ウィーン交響楽団

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ウィーン交響楽団
Wiener Symphoniker
基本情報
出身地  オーストリアウィーン
ジャンル クラシック音楽
活動期間 1900年 -
共同作業者 首席指揮者:アンドレス・オロスコ=エストラーダ
公式サイト www.wienersymphoniker.at

ウィーン交響楽団ドイツ語: Wiener Symphoniker['vi:nɐ[1] zʏm'fo:nikɐ[2]] ヴィーナ・ズュムフォーニカ、英語: Vienna Symphony Orchestra : VSO)は、オーストリアウィーンに本拠を置くオーケストラである。

本拠地のウィーン・コンツェルトハウス

概要[編集]

1900年、フェルディナント・レーヴェによりウィーン演奏協会管弦楽団Wiener Concertverein Orchester)として設立された。

1903年2月11日、ムジークフェラインザールにおいて、レーヴェ指揮によりブルックナー交響曲第9番の初演を行った。1913年、本拠地をウィーン・コンツェルトハウスとし、1919年、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団と合併、1933年、現在の名称となった。

1920年代、ラジオ放送開始によりコンサートの聴衆数を減らしたが、1938年のオーストリア併合においても存続し、ナチス政権の「文化管弦楽団」政策(Kulturorchester (独語版))に組み入れられ、1944年9月1日にオーケストラが消滅するまで、ナチス政権の宣伝目的のため、軍需工場の中での演奏という任務に従事させられた。

1945年9月16日、第二次世界大戦後最初の演奏会が開かれ、マーラー交響曲第3番が演奏された。 そして、ヨーゼフ・クリップスの指導により、10年間の空白を埋め、現代のレパートリーを回復させ、1946年夏、初めてブレゲンツ音楽祭に参加した。

1946年から、当時の首席指揮者ではなかったがヘルベルト・フォン・カラヤン指揮による「カラヤン・チクルス」が始まり、ヨーロッパや北アメリカのツアーを行った。 カラヤンは1960年代初頭にかけて合計150回以上の演奏会を指揮し、同団の戦後の飛躍をもたらした。ただし、カラヤンとはベルリン・フィル、ウィーン・フィル、フィルハーモニア管と比べて極めて少ない録音しか残されなかった。それでも、ソヴィエトからセンセーショナルに西側に登場したばかりのスヴャトスラフ・リヒテルとカラヤンの世紀の共演として話題を呼んだドイツグラモフォンのレコーディング(チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番)では、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルが共に使えず(前者はソヴィエト政府がリヒテルの西ベルリン入りに難色を示し、後者は専属関係にあり同月にカラヤンの「トスカ」セッションを組んでいたデッカ社が難色を示した)[要出典]珍しくバックに起用され、二大名門オケに代わっての力演を披露、これは今なお名盤としてロングセラーを続けている。

1959年、バチカンで教皇ヨハネ23世の前で、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮による演奏会を行った。 サヴァリッシュの下では、1962年のアン・デア・ウィーン劇場の復興演奏会、1964年のアメリカ・ツアー、1967年のアメリカ・日本ツアーが行われた。

サヴァリッシュの後、クリップス、カルロ・マリア・ジュリーニが首席指揮者となった。1980年代、ジョルジュ・プレートルが首席指揮者となり、フランス音楽のレパートリーとともに、コンサートの数も増やした。

1990年代初期、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスが首席指揮者となり、スペイン音楽も多くレパートリーに取り入れた。1997年、ウラジーミル・フェドセーエフが首席指揮者に就任した。2005年からはファビオ・ルイージが首席指揮者を務めている。クリップスまではドイツ系の音楽監督が続いたが、その後はイタリア人、フランス人、ドイツ系スペイン人、ロシア人と、非常に国際的な人選でレパートリーの幅も広がっている。

主な歴代首席指揮者等[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Duden Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverlag. (2005). p. 837. ISBN 978-3-411-04066-7 
  2. ^ Duden Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverlag. (2005). p. 760. ISBN 978-3-411-04066-7 
  3. ^ wienersymphoniker[リンク切れ]
  4. ^ wienersymphoniker[リンク切れ]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]