ジョゼフ=マリー・ロ・デュカ

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ジョゼフ=マリー・ロ・デュカJoseph-Marie Lo Duca、本名Giuseppe Maria Lo Ducaジュゼッペ・マリア-、1910年 ミラノ - 2004年8月6日 フォンテーヌブロー)は、フランスイタリア著述家である。ヌーヴェルヴァーグを育んだ映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の設立者のひとりとして知られる。ロオ・デュカとも表記[1]

来歴・人物[編集]

若いころから読書と執筆に情熱を燃やし、1927年、16歳のときに最初の書物を出版する。そのおかげでイタリアの未来派の作家たちと知り合う。フランス語に訳されて出版され、マルセル・グリオールアンドレ・ブルトンジャン・コクトーのようなたくさんの作家に宣伝し、引き合わせた。フランスの作家たちは、ロ・デュカの誠実なファンになり、いざないそしてフランスに引き寄せ、次の作品をフランス語で書くよう説得した。

1935年、25歳のときにパリでの生活を始めた。歴史についてのポール・ヴァレリーとの会話とアンドレ・ジッドからの手紙についてのエッセイ『フランス対フランス La France contre la France』を出版。『ある映画史 Une Histoire du cinéma』を執筆し、クセジュ文庫Que sais-je)に収録され、12か国語に翻訳された。次にレファレンス作品である『映画技術 Technique du cinéma』を執筆した。『アニメーション』をプリズマ社で出版、ウォルト・ディズニーに会う。1947年、間違いなくロ・デュカ最大の成功作である『ナポレオン・ボナパルトの密かな日記 Le journal secret de Napoléon Bonaparte』を出版する。

60年間におよび、性科学国際ライブラリーを監修し、J・J・ポヴェール社で出版し、ジョルジュ・バタイユとアンドレ・ブルトンが震えるほどのオマージュをロ・デュカに対し表明した。友人の脚本家モーリス・ベシーと共同で、ジョルジュ・メリエスルイ・リュミエールについての伝記を著す。

『ソドムの鉱山 Les mines de Sodome』(2001年)の出版により、ロ・デュカの挑戦的な天才性ときらめく碩学ぶりが当時の「良質な思考者」の検閲に挑戦した他の著作とともに再発見された。

1997年、息子や孫たちとともに暮らしたナンテールを去り、たくさんの友人の住むサモワ=シュル=セーヌに移住する。2004年8月6日、同地で死去。同市は市庁舎に面した市立図書館に、彼の同市への感情的な愛着を記念して、「ロ・デュカ図書館」と名づけた。

おもな著作[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『澁澤龍彦全集』第3巻289ページ