アレクセイ・ヴェルストフスキー

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20歳のころのヴェルストフスキー(1799-1862)

アレクセイ・ニコラエヴィチ・ヴェルストフスキー(Aleksei Nikolaevich Verstovskii, 1799年3月1日ユリウス暦2月18日) - 1862年11月17日(ユリウス暦11月5日))は19世紀ロシア作曲家

ミハイル・グリンカ(1804年 - 1857年)とともにロシア・オペラの指導的作曲家であり[1]、グリンカより5年年長ながら5年長生きしたヴェルストフスキーのオペラ作品は、19世紀初頭にロシアで流行したカッテリーノ・カヴォス(1775年 - 1840年)やステパン・ダヴィドフ(1777年 - 1825年)らの「お伽噺オペラ」から脱皮して、本格的オペラへと橋渡しする役割を担った[2][3]

ヴェルストフスキーは地主の息子に生まれ、幼少より音楽を学んだ[3]。ロシアに居住していたピアノの名手ジョン・フィールド及びダニエル・シュタイベルトの二人にも師事している[2]

サンクトペテルブルクの交通技術大学を卒業するが、演劇の世界で生きることを決意し、1823年にモスクワへ移って劇場監督となる。1842年から1860年までボリショイ劇場を含むモスクワの全劇場監督官を務めた[2][3]

ヴェルストフスキーはボードヴィルのための劇付随音楽や多くの歌曲を書くかたわら、西ヨーロッパの作曲家たちの作品を研究し、6曲のオペラ作品を残した[4]。とくに重要なオペラとして、スラヴの古代史に題材を取った『アスコリドの墓』(1835年。『アスコルドの墓』とも)があり、ヴェルストフスキーの名を世界に広めた成功作となった[2]。『アスコリドの墓』は、台詞の入るジングシュピール作品であり[2]、様式的に古さをぬぐえない部分もあるが、1835年にモスクワボリショイ劇場で初演されて以来、19世紀中にモスクワで400回、サンクトペテルブルクで200回など、ロシア各地で上演が繰り返され、圧倒的人気を誇った[5][6]。また、ロシア・オペラとしてはアメリカで上演(1869年、ニューヨーク)された初めての作品でもある[7]

このほか、オペラ作品として『パン・トヴァルドフスキー』(1828年)は、1824年にロシア初演されたウェーバーの『魔弾の射手』に強い影響を受けたロシア初のロマンティック・ジングシュピールであり[2]、よりロシア色の強い『ヴァディーム、または12人の眠れる乙女の目覚め』(1832年)やレチタティーヴォに工夫を凝らした『グロモボイ』(1858年)などがある[3]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 一柳富美子(項目執筆者) 著、日本・ロシア音楽家協会 編『ロシア音楽事典』(株)河合楽器製作所・出版部、2006年。ISBN 9784760950164 
  • 森田稔(項目執筆者)『音楽大事典 5』平凡社、1983年。 
  • フランシス・マース 著、森田稔梅津紀雄中田朱美 訳『ロシア音楽史 《カマリーンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで』春秋社、2006年。ISBN 4393930193 
  • 遠山一行海老沢敏 編『ラルース世界音楽事典』福武書店、1989年。