歴史」で執筆することに2001IP氏は反対はされないでしょう。しかしこれら関連する項目すべてを2001IP氏の手法で網羅したらどうなるでしょうか。中山は「人が学問的に真剣に彼(ロジャー・ウィリアムズ)の思想の中に(牽強付会の擬似物ではなく)「信教の自由」と「政教分離」を発見しようとするのなら、テクストの表意に囚 われることから注意深く逃げながら、以下の思考プロセスを踏まなければならない。この うちのひとつでも通過できなければ、そのスキームは失敗である。」とし、以下のプロセスをあげています(p.213)。

  • 「1、「信教の自由」とは人権であり、そうである以上、それを侵害する可能性を持つ公的主体(典型的には国家権力)が確立して初めてその保障云々を論じることができるが、ウ ィリアムズの場合はどうか。
  • 2、「政教分離」とは信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではないが、ウィリアムズの場合 はどうか。
  • 3「信教の自由」も「政教分離」も、私的な価値関心を公的領域に持ち込まないという 立憲主義の前提を受け入れて初めて、その実現を論じることができるものだが、ウィリアの場合 はどうか。」これはウィリアムズに限らない重要なプロセスです。この2についての注釈で中山は、「本稿においては何度も強調してきたが、この点は重要である。「中世でも政教分離はなされていた」式の議論は、この制度的保障としての政教分離の意義をトータルに見誤っている。ただ単に政治と宗教の管轄が違うだけでなく(そんなものなら古代にもあった)、それが(特定宗教だけでなく)あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準である」。

この中山の基準は厳格なものですが、正しいでしょう。私が2001IP氏およびKanbun版に感じる疑義を学問的に明言されているものです。しかし、この中山規準を、この記事に直接導入することを私が提案しているわけではありません。新カトリック大事典を用いて両剣論から近代の政教分離への歴史を解説することに反対するわけではありません。しかし、分量の問題がありますし、記事全体のバランス、また、他に立項したほうがいいような場合は、検討されるべきでしょう。著しく分量が肥大化したものは独立させるべきです。

宗教改革」の分割にも反対していましたが、各種百科事典においては、「宗教改革」「政教分離」の両方の項目があり、つまり、それぞれ独立した記事として立項されています。「宗教改革」についても「政教分離の歴史」では解説があるべきですが、それは簡潔にまとめるべきで、詳細は「宗教改革」「宗教改革の歴史」で書くことが適切です。

以上、2001IP氏による「歴史学では定説・常識」との主張は、一般的な百科事典だけでなく、日本の歴史学界による歴史学事典においてさえも、裏付けがとれませんでした。それどころか、山田欣吾の書籍を確認しても、牽強付会と判断せざるをえませんでした。今後、どのように分割(または他のやり方)を進めていくのがいいでしょうか。この調査結果をもってしても、2001IP氏が従来の主張を繰り返す場合は、やはり投票などで決めるべきでしょうか。分割先としては、Wikipedia:記事名の付け方における「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」から、教会と国家が一番適切ではないでしょうか。「宗教改革」についての箇所は宗教改革宗教改革の歴史へなどへ分割することが適切でしょう。--121.107.209.16 2017年3月5日 (日) 15:45 (UTC)

まずは121.107.209.16さんの整理に感謝を。とりあえず一点だけ。「宗教と政治の分離」が「政教分離」でないというのは一般的理解とはいえない(そもそも歴史学的に国家の世俗化という言葉が政教分離を指すので)ので、この点だけ明確に修正をお願いします。また「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」はアメリカ政教分離思想史の専論で、直接的に国家・教会関係を扱ったものではないので、これを中心的に扱うべきとは思われません。古谷以降の文献も基本的には外されるべきと思われます。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 15:56 (UTC)
個人的にはこのなかでは樺山紘一さんの記述はかなり典型的に歴史学的な政教分離論を記しているので、これを中心に整理するとわかりやすいと思われます。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 16:05 (UTC)
121.107.209.16さんの文献調査、多大なる労力に感謝申し上げます。121.107.209.16さんのご意見にほぼ同意いたします。明らかに、特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成になってるところについては、学説のところなどは修正されるということで、もし、最低限提唱者を書かれるなり適切に修正がされれば、「教会と国家」(ヨーロッパのキリスト教)などの記事名で残すのはありかなと思ってます。「そもそも歴史学的に国家の世俗化という言葉が政教分離を指す」などの意見が、そもそも、独自の考えもしくは論評もしくは特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成ですよね? そもそも、「政教分離」とは辞書的な意味で「宗教と政治の分離」ではなく、「教会と国家の分離(Separation of Church and State)」でしょう? アメリカ大統領の聖書への宣誓はご存じでしょうが、2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96Eさんは「宗教」と「教会」を混同させて論じてませんか?--ぽてから会話2017年3月5日 (日) 16:14 (UTC)

変更案(2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96Eによる)[編集]

政教分離の歴史の出典としての優位性については、本記事の趣旨に合わせて、国家と教会の関係に言及しているかに訂正。政教分離原則に関わると思われるものは△に変更。

百科事典等、研究諸論文における立項・言及状況 
出典 記載内容 「政教分離の歴史」の出典としての有意性。また適切な記事名 本記事の内容との関わり
歴史学事典(全16巻)第11巻 宗教と学問,2004年、弘文堂、p.399-400。編集委員は樺山紘一尾形勇加藤友康川北稔岸本美緒黒田日出男佐藤次高南塚信吾山本博文 「政教分離」項(岩井淳)。信教の自由と不可分。16世紀の宗教改革以降に信教の自由が、18世紀後半のアメリカ独立時に政教分離が達成。
[歴史] 古代は政教未分離が多い。政教一致型には教会国家型(宗教が世俗領域に権威や権力を持つ。例としてヨーロッパの教会、シャリーアを奉じるイスラム世界)と、国家教会型(絶対主義期の国家教会、近代日本)がある。参照として「宗教改革」「信教の自由」「ピューリタニズム」 「政教一致」(イスラムについて解説)。
○ または「政教一致」
歴史学事典第12巻 王と国家、弘文堂、p.399-400. 「政教分離」項(渡辺昭子)。アメリカ、フランスの近代憲法について言及し、国家と教会(政治と宗教)が相互に干渉すべきではなく、それぞれ固有の領域であるという思想は、宗教改革以降のヨーロッパで広まった。神聖ローマ帝国ではアウクスブルクの和議によってルター派公認。ほか、領邦教会制(諸侯および都市ごとに宗派を選択する)、トランシルヴァニア議会、ポーランドのワルシャワ連盟協約、ロックの寛容論、ナントの勅令、イギリスのピューリタンに言及し、「寛容思想の普及、そしてアメリカ独立革命やフランス革命を契機として、19世紀になるとヨーロッパの国々が教会との関係の制度的再編にのりだす」と解説。参照として「英国教会」「キリスト教と国家」「国家宗教」「ジョン・ロック」「王(中世ヨーロッパ)」「王(東ヨーロッパ)」「王(近代西ヨーロッパ)」。 ○ または「国家と教会」「キリスト教と国家」
歴史学事典第12巻 王と国家 「キリスト教と国家」項(樺山紘一)。
1.キリスト教初期。391年の国教化、西ローマ帝国崩壊後、キリスト教と王権の関係は、ゲルマン部族諸国家に継承される。東西ゴート王国。
2.東ローマ帝国(ビザンツ)。皇帝教皇主義(カエサロパピスム)は後にロシア帝国が継承。16世紀教会改革以降のイングランド教会でも、その国王との間で実現したとみるのは可能。ただし、神政政治の純粋な形に移行はしていない。
3.ゲルマン諸国家。カール大帝。国王と教皇の関係。両権力は別種として二分されるわけでもなく、独自性を保持し続けた。「頂点としての皇帝と教皇の関係はもとより、地方権力と地方教会とのあいだでも、微妙な距離をたもちつつ、聖俗の権力は分離されたうえで、なおファジーな形で結合されもしている。」 教皇はテオクラシー(神政政治)を希求、国王は自国領教会の従属化を要請。14世紀以降のフランス国家教会制度、ガリカニスムが例。ガリカニスム原則は近世の絶対主義国家をへて、ナポレオンによる政教条約(コンコルダート)で公認の原則となる。
4.宗教改革。
5.近代社会に「国家と教会はそれぞれの領分を截然と分離」した(政教分離)。社会の世俗化現象は教会の介入を拒否。19世紀から20世紀にかけて、聖職者は、公務員に準じる地位となる。
6.このように、教会からの国家政治へと経緯がある。しかし、別の観点として、古代世界では国家権力は教会内紛争に介入。しかし、中世にかけて、異端問題は教義というよりも、政治問題であった。異端の監視や処遇は教会でなく、国家が実施した。
参照として「神政政治」「教会国家論(フランク王国の)」「教皇領国家」「皇帝教皇主義」「社会主義国家」「政教分離」「カール大帝」「イギリス国教会」
○ 「キリスト教と国家」
西洋中世史事典(H.R.ロイン) 東洋書林 「政教分離」の項目なし。事項索引にもなし。
西欧中世史事典II(ハンス・K・シュルツェ)五十嵐修他訳 皇帝権、終末論的・黙示録的な帝国解釈(p.96)カロリング時代の皇帝権(p.133)以下
西欧中世史事典III(ハンス・K・シュルツェ)小倉欣一他訳 カロリング王権、国王塗油、神授王権と教会の官職観念(p.48)
ヨーロッパ中世史事典(A・ジェラール) 藤原書店 見出し項目にも事項索引にも「政教分離」なし。
 世界歴史大事典(全10巻)1956/1990 平凡社 「政教分離」の項目なし。「第三共和政」項目で政教分離法(1905年)に言及があるだけ。
世界歴史大事典(全22巻)1988 教育出版センター(梅棹忠夫、江上波夫監修) 「政教分離」の項目なし。事項索引にもなし。
新編西洋史辞典(平成5年、改訂増補)、京大西洋史辞典編纂会。 「政教分離」の項目あり。フランス革命、1801年の政教条約に言及。
新カトリック大事典II、研究社 p.596-597 「政教分離」の項目あり。伝統的には「教皇権と皇帝権」の関係の問題として議論されてきた。「教会の自由」や教会の権威の問題など。ゲラシウスI世は、世界が「教皇の権威」 (auctoritas) と「君主の権力」 (potestas) によって治められるとした(両剣論)。叙任権闘争を経て教皇権至上主義は頂点に達した。対立教皇時代を収拾するためのコンスタンツ公会議では投票が国別に行われた。14世紀前半のパドヴァのマルシリウスは、聖職者の権威を否定し、君主の政治的主権を主張。中世末期の教皇権の衰退、宗教改革、近代国家体制、フランス革命などによって世俗主義、良心と信教の自由が掲げられ、「反教会・反聖職者主義的」であった。現代、ヨアンネス23世回勅「マーテル・エト・マギストラ」「パーチェム・イン・テリス」、第2バチカン公会議の現代世界憲章に言及。
新カトリック大事典II、研究社 p.905 「国家教会」項。キリスト教社会における教会と国家の関係についての記事。広義では国家がキリスト教を唯一の正当な宗教として指定すること。狭義の通常の意味では、宗教改革期に成立し、絶対主義時代に頂点を極めた国家主導型の国家・教会関係。[歴史的概観]として、ローマ帝国、中世のシャルルマーニュやオットー朝、ザリエル朝、ビザンチンなどは「割愛して」「狭義のみ述べる」とし、フランスのフィリップ4世、シャルル7世、ドイツのルートヴィヒ4世で国家教会の先駆的な形態が形成されたが、宗教改革が決定的である。 ○ 「国家教会」
 宗教の事典(朝倉書店) 山折哲雄川村邦光, 市川裕, 大塚和夫, 奥山直司, 山中弘 (編),pp.862-864. 「政教分離・政教一致」項あり(中野毅)。政教一致には教会国家主義と国家教会主義があるとし、前者は神聖政治または神権政治(テオクラシー)、アウグスティヌスの普遍教会が、後者にはトマス・エラストス(1524-1583)やイングランド国教会がある。政教分離を最初に国制として取り入れたのはアメリカ合衆国と解説。 ○  または「政教一致」
Steven K. Green,The Separation of Church and State in the United States,OXford Reseach Encyclopedias. The Historical Antecedents of Church-State Separation節で、Augustine of Hippoの「神の国」と「地の国」に言及するが、1行程度。教会と国家の分離の画期は、宗教改革、啓蒙主義、ホイッグ党の活動(参考:ホイッグ史観)にある。カルヴァン、ルターについて5行程。英米ピューリタン、ロジャー・ウィリアムズ、ロックの寛容論、モンテスキュー、ジェファーソン、ジョン・トレンチャードとトマス・ゴードン、James Burgh、大覚醒などアメリカ建国期以降が主。
Encyclopedia of religion 「政教分離(Separation of church and state)」項はなく、「Church and State」「Politics and Religion」で立項 ○ 「教会と国家」「政治と宗教」
ブリタニカ国際大百科事典 「政教分離」項あり。アメリカ憲法に言及。
知恵蔵 「政教分離」項あり。国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。信教の自由と表裏一体。欧米で生まれ、近代化と共に非キリスト教国にも浸透。
百科事典マイペディア 「政教分離」項あり。国家権力と宗教の分離。信教の自由の必要条件。未開社会,古代・中世社会では政治と宗教が一体となり宗教的権威によって支配が行われた。
世界大百科事典 「政教分離」項あり。「国家の非宗教性,宗教的中立性の要請,ないしその制度的現実化」。[歴史]として「ヨーロッパにおいて政教分離は歴史過程のなかで徐々に進行。聖職叙任権闘争,宗教戦争,フランス革命が画期。 」
日本大百科全書(ニッポニカ) 「政教分離」項あり。国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。「中世および近世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権が密接に結合していたため信教の自由が認められず、国教または公認の宗教以外は異端として刑罰を含む迫害を受けた。17、18世紀に宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいにヨーロッパ社会に広まり、現代国家においては、政教分離は信教の自由の保障のための憲法原則として広く採用されることになった。」
英語版ウィキペディア「政教分離」 古代について書かれているが、一次資料を並べたもので、独自研究の疑いがある。「後期古代」でアウグスティヌス「神の国」、「中世」では皇帝教皇主義、教皇権について解説。以降、宗教改革、啓蒙時代、ジェファーソンがそれぞれ10行程で解説。「中世」については、Church and state in medieval Europe(中世ヨーロッパにおける教会と国家)記事へのリンクがされており、日本語版「政教分離の歴史」もこの記事へ言語間リンクされている。 ○ 「中世ヨーロッパにおける教会と国家」
ドイツ語版ウィキペディア 「政教分離(Trennung zwischen Religion und Staat)」記事 20世紀以降の解説。
ドイツ語版ウィキペディア「教会と国家」 啓蒙時代、フランス革命以降、教会の優位性が低落し、中立的法治国家について冒頭で解説したあと、「聖書における教会と国家」「カトリック神学における国家論」「プロテスタントにおける国家論」について解説。 ○「教会と国家」
CiNii「政教分離」検索 「政教分離」関連文献は731件。しかし、ほとんどがアメリカ、フランス、日本の近代の政教分離原則についてのもので、ヨーロッパ中世史の論文名で「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
CiNii「皇帝権」検索 「皇帝権」関連文献は61件。ドイツ王権(皇帝権)とローマ法王権の関係、ビザンツ皇帝権、ロタール一世の皇帝権、教皇権と皇帝権などについての論文。しかし、論文キーワードで「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
CiNii「教皇権」検索 「教皇権」関連文献は34件。論文キーワードで「政教分離」を使用した例は見つからなかった。
ゲオルク・シュトラック「教会「改革」から宗教「改革」へー盛期・後期中世における教皇権」史苑第75巻2号,pp.387-415. 「政教分離」不使用。 おそらく○? ?おそらく○
山田欣吾『教会から国家へ』 「比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想」したもの。目次、事項索引に「政教分離」なし。「ヨーロッパでは、その長い歴史を通じて、政治ないし国家の「脱宗教化」、「世俗化」がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」(p.1)。12−13世紀から18-19世紀にいたるヨーロッパの諸国家は「統一的・包括的な権力構成体」として成立したが、ベッケンフェルデは「世俗化」過程を重視した(p.1-2)。「ヨーロッパの政治秩序の世俗化過程には、巨視的に見て、二つの大きな画期」があるとし、第一の画期は11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争期、第二の画期は16、17世紀の宗教改革と宗教戦争である、「本稿では、後に、世俗化の第一段階としての叙任権闘争期」を考察するが、その前に、「ヨーロッパの世俗化過程の行き着く先を示唆しておく意味で、第二段階の問題についても、ごく常識的な諸点を述べておきたい」(p.2-3) 本文で「政教分離」という語句は使用されていない。  ○  「世俗化」「宗教と国家」「キリスト教と国家」
山田欣吾「西洋文明史の片隅から」(橋問叢書 第59号) 叙任権闘争やグレゴリウス改革のときに初めて、宗教に支えられた政治秩序が世俗化し、近世初めの宗教改革で加速。この動きの終点が、政教分離、つまり「どの信仰を持っている者でも市民的・政治的な権利は持つことができる、新教の立場にある者でも、旧教の立場にある者でも、政治的な権利を持つことができる、こういう原則が確立するのは三十年戦争を経て、一応の終点はやはりフランス革命に至る」。「ヨーロッパは政治と宗教との分離というものを世界の中で初めて自覚的に達成した地域」と述べている。 ○(ただし著書の代表的著作ではない)
五十嵐修『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』 論文概要書および論文審査報告書では、カールの戴冠、国家と教会の関係、王国と帝国との関係、皇帝権、教皇権、世俗権力、国制史について触れられているが、「政教分離」という用語は使用されていない。なお、目次でも「政教分離」は使用されていない。(巻末事項索引は未確認)山田欣吾の教会国家論に「我が国の中世史に大きな影響を与えた」と言及(p.7) ○ 「国家と教会の関係」
世界歴史体系 ドイツ史I  山田欣吾も執筆。しかし、索引項目になし。
第二章「フランク時代」(渡部治雄)ではメロヴィング朝フランク王国、第3章「ザクセン朝」(山田欣吾)ではオットー1世と皇帝権の獲得、王国支配の集権化と王国教会の体制化について、第4章は「叙任権闘争」(山田欣吾)、5.6章は「シュタウフェン朝」、第7章「ドイツ王国の国制変化」で国王=皇帝選挙と教皇権、カール4世などについて解説。「キリスト教帝国としてのカロリング帝国」(p.75)
○ 「国家と教会の関係」
 世界の歴史10 西ヨーロッパの形成、佐藤彰一, 池上俊一 カロリング朝、叙任権闘争も扱われるが、「政教分離」索引になし。
古谷圭一「イングランド市民革命とプロテスタント各教派の成立」キリスト教と文化 : 関東学院大学キリスト教と文化研究所所報14,2016.pp.33-45. エキュメニズムからの研究。イングランド市民革命による宗教的迫害から「教権から切り離された人々の万人祭司主義の徹底化による会衆主義、教権の政治的かかわりを禁じる政教分離主義に突き進んだ」と解説。 △、または「会衆制」「教会政治史 ?おそらく ☓
柳原 邦光「アメリカとフランスの市民宗教論の比較」地域学論集5巻3号、鳥取大学地域学部地域文化学科,2009,p227-251. 論文キーワード「政教分離」あり。 △、または「市民宗教」 ?おそらく ☓
豊川 慎「リベラル・デモクラシーにおける政治認識とキリスト教民主主義の政治思想序説」キリストと世界17 : 東京基督教大学紀要,2007年 論文キーワード「政教分離」あり。 ?おそらく ☓
久保田泰夫「ロージャー ・ウィリアムズと教会と国家」東京工芸大学芸術学部紀要 4, 85-98, 1998 ウィリアムズの政教分離論 △、またはロジャー・ウィリアムズ ?おそらく ☓
中山勉「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」(東京大学) 「政教分離とは信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「「中世でも政教分離はなされていた」式の議論は、この制度的保障としての政教分離の意義をトータルに見誤っている。た だ単に政治と宗教の管轄が違うだけでなく(そんなものなら古代にもあった)、それが(特定宗教だけでなく)あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準である」(p.213)
森本あんり『アメリカ的理念の身体― 寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社) 一章「中世的寛容論から見た初期アメリカ社会の政治と宗教」で中世寛容論に言及。ただし、近世近代アメリカにおける政教分離が主たる考察対象。前史としての言及。

121.107.209.16さんの整理を本記事の意味における政教分離で使われているかで修正。政教分離原則のものも直接的な関連性は薄いと思われるので△に修正しました。--2001:268:C068:D7DE:59A3:B42C:A90E:B96E 2017年3月5日 (日) 16:56 (UTC)

2001IP氏がいう「本記事の趣旨」それ自体が、問題になっていることをご理解ください。また、既存の事典等での立項状況を、無根拠な自説で無視しないでください。これまでの議論でのコメントを集計してもよいですが、複数の編集者がkanbun版に疑問を持っています。本記事は「政教分離の歴史」であり、いわゆる「政教分離」の歴史についての記事です。(日本語版では「政教分離原則」という記事名になっていますが、各種事典の立項状況からいって「政教分離」へと改名すべきでしょうが、これは現在の議論が終了してからにします。)
2001IP氏がいう「本記事の趣旨」とは、その記載内容からは、歴史学事典第12巻の「キリスト教と国家」項(樺山紘一)に準拠し、「キリスト教と国家」(または「教会と国家」)などの記事名が正当です。2001IP氏は「樺山紘一さんの記述はかなり典型的に歴史学的な政教分離論を記しているので、これを中心に整理するとわかりやすい」と発言されていますように、あなたが書きたい内容は理解できますが、それを「歴史学的な政教分離論」といってしまっては、Wikipedia:独自研究は載せない「既存の用語に新たな定義を与える」に該当してます。私の調査では、「歴史学的な政教分離論」という用例は、歴史学関係の文献でも発見できませんでした。Wikipedia方針では「もしあなたの考え方が多数派に属するのであれば、広く認められている参考文献を示してその観点を実証することは容易なはず」と書かれていますが、「歴史学的政教分離論」という学術用語は存在しますか?あるならば、そのように明記されている文献を提示してください。山田欣吾の本にも登場していません。まずは、このことを確認しないことには、議論が転倒したまま、先へ進みません。
「歴史学的政教分離論」という独自定義の用語は、2001IP氏の発明でしょうか、それがいかに曖昧で偽りであるかを明示する証拠として、2001IP氏による文献調査表の再編集があります。歴史学事典の「政教分離」記事が△として、有意性を疑問視されているのですが、冗談にしては場違いですし、全く意味不明の評価です。一方で、「政教分離」記事が立項されておらず、また全く本文でも使用されていない西欧中世史事典IIを○としています。この二点だけを例にとるだけで、2001IP氏の主張が文献的な根拠もなく、独自研究というほかない自説にこだわり続けていることが明らかです。だからこそ、各種事典の立項状況を無視するだけでなく、自分のお気に入りの、しかし本文で「政教分離」が一切言及していない本でも出典として有効であり、また、タイトルや本文でも「政教分離」という概念に有意に言及しているアメリカ史関連の文献を出典として無効とするような奇妙極まる評価が可能なのでしょう。Wikipediaの方針では「たとえ十分に出典が明記されていたとしても、その情報源を曲解して利用したり、その情報源によって直接的かつ明示的に支持されない観点を推し進めようとした場合には、あなたは独自研究を行っていることになります。」また「多くの場合、複数の確立した観点が一つの議題に関して存在しています。そのような場合、いかに良く調査・研究されていたとしても、単一の観点がその議題に関する権威となることはありません」「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。そのトピックについて異なる観点を記載する際には、その相対的な勢力差が適切なレベルで反映されるよう記述してください。同等であるとの誤った印象を与えたり、特定の視点を不適切に重点的に記述することを避けてください」とあり、2001IP氏の編集と発言はこれらの方針に明確に違反しています。さらにWikipediaの方針では「複数の観点について、それらの利点を公正に示し、どれか特定の観点を採用するように要求したりしない記事は、読者を解放する効果があります。中立性は独断主義を倒すのです。これはウィキペディアで作業しているほとんど全ての人がよいことだと認めていることです」とされており、2001IP氏の主張は文献的根拠のない独断主義の典型といえるでしょう。
もし、2001IP氏がいう「歴史学的な政教分離論」が既存の文献で明示されていれば、挙げてください。その場合、「政教分離」という語句が正確に使用されていなくてはなりません。山田欣吾の本について、「『宗教と政治の分離』が「政教分離」でない」と私は言っていません。同書には事項索引にも本文にも「政教分離」という用語は使用されていない、「政教分離」でなく「宗教と政治の分離」という表記であったことを報告しました。通常の読書であれば、山田のいう「宗教と政治の分離」がいわゆる「政教分離」を意味することは理解できます。しかし、我々が議論しているのはウィキペディアの記事の編集です。山田欣吾『教会から国家へ』は、2001IP氏の主張する特殊な「政教分離論」の根拠とはならない、なぜなら

山田はその概念を同書で使用していないからです(「世俗化」概念を使用しています)。すなわち、2001IP氏は「政教分離」を独自に解釈し、自分の考えるままに膨大に執筆されていますが、その内容は、「教会と国家」などの記事で書かれるべきものです。2001IP氏が「歴史学的な政教分離論」の既存の文献での使用例を提示してくださいといいましたが、万が一そのような文献が存在したとしても、それ以外の事典類での立項状況や言及状況からいって、少数派の見解にとどまるので、記事全体の出典としては有意とはなりません。それから基本的な回答として、分割への賛否を表明してください。「この記事を今後どう整理していくか」の段階ではありません。2001IP氏の執筆した箇所は「教会と国家」、また「宗教改革」節は「宗教改革の歴史」へと分割提案しています。なお、分割する場合、中世の背景や前史は各種辞典に準じて簡潔にとどめるべきです。もう一点、2001IP氏は「記事がなくなる」とも発言されていましたが、自分の執筆したものが削除されるかもしれないという不安をお持ちなのでしょうか。その不安は無用ですよ。「教会と国家」記事で書けることは歴史学事典等、私の調査で明らかになっていますから。つまり、2001IP氏の執筆内容それ自体は独自研究ではない、しかし、その内容を他のもっと適切な記事でなく、「政教分離の歴史」に収載しようとするため、このような議論になっているのです。当初いっていたように2001IP氏が「教会と国家」に改名します、と承認したらこの議論もかなり早く解決するのです。--121.107.209.16 2017年3月6日 (月) 14:22 (UTC)

議論の整理(2001:268:C068:D264:DC8A:3373:B82D:AD26による)[編集]

まず、議論が錯綜しているので、整理します。ここまでで確認されたことは以下の2点です。

  1. 本記事の内容は独自研究ではない。
  2. 政教分離原則とは別個に歴史学的な議論がある。

少数派の見解だから(ちなみに五十嵐修を読めば、山田『教会から国家へ』の影響については明確に論じているので、少数派かはわかるはずだが)どうだとか方針文書に根拠のない議論を展開されていますが、まずは本記事が独自研究ではなく、ウィキペディアに記載される内容として問題ないことは明確に確認されたことは認めるべきです。内容の議論はその先にすべきであって、こうした合意をないがしろにして先に進めるべきではありません。これまでの議論の混乱も121.107.209.16さんが一つ一つの合意を大事にせずに次々議論を拡散させているために起こっていることをご理解ください。改名提案はすでに「聖俗分離の歴史」への改名という形で進んでおり(「国家と教会」ないし「教会と国家」の記事名がどうして問題があるかについてはすでにだいぶ前に議論済み)、分割提案はそもそもの根拠が上の2点の合意で失われるのでとりあえずは終了されるべきです(宗教改革節うんぬんについてもすでに議論したので繰り返しません)。--2001:268:C068:D264:DC8A:3373:B82D:AD26 2017年3月6日 (月) 15:07 (UTC)

記事名、節名が不適切であるということです。また、「歴史学的政教分離論」は既存の文献でそのような学術語は確認できませんので、独自研究といえます。改名に対応されるということならば、「政教分離の歴史」で現状の記載が存続しないことには合意されたとみて、#記事の内容整理の提案に参加します。--121.107.209.16 2017年3月6日 (月) 15:49 (UTC)
これ以上、勝手に合意をねつ造しようとしたり、方針文書の自己都合での解釈を強要したり、無用な議論を強要することをするような強引な行動を続けることは無益ですからおやめください。合意を一つ一つ大事にしていくというウィキペディアの推奨している議論過程を踏まえてください。私が「歴史学的政教分離論」が学術語であるなどとはこれっぽっちも言っていないのに、相手の言葉尻を捉えたような議論をするのはそろそろおやめください。これまでも印象操作や個人的感想の繰り返しなど、正常な議論形成を阻害することをなさっていますね。もはや正常な議論ができないというのであれば、コメント依頼などを出さざるを得ません。--110.132.106.234 2017年3月6日 (月) 16:02 (UTC)以上の発言は2001:268:C068:D264:DC8A:3373:B82D:AD26のものです。IPが変わったので明記します--2001:268:C068:D264:F1F4:E4CE:66D4:2B41 2017年3月6日 (月) 16:05 (UTC)
合意を捏造しているのはそちらでしょう。「方針文書の自己都合での解釈を強要」などというが、2001IP氏の行動が明確に方針違反することは具体的に指摘した通りです。「歴史学的政教分離論」が学術語でないなら、なぜそのような曖昧な造語を使うのでしょうか。現状の節でも「歴史学的視野」と書いていますが、この「歴史学」とは「ドイツ国制史系統の歴史学」という意味でしょう。そしてアメリカ史研究を出典としては使えないというのですから、議論にならないと思っているのは、私もそうですよ。なお、合意形成のためのコメント依頼はすでにしています。--121.107.209.16 2017年3月6日 (月) 16:23 (UTC)
合意のねつ造とは「『歴史学的政教分離論』は既存の文献でそのような学術語は確認できませんので、独自研究といえます。改名に対応されるということならば、『政教分離の歴史』で現状の記載が存続しないことには合意されたとみて」というような発言を指します。私が同様に121.107.209.16さんが勝手に合意したと言ったことはあったでしょうか。「現状の節でも『歴史学的視野』と書いていますが、この『歴史学』とは『ドイツ国制史系統の歴史学』という意味でしょう。」という発言についても、国制史的理解は持ち出しましたが、それがすべてであるとは全く言っておらず、政治思想史や法思想史や政治神学の議論なども提示しております(そもそもベッケンフェルデは政治思想史の立場で発言しています)が、それを確認せずにそうだこうだと決めつける議論が多すぎます。この決めつけ姿勢はどうもウィキペディアで一般的なのか、他の方にも見受けられますが、とくに121.107.209.16さんは著しい。「引用できないのは独自研究だからだ」みたいな決めつけもしていましたね。これまで印象操作や他者の発言の曲解、明らかな個人的感想の繰り返し、論点すり替えなど指摘してきたわけですが、反省せず、水掛論に持ち込もうというのならば、ここで展開されている121.107.209.16さんの行動全般にわたってコメント依頼を出さざるをえません。明らかに正常な議論を阻害しています。--2001:268:C068:D264:A49D:FFA6:F92D:DB35 2017年3月6日 (月) 16:35 (UTC)

あとアメリカ史うんぬんについてはおそらく中山勉「ロジャー・ウィリアムズ研究」を挙げていると思われるのですが、あれは従来アメリカの政教分離原則の基礎といわれてきたロジャー・ウィリアムズの思想は政教分離原則そのものとは直接的に関係ない伝統的な神学思想の議論でしたねっていう論文なんですけど、それが一般化されて政教分離原則やここでの歴史学的な教会国家関係の議論全体を見渡す権威のように持ち出されているので、明らかにおかしいという私の指摘ですけど、これがなぜ非難されることなのかむしろわからないです。中山勉自身はその論文の中でこの記事でいうような議論を「世俗化論」としたうえでこの論文はそういう議論とは交わらない(p.216)と明確に言っているんですけれども。--2001:268:C068:D264:2812:D0E8:66C:683F 2017年3月6日 (月) 17:56 (UTC)

独自研究問題は解決していないこと、アメリカ等近代史も掲載されるべきこと、記事の私有化について(121.107.209.16 2による)[編集]

1.まだ独自研究問題は解決していない

私が合意の捏造といったのは、2001IP氏の「本記事が独自研究ではなく、ウィキペディアに記載される内容として問題ないことは明確に確認されたことは認めるべきです。内容の議論はその先にすべきであって、こうした合意をないがしろにして先に進めるべきではありません。」という発言、および「一つ一つの合意を大事にせずに」についてです。「本記事が独自研究ではない」とは、記事全体についてではありません。まだまだ出典が明記されていない部分、記事の主題である政教分離の歴史と関連性が不明な部分は多数あります。そうした部分が改善されていない以上、「本記事が独自研究ではない」とはいえません。私が言ったのは、調査を通じて各種文献で古代中世への言及があったため古代中世の前史を書くことは確認できたということ、そして山田欣吾らの世俗化論もここに記載されることには反対しないということです。「決めつけ」といっても出典のない箇所は独自研究と疑われても仕方ないし、出典が提示されない箇所は削除の対象となります。「一つ一つの合意を大事にせずに」、何が合意されたのか。まだ改名も分割も合意されてないし、出典が提示されていない箇所は膨大に残されています。

2.アメリカ史

アメリカ史については中山論文だけではなく他の文献も提示しています。私は中山論文を「権威」にしていませんし、情報源の一つと認識していると前も言いました。中山の批判は、「中世でも政教分離あった」みたいな意見に対して学問的に厳格でなくてはならないという批判であり、世俗化論、ウィリアムズの従来の評価に対しても重要な批判をしており記載されるべきでしょう。つまり、 各種文献よりアメリカ史についても記載されるべきである。山田欣吾、ベッケンフェルデの記載は可能であるが、「政教分離」概念を使用していない文献を「私は内容としては政教分離にあたると思う」という主観的な判断で大々的に使用することには反対します。

また、「『ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想』はアメリカ政教分離思想史の専論で、直接的に国家・教会関係を扱ったものではないので、これを中心的に扱うべきとは思われません。古谷以降の文献も基本的には外されるべきと思われます。」とも発言されていますが、何をいっているんです?「アメリカ政教分離思想史」だから、「政教分離の歴史」の出典として有効です。「直接的に国家・教会関係を扱ったものではないので」というならば、「教会と国家」記事で書けばいいでしょう。「古谷以降の文献も基本的には外されるべき」とは、もう話にならないので、私の方からも利用者の行為についてのコメント依頼をするしかないかもしれませんね。

2.「政治思想史や法思想史や政治神学」の記載

「政治思想史や法思想史や政治神学」の記載については、情報源に「政教分離」が明記されていない場合は、無効です。他の適切な記事で記載してください。このような共同編集による議論が無意味で無用だと思うなら、自分で出版されるか、論文を発表すればいいではありませんか。学会にいるならば、なぜ発表しないんです?2001IP氏の「政教分離の歴史」が学会誌や大学紀要などで掲載されれば、出典として使えるのですよ。もっとも、分量や、他記事との掲載内容との関係の問題は残るでしょうから、議論が終了するわけではありません。

4.記事の私有化の典型例

この記事のほとんどを執筆したKanbun氏は[3]で「後ろがいらないってことであれば、そこを切ってとりあえず私の利用者ページにでも移して、適当に加筆しながら別の形での投稿を考えてもいいと思いますし(自サイトに移しちゃうかもしれませんが)。いまのところ、ときどき気づいたときに増補しているって感じなので、それほど執着があるって記事でもないですから、そこらへんは忌憚無く「こうしたらいいんじゃない?」って言葉をかけてくだされば。」と発言されていました。2001IP氏のこれまでの発言からKanbun氏と同一人物の可能性が強いですが、現在は執着しているということでしょうか。過去にKanbun氏は大項目主義派であると宣言するなどし、読者にとって全体の見通しが悪く不便であること、明らかにバランスを失しているという他人の指摘を聞こうとしません。2001IP氏はKanbun版を守ろうとしているわけですが、これらは記事の私有化に該当する行為です。Wikipedia:記事の所有権での「記事を荒らしから守っているつもりで、あらゆる変更に対して敵意をもって対応する編集者」「中立性という方針の重要性を十分に理解できずに、自分自身の特定の観点を推し進めようとする編集者」、また発言例に「あなたには、この記事を編集するにふさわしい資質があるといえるのでしょうか?」「この記事を見た限り、問題はまったくないと思います、この記事を変更する必要は全くありません」とありますが、2001IP氏はこれに該当する典型例といえるでしょう。--121.107.209.16 2017年3月8日 (水) 15:03 (UTC)

  • 「政教分離の歴史において重要なロジャー・ウィリアムズについて書かれたこの論文を出典に、人権信教の自由、自由権、プロビデンス入植、千年王国論、そしてこの論文でも紹介されているティモシー・ホール『教会と国家の分離』(Hall, T. M., Separating Church and State, Urbana, University of Illinois Press, 1998.)をもとに合衆国憲法修正第1条とロック、ジェファーソン、マディソン、ウィリアムズの思想を、『政教分離の歴史』で執筆することに2001IP氏は反対はされないでしょう。」という面白い発言を覚えていらっしゃいますでしょうか。それ以前に井上修一論文を持ち出したときにも指摘しましたが、明白な論文の誤読をしておりますね。まず121.107.209.16さんはご自身に都合のよい記述を、論文の本来の趣旨とは異なる意味で勝手に切り取って使うことをおやめください。これまでの議論はずっとこの調子であり、他人の発言を正確にフォローすることさえできておりません。さすがにこれ以上問題のある行動を放置するわけにもいきません。正直ここまで全く正常な議論になっていないからです。
  1. とくに明確に問題だと思われるのが「私がこの記事を書いたから私物化したい」というような意味不明で印象操作を目的としているとしか思えない発言です。私がこの記事の議論に参加したのは不適切な分割を差し戻したことが直接の原因であり、少なくともそれ以前に積極的に編集に関わった事実はないのですが、私が「この記事を私物化している」と印象づけるために繰り返し「私が記事の記述の改変を拒んでいる」ような主張をなさっています。しかしながら、私は近代以降や日本の政教分離などについてはむしろ分割を推奨しております。この点は明確に事実に反することは以前お伝えしましたが、いまだに無視し続けています。相当に思い込みが激しいのか、こちらが言ってもいないこと・明らかに事実と異なると思われることをいちいちおっしゃるので、訂正するのも煩わしいです。全体的に決めつけが多いのもどうも思い込みの激しさゆえと思われます。
  2. 次に記事に参考文献が挙げられているにもかかわらず、それを直接的に参考とせずになぜか関連性のない文献を挙げて議論を進めています。何度もこのような議論の仕方の不適切性を指摘していますが、一向にその態度を改めようとしておりません。しかもご自身の提示されている論文の内容も理解されておらず、そもそもこの記事との関連性を121.107.209.16さんが認識できる能力があるとも思えません。
  3. 私が記事内容はおそらく歴史学的な議論を踏まえていることを指摘し、この記事が使用していない複数の文献を挙げて記事内容がおおむね妥当と思われること(その後121.107.209.16さん自身も新たにほかの文献によって記述の裏付けを見つけていらっしゃいますよね)、参考文献のいくつかに当たれば出典は確認できることをすでに提示しており、しかもご自身で確認されているにもかかわらず(当初は確認することさえ拒否していましたね)、いまだに独自研究だと言い続けていること。それも当初はこの記事の議論が文献で確認されればよいとしていたのが、次々態度を翻し、最近に至っては誰も主張していない「歴史学的政教分離論」の学術用語としての確認が必要であるなどという奇妙な主張に至っていること。
  4. 議論の途中で論点を追加すること。分割議論の最中に別件の独自研究議論を突然提示したり、明らかに方針文書に基づかない独自研究の論点を次々提示して議論を終わらせようとしない点は問題です。たとえば当初は出典が確認できればよいとしていたのが、参考文献が示されたとたん、情報の合成がおこなわれているという議論を追加し、しかし現状は明らかに情報の合成の定義に当たらないという見解を示すと、それを無視して「歴史学的政教分離論」という学術用語が見つけられないと独自研究だなどという意味不明な議論に転換する行為をおこなっています。しかしながら、そもそも本記事の「政教分離」という用語に混乱の原因があることとこの記事の内容が独自研究であることは直接的には関係しません。本記事の内容が文献で確認できるならば、検証可能性は満たされており、基本的には改名すればよいだけです。
  5. 人の発言のねつ造を行っていること。上記「歴史学的政教分離論」なる言葉を学術用語として私が提示したという根拠のない発言や、私が近代以後は別記事にすべきなどと主張したという一連の虚偽発言。これは明らかに問題行動であると思われます。
  6. 合意の強要。編集合戦中の保護依頼中にもかかわらず、一ヶ月以内に出典を書かなければ記述を消すといってタグ貼りをしたり、改名提案に同意することは記事を削除することを認めることであるという意味不明な論理を持ち出して、人が削除に合意したものと見なすというむちゃくちゃな議論を展開しています。これは端的に議論進行を著しく阻害するのみならず、ハラスメント行為です。
  7. 相手の文献は一般的でないと決めつけるのに対し、自分の文献はたとえ関係なくても信頼できる文献と強弁する不適切な態度。信頼できる文献は学術的な内容についてはその信頼性を学問的に認められているかどうかまで検討されるべきと明確に述べています。山田欣吾の教会国家論やベッケンフェルデの議論については研究文献において明確な言及がされており、その影響力は提示した文献を読めば確認できるにもかかわらず、なぜか独自研究だとするのに対し、とても主流とは思えない民事法関係の井上修一氏の文章やロジャー・ウィリアムに特化した中山勉氏の文章が、本記事の内容と直接ほとんど関わらないのに信頼されるべきものと主張されています。しかしながら、121.107.209.16さんはロジャー・ウィリアムが政教分離原則の成立に重要でないという論文をなぜかロジャー・ウィリアムの政教分離原則に決定的役割があったと読み違えているほか、井上修一論文についても本論はライシテの、それも公教育に関わる教科書的議論であるということさえ理解しているとは思えない。そもそも論文の内容についての理解ができていない点が散見されますが、それはそれらの論文を記事内容と関連づけるという一番大事な作業を怠っていることを伺わせ、結局自分に都合のよい記述をネット上から探してきているだけで、独自研究をしているだけと思われます。いわゆる「ググっただけ」の議論をしているようにしか思えません。121.107.209.16さんの主張は自身の提示した文献を読み取った物ではなく、都合のよい部分を切り取って使っているだけで、これはウィキペディアでいう情報の合成に当たり、明白に独自研究であります。
  8. また記事が「政教分離の歴史」としていることについては文献を示して、それが適切ではないにしても一定の理由があることが十分に推察されることはすでに確認されています。記事名が適切ではないからと言って独自研究になるという121.107.209.16さんの主張はウィキペディアの方針文書に根拠がなく、ウィキペディアの方針に基づけばただ単に記事を適切な記事名に改名すればよいだけです。

ちなみに中山勉さんはなぜかウィキペディアでは政教分離論の権威らしく、121.107.209.16さんだけでなく大和屋敷さんもこのあまり著名とは思われない論文を大変有り難がっておりましたことをよく覚えております。政教分離の議論でもロックなどに比べてかなり特殊なロジャー・ウィリアムズについてなぜこんなに大きな関心を持っていられるのかわかりませんが、それなら論文の内容くらいちゃんと読んだらどうですか。--2001:268:C068:C235:2882:94D3:3DF6:D777 2017年3月8日 (水) 15:39 (UTC)

「正常な議論になっていない」原因を私にのみ押し付けるとは奇怪ですね。自分の対応が完璧だとお考えですか?議論はお互いのやり取りによって形成されるものです。不手際はお互いにあるでしょう。
近代以降や日本の政教分離の分割を提案するなら、ちゃんと分割提案の手続きをとって、別個に節を立ててください。しかし、いまは近代以前の記載についての分割または改名提案をしているのですから、議論が拡散します。しかし、明確に回答した方がいいでしょうからいいますが、近代以降の分割には反対します。各種事典論文の研究の一般的傾向から「政教分離」の歴史は、近代以降がメインになるべきなのは私の調査の通りで、各種事典論文など歴史学、宗教学、地域研究、法制史などの分野における政教分離について「近代以降」はメインで扱われており、宗教改革以前の前史、例えば両剣論については一行程度で扱われる程度です。なお、両剣論という記事は私が立項したものですが、一年前の分割作業の際に新規立項する方が適切であると考えたため、作りました。この記事の記載も一部転載させてもらい、活用しています。両剣論記事ができたことによって、詳細は両剣論記事で書き、この記事では簡単な紹介で済ませることが可能になります。各種事典・百科事典でも、各記事がある場合は、それぞれに適切な解説をすることが一般的です。その場合、ある程度の重複も一般的です。
近代以降や日本の政教分離について加筆でなく、「分割」を提案される理由も分かりません。近代の前史が分量のバランスが過剰なことが問題になっているのに、近代移行について加筆を許さないような言い方をしている(「「ロジャー・ウィリアムズ研究― 政教分離論の虚実と代表的著作に見られる神学思想 」はアメリカ政教分離思想史の専論で、直接的に国家・教会関係を扱ったものではないので、これを中心的に扱うべきとは思われません。古谷以降の文献も基本的には外されるべき」などの無根拠で意味不明の発言)から、「新たに加筆する場合は、分割し、そちらに書くべきである」という意味のことをいっているようにしか思えません。従ってこれを「記事の私有化」といっています。そのことは私以外の方も同様の指摘をなさっています。「思い込みが激しい」のは2001IP氏でしょう、どう考えても。
  • 既存の文献で裏付けのとれない、執筆計画を述べる前に、あなたがやるべきことは、既存の記載について出典を明記することです。
  • そして、近代以降の加筆を受け入れることです。
  • その後、全体のバランスや他の記事の利用などを考慮し、各個別の記載について検討していく
こういう流れになるでしょう。
「記事に参考文献が挙げられているにもかかわらず、それを直接的に参考とせずになぜか関連性のない文献を挙げて議論を進めています。」といっていますが、記事の全てに参考文献が挙げられていません。また、出典があるからといって、原文に「政教分離」の語句が使われていないものは、この記事では原則として不可、です。他の記事をご利用ください。「関連性のない文献」とは、具体的に何の文献でしょうか、明示してください。
「議論の途中で論点を追加すること」ですが、そちらも話をすり替えたり、自分の都合にかなうことしか受け入れないじゃないですか。「独自研究の論点を次々提示し」などといっているが、最初からいっています。「議論を終わらせようとしない」のは、あなたが独自研究を指摘されているのに、山田欣吾ですべて解決みたいな短絡的な捉え方をして、誠実な対応をとらないからです。霊性、カロリング朝、ビザンチン、そして宗教改革前後について、山田欣吾の本にkanbun版の記載内容と構成すべてを山田欣吾とベッケンフェルデで足りると考えているなら、間違いですし、そんなこと書いていませんよね。
「本記事の内容が文献で確認できるならば、検証可能性は満たされており、基本的には改名すればよいだけです。」といいますが、記載内容全てに出典を明記してからいいましょう。
「編集合戦中の保護依頼中にもかかわらず、一ヶ月以内に出典を書かなければ記述を消すといってタグ貼りをしたり、改名提案に同意することは記事を削除することを認めることであるという意味不明な論理を持ち出して、人が削除に合意したものと見なすというむちゃくちゃな議論を展開しています。」、タグ剥しをしているのはどちらですか。他人から問題を指摘されているのだから、「問題じゃない」と自分の主観(思い込み)だけで反論するのでなく、ちゃんと出典を明記してください。タグ剥しは荒らし行為とみなされます。
「相手の文献は一般的でないと決めつけるのに対し、自分の文献はたとえ関係なくても信頼できる文献と強弁する不適切な態度」について。「政教分離」と明確にかかれているかは当然採用の規準となります。それどころか、あなたは既存事典での「政教分離」項目さえ、「自分が書いた内容と違うので、不可」というでしょう。それが、記事の私有化なのです。山田欣吾の権威は関係ありません。どの専門分野であれ、自費出版や同人誌ではない、大学紀要、書籍の論考は、「政教分離」について明示的に論じてあるものはすべて採用されるべきです。あなたの最大の問題は、「政教分離」について明示的に論じていない出典を自分独自の規準で採用するだけでなく、さらには「政教分離」について明示的に論じてある出典を採用すべきではない、という荒唐無稽な、ほとんど冗談のようなことばかり繰り返しています。
「結局自分に都合のよい記述をネット上から探してきているだけで、独自研究をしているだけと思われます。いわゆる「ググっただけ」の議論をしているようにしか思えません」、これは撤回し、謝罪をしてください。私の調査を侮辱しています。事典類は図書館や書店を回って、中には購入したものもあります。
何度もいうが、中山論文を「ウィキペディアでは政教分離論の権威」ではない。自分が特定の本を「権威」とするからといって、他人もそうしていると勘違いしないように。ロージャー・ウィリアムズについては、「1636年,北米ニ ュ ーイ ングランドの一隅に自ら創設したプロヴィデンスのタウ ン統治機関で ある 家長会議の権限を 「宗教を除く世俗の事項に」(“only in ciuillthings”〉限定したことによって, 政教分離と信仰の自由の保障とい う近代民主主義の基本原則の一つを17世紀の早い時期に現実の政治において実現したと評価されている(久保田泰夫「ロージャー・ウィリアムズの政教分離論 : 主著『信仰上の理由による迫害の血塗れの教義』(1644)を巡って」)。中山論文はさらにこうした評価を厳密に研究したものです。
コメントが書きづらいので小節にしました。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 12:23 (UTC)
121.107.209.16さんの日本語理解能力に率直な疑問を表明いたしたく思います。論文の要旨さえも確認できないようですね。要旨に拠れば「本論文は、今日、政教分離・信教の自由論の開拓者という評価を享受するロジャー・ウィリアムズの著作を 17 世紀当時のコンテキストに置くことにより、彼の思想はそれらの概念とは異質であり、萌芽的とすら言い難いことを論証したものである。」というものであり、従来の「政教分離と信仰の自由の保障とい う近代民主主義の基本原則の一つを17世紀の早い時期に現実の政治において実現したと評価されている」という評価を明確に否定したものです。正直論文の読み方すらわからないのであれば、この記事の内容もこれっぽっちもわからないんじゃないですか?中山論文は結局何のために持ち出してきたのかいまだに謎です。井上修一論文もあれは結局なんだったんですか?記事内容と関係のない文献だってわかってらっしゃいますか?--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 13:32 (UTC)
はっきり言ってしまえば、121.107.209.16さんは政教分離原則やロジャー・ウィリアムズ、この記事で書かれている歴史学的な議論、こうしたものすべてに元々興味も持っていないないし、勉強もしていないんです。ただ単に都合のよい記述をググった中から探し出してきているだけで、こういう中高生がやりがちな検索結果の無作為抽出をしているだけです。だからいつまでたっても議論がかみ合わないんです。少なくともこの分野で言及されないことが珍しい山田欣吾の教会国家論を知らない時点でかなり怪しいとは思っていましたが、ここまでの議論でもまともな文献は自力で挙げておらず、しかも関連文献を調べたと言いながら、肝心の記述箇所を見逃していたりします(おそらく索引しか見ていないのでしょう。ググっただけの人がやりがちなパターンです)。ここまでつきあってきましたが、こうした議論姿勢は明確に「信頼できる情報源」の方針と反しておりますので、さすがにこれ以上はお控えください。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 13:45 (UTC)
中山論文の趣旨は理解しています。しかし、ロジャー・ウィリアムズの評価について久保田論文のような評価もあるので、それを書き、次いで、その評価に対する中山による新たな評価(批判)も両方書くべきであるということです。「「信頼できる情報源」の方針と反して」いるとは、全く意味不明。反論のための反論のようなことは止めませんか。そして、私の質問に答えてください。近代以降について加筆してよいのですね?(確認せずとも、ちゃんと出典を明記して加筆してよけばいいのですがね。)--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 13:51 (UTC)
「信頼できる情報源」の方針をご存じですか?そこには「情報源は、専門分野外よりも専門分野内の方がより信頼できます。」と書かれていますね?この記事内容は歴史学的な国家と教会の分離の議論を踏まえていることが明らかになっており、政教分離原則に関わる歴史事象を扱っている記事ではないことは確認されたはずです。関連性を無視して、いまだに分野外の文献にこだわっているのは121.107.209.16さんです。こうした関連性の薄い記述は、そもそも121.107.209.16さんの当初の主張に拠れば、こちらに書かずにそれこそロジャー・ウィリアムズに加筆されてはいかがでしょうか。真っ先にこちらに加筆しようと思った理由が不明確です。近代以降についてはまだ記事名の改名もされておらず、それによって明確にならないと一概には言えませんが、現状は政教分離原則#歴史節にまず加筆なさるべきと思います(こちらは記事の趣旨が異なりますことはさすがに理解しておりますよね?)。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 14:04 (UTC)

現在、本文で出典が明記されていない箇所にタグ付けしていますが、驚くべきことに、半分以上が無出典です。世界の一体化記事もそうですが、長い記事で、参考文献だけずらりと挙げているわりには、脚注をさぼってエッセイで済ませるのはよくないです。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 13:51 (UTC)

私がすべてではありませんが出典を確認したところ、現状の記述の大部分は脚注にて出典が追加できることは以前表明し、その追加の合意を求めましたが、拒否されたのは121.107.209.16さんです(こうした経緯を振り返れば、驚くべきことに、上の121.107.209.16さんの主張はほとんど印象操作です)。ここでこういう発言をなさっているということは脚注の追加を認めてくださるということでよろしいですね?--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 13:56 (UTC)
脚注の追加を拒否したことはありません。捏造しないでください。出典の明記は歓迎すると一貫していっています。--121.107.209.16 2017年3月11日 (土) 14:00 (UTC)
了解しました。では出典を追加します。--2001:268:C068:D20D:2C1B:7BF5:53CA:BE5B 2017年3月11日 (土) 14:05 (UTC)