ジュクナン

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ジュクナンモンゴル語: J̌uqunan,中国語: 朮忽難,? - 1309年)は、14世紀初頭に大元ウルスに仕えたテュルク系オングト部族長。『元史』などの漢文史料では朮忽難(zhúhūnán)と記される。

概要[編集]

ジュクナンはチンギス・カンに投降したオングト部族長アラクシ・ディギト・クリの曾孫アイ・ブカの息子に当たる。13世紀末、オングト部族長の地位を継承したのはジュクナンの兄高唐王コルギスで、コルギスは文武両道に長けた優秀な人材であった。ところが、コルギスはカイドゥ・ウルスとの戦いで捕虜になってしまい、カイドゥに投降することを拒否したために遂に釈放されることなく亡くなってしまった[1]

コルギスが捕虜となった時、息子のジュアンは未だ幼かったため、代わりにコルギスの弟ジュクナンが1299年(大徳3年)に地位を継承することとなった[2]。ジュクナンもまたコルギスに劣らず文武に長けた人材で、兄の事業をよく守りオングト部の統治を安定させた。ジュクナンは忠節を尽くして亡くなった兄の死を非常に痛み、翰林院に依頼して兄の事蹟を刻ませた碑銘を作らせたという。また、ジュクナンは兄の遺児であるジュアンを自らの息子以上に可愛がり、その教育に大きく力を注いだだけでなく兄の遺産をよく守って成長後に欠けることなく引き渡したという。一方、かつてコルギスをネストリウス派キリスト教からカトリックに改宗させたモンテ・コルヴィノは「ゲオルギウス王(=コルギス)の兄弟たちは、ネストリウスの誤りに惑わされ、王の死後、彼が改宗させた者を皆覆し、かつての分離派に戻した」と記しており、ジュクナンは兄コルギスのカトリックへの改宗政策は覆してしまったようである[3]

1309年(至大2年)、新たに即位したクルク・カーン(武宗カイシャン)の政策によってジュクナンは最高ランクの趙王とされたが、翌1310年(至大3年)には趙王の地位をすぐにジュアンに譲ってしまった[4][5]

オングト駙馬王家[編集]

趙国公主[編集]

  1. 趙国大長公主アラカイ・ベキ(Alaqai begi,阿剌海別吉/Alāqāī Bīkīالاقای بیکی)…太祖チンギス・カンの娘で、アラクシらに嫁ぐ
  2. トゥムゲン公主(Tümügen,独木干)…睿宗トゥルイの娘で、北平王ネグデイに嫁ぐ
  3. 趙国大長公主ユレク(Yürek,月烈)…世祖クビライの娘で、ボヨカの息子趙武襄王アイ・ブカに嫁ぐ
  4. 趙国大長公主イェルミシュ(Yelmiš,葉里迷失)…定宗グユクの娘で、ボヨカの息子趙忠襄王クン・ブカに嫁ぐ
  5. 趙国大長公主クダドミシュ(Qudadmiš,忽答迭迷失)…裕宗チンキムの娘で、ブトゥの息子趙忠献王コルギスに嫁ぐ
  6. 趙国大長公主アイヤシュリ(Aiyaširi,愛牙失里)…成宗テムルの娘で、クダドミシュの死後コルギスに嫁ぐ
  7. 趙国大長公主イリンチン(Irinǰin,亦憐真)…クン・ブカの息子忠烈王ナンギャダイに嫁ぐ
  8. 趙国大長公主ウイグル(Uyiγur,回紇)…クン・ブカの息子趙康禧王コリンチェクに嫁ぐ
  9. 趙国大長公主アシ・クトゥルク(Asiqutuluq,阿失禿魯)…アイ・ブカの息子鄃忠襄王ジュクナンに嫁ぐ
  10. 趙国大長公主スゲバラ(Sugabala,速哥八剌)…ナンギャダイの息子趙王マジャルカンに嫁ぐ

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻118列伝5阿剌兀思剔吉忽里伝,「敵誘使降、惟正言不屈、又欲以女妻之、闊里吉思毅然曰『我帝婿也、非帝後面命、而再娶可乎』。敵不敢逼。帝嘗遣其家臣阿昔思特使敵境、見於人衆中、闊里吉思一見輒問両宮安否、次問嗣子何如、言未畢、左右即引其去。明日、遣使者還、不復再見、竟不屈死焉」
  2. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳三年]十二月己酉……賜諸王朮忽難銀印」
  3. ^ 高田2019,584頁
  4. ^ 『元史』巻118列伝5阿剌兀思剔吉忽里伝,「子朮安幼、詔以弟朮忽難襲高唐王。朮忽難才識英偉、謹守成業、撫民禦衆、境内乂安。痛其兄死節、遣使如京師、表請恤典、又請翰林承旨閻復銘諸石。教養朮安過於己子、命家臣之謹厚者掌其兄之珍服秘玩、待朮安成立、悉以付之。至大二年、朮忽難加封趙王、即以譲朮安」
  5. ^ 周2001,77-78頁

参考文献[編集]

  • 高田英樹 『原典 中世ヨーロッパ東方記』名古屋大学出版会、2019年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 周清樹『元蒙史札』内蒙古大学出版社、2001年