ジェマル・パシャ

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ジェマル・パシャ

アフメト・ジェマル・パシャトルコ語: Ahmet Cemal Paşa, 1872年5月6日 - 1922年7月21日)は、オスマン帝国の軍人、政治家。中将であり海軍大臣でもあった彼は、エンヴェル・パシャタラート・パシャとともに三頭政治を行った。

生涯[編集]

革命の中での台頭[編集]

ジェマル・パシャ

1872年5月6日レスボス島ミディッリで生まれる。

1890年、陸軍高校を卒業後、軍に入隊したのち、参謀本部に勤務。

1908年青年トルコ人革命時、軍事行政の指導がジェマル・パシャに委任され、1909年からアダン1911年からバグダード知事。

青年トルコ運動に積極的に参加し、「統一と進歩」運動の印となった。イスタンブールの保安機関を指揮した後、社会業務相に任命された。

バルカン戦争と海軍相就任[編集]

1912年から1913年バルカン戦争時、師団を指揮した。

1913年、第1軍団長に任命され、同年に海軍相となる。エンヴェル・パシャタラート・パシャと共に、三頭政治体制を確立した。

ジェマル・パシャを通して、ドイツヴィルヘルム・スーションドイツ語版ギド・フォン・ウーゼドムドイツ語版フーベルト・フォン・レボイル=パシュヴィツドイツ語版提督にオスマン帝国海軍の指導が委ねられた。

第一次世界大戦までに、オスマン帝国海軍は、ドイツの「ブレスラウ」、「ゲーベン」のほか、「トゥルグト・レイス級前弩級戦艦×2隻(「バルバロス・ハイレッディントルコ語版」、「トゥルグト・レイストルコ語版」)、装甲艦1隻(「ムイーニ・ザファー」)、軽巡洋艦×2隻(「ハミディイェ」、「メジディイェ」)、機雷敷設巡洋艦×2隻、駆逐艦×8隻、魚雷艇×7隻から成った。

第一次世界大戦時[編集]

ジェマル・パシャとエンヴェル・パシャ(1914年8月
馬に乗るタラート・パシャ(死海にて、1915年
タラート・パシャとイラクの部族長ら

1914年、ジェマル・パシャは第一次世界大戦中、その影響力を懸念したエンヴェル・パシャと対立し、同年11月18日シリアパレスチナ戦線で行動する第4軍(別名「エジプト解放軍」。7個師団、約10万人)司令官に任命された。

11月10日、第4軍はエル・アリシュを無血占領し、11月18日にエン・ナフとシナイ半島を占領してスエズ運河の英軍陣地を脅かした。

1915年1月29日、第4軍はイギリス軍と初めて交戦したが、砂漠の横断に手間取り、イギリス軍は増援を集結させることができた。ダーダネルス作戦開始後、イギリス軍はスエズ運河を経由して第8、第10、第25師団を海峡地区に、1個師団をバグダードに、1個師団をビトリスに派遣することに成功した。この後、攻勢は縮小された。

1916年8月、1万3千人の兵力でスエズ運河突破を図ったが、撃退された。同年12月16日、エル・アリシュを放棄。

1917年4月、第4軍(第8軍団、第3、第16歩兵師団)は、「ユルドゥルム」(稲妻)軍集団の編成下に入り、同年にシリア・西アラビア軍集団総司令官に任命された。

同年9月25日、第4軍からフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタインドイツ語版将軍の第8軍が編成された。

同年10月、シリア戦域は2分され、ジェマル・パシャは第4軍(ジェヴァード・パシャ将軍)と北アラビアの部隊から成る「シリア」軍集団の司令官となった。

同年12月、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインと紛争を起こし、ダマスカスに去る。ジェマル・パシャの撤退後、軍集団は解散された。その後、海軍相代行となる。

1918年10月、タラート・パシャ政権と共に退陣。

亡命と死[編集]

ジェマル・パシャ

1918年の三頭政治体制崩壊後、トルコから去り、暫くの間、ドイツ、スイスに潜伏した。この間、他の2人と同様に、新体制から欠席裁判で死刑を言い渡されている。

1921年アフガニスタン国王の軍事顧問となる。

1922年7月21日グルジア・ソビエト社会主義共和国の首都トビリシにおいて、アルメニア革命連盟党員とされるテロリストにより暗殺された。

著書[編集]

  • 「トルコ国家の発展」(1922年)
  • 「ジェマル・パシャのメモ。1913年〜1919年」(1923年

関連項目[編集]

脚注[編集]