アンドレス・ダレッサンドロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンドレス・ダレッサンドロ
リーベル・プレート時代(2016年)
名前
本名 アンドレス・ニコラス・ダレッサンドロ
Andrés Nicolás D'Alessandro
愛称 El Cabezón(デカ頭)
ラテン文字 Andres D'ALESSANDRO
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1981-04-15) 1981年4月15日(43歳)
出身地 ブエノスアイレス
身長 174cm
体重 68kg
選手情報
ポジション MF (OMF)
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1998-2003 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 70 (19)
2003-2007 ドイツの旗 ヴォルフスブルク 61 (8)
2006-2006 イングランドの旗 ポーツマス (loan) 13 (1)
2006-2007 スペインの旗 サラゴサ (loan) 36 (2)
2007-2008 スペインの旗 サラゴサ 14 (2)
2008 アルゼンチンの旗 サン・ロレンソ (loan) 15 (2)
2008-2020 ブラジルの旗 SCインテルナシオナル 285 (45)
2016 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート (loan) 30 (5)
2021 ウルグアイの旗 ナシオナル 14 (1)
2022 ブラジルの旗 SCインテルナシオナル 1 (1)
通算 478 (84)
代表歴
2001  アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20  7  (2)
2004   アルゼンチン 五輪  6  (1)
2003-2011  アルゼンチンの旗 アルゼンチン  28  (3)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
2004 アテネ サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アンドレス・ニコラス・ダレッサンドロAndrés Nicolás D'Alessandro, 1981年4月15日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス出身の元サッカー選手。元アルゼンチン代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー

経歴[編集]

クラブ[編集]

1998年にCAリーベル・プレートでデビューし、2003年にはリーベル史上最高額の900万ユーロの移籍金でドイツのVfLヴォルフスブルクに移籍した。2005年9月21日のハノーファー96戦でヴォルフスブルクの通算4000点目を決めた。ブンデスリーガでは61試合に出場して8得点18アシストを挙げたものの、チームプレーを重視するクラウス・アウゲンターラー監督の方針と合わず、2006年1月、イングランドのポーツマスFCレンタル移籍した[1]。4月17日、イースターマンデーに行われたチャールトン・アスレティックFC戦で初得点した。6月17日、スペインのレアル・サラゴサにレンタル移籍した[2]。2007年6月にはサラゴサに完全移籍した。2008年、リーベル時代の恩師ラモン・ディアス率いるCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロにレンタル移籍した。しかしディアスがサン・ロレンソを離れると、自身はブラジルのSCインテルナシオナウに移籍した。

2009年7月14日、コパ・ド・ブラジル決勝のSCコリンチャンス・パウリスタ戦で相手DFウイリアムポルトガル語版に襲い掛かって乱闘騒ぎを起こす引き金となり、13試合の出場停止処分が下された[3]

2009-10シーズンは安定した活躍でクラブをコパ・リベルタドーレス優勝へ導いた。FIFAクラブワールドカップ2010では準決勝でTPマゼンベに敗れたものの、翌年1月11日にダレッサンドロは南米年間最優秀選手に選出された[4]

2016年2月4日、リーベルへローンで復帰することが発表された[5]。同年末までプレーし、レギュラーとしてタイトル獲得に貢献した[6]

2020年9月18日、ブラジルの市民権を獲得したことが公表された[7]

代表[編集]

2001年、追加招集という形でU-20アルゼンチン代表に選ばれ、地元開催となったFIFAワールドユース選手権では優勝メンバーとなった。この大会での活躍により一時はACミランインテル・ミラノユヴェントスFCイタリア3強やマンチェスター・ユナイテッドFCといった強豪が獲得を打診した。2003年にはフル代表デビューも果たし、2004年のコパ・アメリカ準優勝メンバーにも名を連ねた。さらにはアテネオリンピックで金メダルを取ったチームにも彼の名前があった。2006 FIFAワールドカップではケガもあり満足なアピールができずメンバーから漏れてしまった。2010 FIFAワールドカップでは予選での出場はなく、前述のクラブでの乱闘騒ぎも影響してかメンバーから漏れるものの、セルヒオ・バティスタ体制になってからはコンスタントに招集されるようになっている。

エピソード[編集]

  • 2007年10月17日、練習試合で得点を挙げたダレッサンドロにパブロ・アイマールが言いがかりを付け、その後意見の食い違いから両者は激しく言い争った。チームメートが止めに入ったが、ダレッサンドロは試合後のストレッチには参加せずにロッカールームに引き上げた[8]。同月23日には、練習中に監督のビクトル・フェルナンデスに文句を言い、その結果チームの全体練習から外されて個別練習をするよう命じられた[9]

タイトル[編集]

クラブ[編集]

リーベル・プレート
インテルナシオナウ
ナシオナル

代表[編集]

U-20アルゼンチン代表
オリンピックアルゼンチン代表

個人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ uefa.com (2006年2月1日). “新天地での活躍を誓うダレッサンドロ”. 2009年7月14日閲覧。
  2. ^ livedoorスポーツ (2006年6月10日). “ダレッサンドロ、サラゴサ移籍で合意”. 2009年7月14日閲覧。
  3. ^ livedoorスポーツ (2009年7月14日). “ダレッサンドロに13試合出場停止処分”. 2009年7月14日閲覧。
  4. ^ Goal.com (2011年1月12日). “南米年間MVPはダレッサンドロ”. 2011年1月12日閲覧。
  5. ^ D'Alessandro regresó a River: "Estoy con hambre, con ganas de ser campeón"”. La Nación (2016年2月4日). 2017年11月17日閲覧。
  6. ^ D'Alessandro se despede do River Plate e confirma retorno para o Inter”. Goal.com (2016年12月16日). 2017年11月17日閲覧。
  7. ^ D’Alessandro, cidadão brasileiro: por que o processo demorou tanto tempo?”. Goal.com Brasil (2020年9月18日). 2020年11月17日閲覧。
  8. ^ livedoorスポーツ (2007年10月18日). “アイマールとダレッサンドロがあわや乱闘の言い争い”. 2009年7月14日閲覧。
  9. ^ livedoorスポーツ (2007年10月25日). “ビクトル・フェルナンデス監督、ダレッサンドロを練習から追放”. 2009年7月14日閲覧。

外部リンク[編集]