カレル・ボレスラフ・イラーク

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カレル・ボレスラフ・イラーク
Karel Boleslav Jirák
カレル・ボレスラフ・イラーク(1929年)
基本情報
生誕 (1891-01-28) 1891年1月28日
出身地  チェコ プラハ
死没 (1972-01-30) 1972年1月30日(81歳没)
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家指揮者、音楽教師

カレル・ボレスラフ・イラーク[1]Karel Boleslav Jirák1891年1月28日 プラハ - 1972年1月30日 イリノイ州シカゴ)は、ボヘミア出身の作曲家指揮者、音楽教師。生前は音楽理論家としても令名高かった。

経歴[編集]

プラハ・カレル大学に通いながら、プラハの音楽アカデミーでヨセフ・ボフスラフ・フェルステルヴィーチェスラフ・ノヴァーク作曲を師事。1915年から1918年までハンブルク歌劇場の音楽監督を務め、1918年から1919年までブルノオストラヴァの国立歌劇場の指揮者に転身した。1920年から1930年までプラハ音楽院の作曲科教授を務め、この間に1945年までチェコスロヴァキア・ラジオ・オーケストラの首席指揮者も兼任した。

1947年に祖国を去って渡米、1948年から1967年までシカゴ・ルーズヴェルト大学教授を、1967年から1971年までシカゴ音楽大学作曲科教授を歴任した。

イラークは、作曲家としても指揮者としてもマーラーリヒャルト・シュトラウスに感銘を受け、その影響を受け続けた。代表作のオペラ「テュアナのアポロニオス (Apollonius z Tyany)」は、後に「女と神 (Žena A Buh)」と改題され、改訂された(1912年-1913年)。

そのほかに、6つの交響曲と管弦楽のためのいくつかの変奏曲に加えて、演奏会用序曲や管弦楽組曲室内楽をふんだんに作曲した。オルガン組曲やレクイエム連作歌曲集なども手懸けている。

私生活[編集]

3回、結婚しており、2番目の妻はメゾソプラノおよびコントラルト歌手のマルタ・クラーソヴァー1901年3月16日 - 1970年2月20日)であった[2]

脚注[編集]

  1. ^ カレル・ボフスラフ・イラーク(Karel Bohuslav Jirák)と呼ばれることもある。
  2. ^ Marta Krásová - Životopis / Info - FDb.cz