エリナー・オブ・カスティル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エリナー・オブ・カスティル
Eleanor of Castile
イングランド王妃
在位 1272年 - 1290年

出生 1241年
カスティーリャ王国ブルゴス
死去 1290年11月28日
イングランド王国の旗 イングランド王国ノッティンガムシャー、ハービー
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国ウェストミンスター寺院
配偶者 イングランドエドワード1世
子女 一覧参照
家名 ボルゴーニャ家
父親 カスティーリャレオンフェルナンド3世
母親 ジャンヌ・ド・ダンマルタン
テンプレートを表示

エリナー・オブ・カスティル(Eleanor of Castile, 1241年 - 1290年11月28日)は、プランタジネット朝イングランド国王エドワード1世の王妃。カスティーリャレオンフェルナンド3世と、2番目の王妃であるポンチュー女伯ジャンヌ・ド・ダンマルタンの娘。スペイン語名はレオノール・デ・カスティーリャ(Leonor de Castilla)。カスティーリャ=レオン国王アルフォンソ10世は異母兄、エドワード2世は四男である。

生涯[編集]

1254年、カスティーリャ王国の首都ブルゴスで、王太子エドワード(後のエドワード1世)と成婚した。イングランド側にとっては、アキテーヌ公領の背後に控えるカスティーリャ=レオン王国の力で、フランスがアキテーヌ領へ侵攻するのを牽制する目的があった。カスティーリャ=レオン王国にとっても、フランスと国境を巡る争いがあり、イングランドの助けを期待するところであった。

1270年8月、第8回十字軍遠征へ向かう王太子に同行してイングランドを出発、4年余りを国外でともに過ごす。

王との仲は極めて睦まじく、16人の子が生まれたが、成人したのはそのうちマーガレットエドワード2世エリザベス他4人だった。

1290年、王太子エドワードの婚約者であったスコットランド女王マーガレット(メイド・オブ・ノルウェー)の海難死の追悼と、スコットランド王位の請求のためにスコットランドへ向かう夫に従った。その途上、イングランド中部リンカン近郊のハービーで病没した。王はただちに旅を中断、王妃の内臓をリンカン寺院に埋葬し、防腐処置した遺体をウェストミンスター寺院へ埋葬すべくロンドンへ向かった。王は王妃の死を悲しみ、ロンドン到着までに葬列が泊まった12か所に、エリナーを悼むゴシック式の十字塔「エリナー・クロス」を建てさせた。ゲディントン、ハーディングストーン、ウォルサムの3か所に現存している。

子女[編集]

関連項目[編集]

先代
ジャンヌ・ド・ダンマルタン
ポンチュー女伯
1278年 - 1290年
次代
エドワード2世