イェジー・カヴァレロヴィチ

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イェジー・カヴァレロヴィチ
Jerzy Kawalerowicz
Jerzy Kawalerowicz
生年月日 (1922-01-19) 1922年1月19日
没年月日 (2007-12-27) 2007年12月27日(85歳没)
出生地 ポーランドの旗 ポーランド スタニスワヴフ県グヴォジヂェツ
死没地 ポーランドの旗 ポーランド ワルシャワ
職業 映画監督脚本家
活動期間 1952年 - 2001年
配偶者 ルツィナ・ヴィンニツカ (離婚)
マグダレナ・ディポン
主な作品
夜行列車
尼僧ヨアンナ
 
受賞
カンヌ国際映画祭
審査員特別賞
1961年尼僧ヨアンナ
ベルリン国際映画祭
銀熊賞 (芸術貢献賞)
1978年Śmierć prezydenta
その他の賞
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イェジー・フランチシェク・カヴァレロヴィチポーランド語: Jerzy Franciszek Kawalerowicz, 1922年1月19日 - 2007年12月27日) は、ポーランド映画監督

来歴[編集]

1922年1月19日ポーランド・スタニスワヴフ県グヴォジヂェツ(現在のウクライナイヴァーノ=フランキーウシク州)で生まれた。クラクフ美術大学を卒業後、数年間はレオナルト・ブチュコフスキヴァンダ・ヤクボフスカの元で助監督を務めた。

1952年カジミェシュ・スメルスキと共同製作した長編Gromada』で映画監督としてデビュー。1954年には『セルロース』と『フリギアの星の下で』の2部作を発表。当時支配的であった社会主義リアリズムの枠を守りながらも、他の映画が陥りがちであった一面的描写やステレオタイプを避けることに成功した[1]1955年、映画製作会社カドルの芸術監督に就任。いわゆるポーランド派の時代には『』(1956年)や『戦争の真の終り』(1957年)といった作品を発表。1959年の『夜行列車』はヴェネツィア国際映画祭ジョルジュ・メリエス賞を受賞した。

1961年ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチの小説を映画化した『尼僧ヨアンナ』を発表[注 1]。国内での評価は今ひとつだったものの、第14回カンヌ国際映画祭では審査員特別賞を受賞した。1966年歴史大作『太陽の王子ファラオ』はアカデミー外国語映画賞にノミネートされ、大ヒットを記録した。現在ではポーランド映画における最も評価の高い歴史映画の一つとされている[1]1977年にはポーランドの初代大統領ガブリエル・ナルトヴィチの暗殺事件を描いた『Śmierć prezydenta』を発表。翌1978年第28回ベルリン国際映画祭芸術貢献賞を受賞した。

1983年にポーランドの民主化運動である連帯に関係する映画人を批判する共産党政府の文書に署名。これによりアンジェイ・ワイダクシシュトフ・ザヌーシと袂を分かつことになった。その後もヘンリク・シェンキェヴィチ同名小説を映画化した歴史大作『クオ・ヴァディス』(2001年)などを発表したが、共産主義国が崩壊して以後の作品はいずれも高い評価を得られなかった[1]

2007年12月27日ワルシャワにて85歳で死去した。

監督作品[編集]

『尼僧ヨアンナ』(1961年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 原作はヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ『尼僧ヨアンナ』(岩波文庫)ほか。フランスの小都市ルーダンで実際に行われた悪魔裁判を題材とした作品。舞台は中世末期のポーランドの辺境の町ルーディンに変えている。修道院の若き尼僧長ヨアンナに悪魔がつき,悪魔祓いに派遣された神父はあれこれ手を尽くすが万策尽きて…。同じ事件はオルダス・ハクスリー『ルーダンの悪魔』でも扱われていて、これはケン・ラッセル監督が『肉体の悪魔』(1971)として映画化。

出典[編集]

  1. ^ a b c イェジー・カヴァレロヴィチ ポーランド広報文化センター”. Instytut-polski. 2014年11月3日閲覧。

外部リンク[編集]