利用者:Yesterdayforthem

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Yesterdayforthem is a wikipedia user.

In Japan, the public prosecutor monopolizes the authority to submit prosecution to a court about an incident (prosecution). Therefore, even if it expects the incident which brought a charge that I want a criminal victim to hold a trial about a specific incident, it may become non-prosecution, suspension-of-indictment disposal, etc., without prosecution being instituted by judgment of a public prosecutor.

自己紹介[編集]

私は口が悪いようなところがありますが、心から思う疑問を率直に話しているだけです。憎むべきものは「問題」であり人格ではありません。私は相手の正体、真意を探るため心理的に鎌をかけることがありますが、ちゃんとした理由があるためそういう場合は質問していただければ幸です。少なくともwikipediaを荒らすようなことはしないつもりです。定義を再確認することで更なる発展を望めるでしょう。


wikipediaに関する誤解[編集]

恐らく多くのユーザが誤って解釈しているであろうwikipediaの方針を考えてみます 参考:Wikipedia:基本方針とガイドライン


wikipediaは初投稿の資格を得るには「かなりの時間」を要します[編集]

wikipediaに執筆するためにはまずWikipedia:基本方針とガイドラインを隅々まで熟読し理解しなければなりません。分かり難い文書で膨大ですが、執筆志願者は全てまず始めに理解しなければなりません。即ち、執筆するには文章読解能力や時間など在る程度の敷居をまたがなければなりません。言い換えれば気軽な気持ちで誰でも執筆者になれるというわけではありません。まず現在の公式指針である基本方針と考慮すべきガイドラインをよく咀嚼しこれに則り編集しなければなりません。

wikipediaは出典に厳密です[編集]

これは論争点と為りやすい点です。言い換えれば、「信頼性のある情報源」でなければ記事として導入することはできません。信頼性のある情報源についてはこちら(現段階は草稿であるため、拘束力はないが、あらましに参考)を参照する必要があります。これに拠れば、wikipediaの執筆者とは情報のコピーをする仕事以外ありません。明文化された文言を自らの解釈を加えずそのまま掲載する以外に中立的な観点を維持するのは不可能です。如何ほど明らかな事実であって、誰か権威のあるものが発言した、という客観化された事実を書くしか方法はないということです。幾ら内容が真実であっても何か信頼の置ける媒体がなければwikipediaに記載することはできません。執筆者とはコピペするだけの仕事だと思ってくだされば結構です。但し、著作権や文体といった気配りも必要になります。


以上を理解できない方は執筆する資格はありません[編集]

現状では完全に理解するのは容易ではないかと思いますが、これを理解できなければ執筆する資格はないと言えるでしょう。敷居は高くなりますが、wikipediaが何であるか正しく理解できなければ正しい編集はできません。正しくない編集は管理者の仕事を増やします。現段階では行き届いてないことも多いですが、wikipediaの質を高め百科辞書としての信頼性を向上させるためにはこれらの認識は必要なことです。完全に理解するのは難しいかと思いますが、最低限以上の事柄は認識してなければ互いに不快感を生むだけになる可能性があります。


参照先

内容についての公式な方針


個人的な考え[編集]

  • 以上のような起こりがちな誤解点をまず多くのユーザに広く認識させる必要があります(多少皮肉っているところがありますが、wikipediaとはそういうものらしいです)。これでいい加減な書込や管理者の仕事を大幅に減らし、また互いに指針を理解していなかったばかりに不必要ないざこざを避けることができます。言い換えれば、好ましくない編集の多くはwikipediaの解釈しづらいマニュアル構造にあるのでしょう。もっとユーザビリティを考える必要がある。


  • wikipediaの指針は分かり難い。現在進行中な話題であったり、一貫性や無矛盾性に疑問がある点も多く一般に理解し難いものとなっている。(完璧に現状を把握している人なんているのか?居るならまとめて欲しいものだ)以下にも挙げたとおり、定期的に内容をまとめ解釈しやすいマニュアルなど創設すれば取り付き易くなるのでは。既にあるのか?


  • reverterは「検証可能性」「独自研究」などマニュアルのリンクを貼るだけでなく、どの点で違反していると思うのか、指針の個人的な解釈も加えて指摘する必要がある。或は、場合によっては逆荒らしと解釈されることもあるため、「何故そう思うのか」を真摯に対応する。そうでなくてもrevert側としても正しく主観のない公正な作業をしているか常に問われていることを忘れてはならない。reverterが基本方針をどれほど認識しているか常に監視している。

wikipediaが分からなくなった時[編集]

wikipediaは何なのですか?方針からして一貫性がなく、矛盾しているようでは理解に苦しみます。


結局完全に公平に合意がなされて普遍性を保ち社会を上手くやっていくというのは無理なのかもしれません。wikipediaがその典型でしょうね。少数の人間が始めに定義し、権威をもってそれを押し付ける体制がなければ統制など計れないのです。事実、ノートの議論でも意見が分かれて決定論を生み出せず収集が着かないでいます。

理想の編集とは何か[編集]

これについては少し論点がずれている感があるので私の意見は以下乃至以上の文章を参照ください。

このマニュアルを作ったほうが良いかと思います。以上のように膨大なwikipediaの規定やノートを参照しつくのは容易なことではありません。QandA形式でFAQの答を示すなどより分かり易い仕組みにしたほうが良いかと思います。(訂正:FAQは存在しましたが、以上のような情報の信頼性や投稿に於ける注意点について具体的な言及はありません。Wikipedia:投稿者向けFAQ frequently argued question として一度整理する必要があるのではないか。)私は真摯な気持ちで書いた記事を安直に差し戻すreverterの考えが未だよくつかめていない。

せっかく執筆者が調べて書いているのに、「検証可能性」「独自研究」の点で引っかかるようでは好い気はしないでしょう。どこまで突き詰めたら検証可能性があって、独自研究にならないのか。それがいまだはっきりしていないのではないか。


某氏は以下のように述べている。

  • 基本的にあまり執筆は行わない。これに関して、たまに批判の声もあるが、百科事典としてふさわしくない記事を書き散らす人よりも、よっぽど貢献していると、確信している。

「ふさわしくない」が争点かと思いますが、私は何も執筆しないよりはしたほうが良いものと確信している。勿論、質は規定に則り正しく維持されなければならない。そして「ふさわしい」の判断が主観にならないための普遍的な基準を設けなければならない。既にあるならば一般に浸透されるよう公布しなければならない。

これを皮肉ったものとしてこちらがある。(因みに作成者は私ではない。2ちゃんねるスレッド「Wikipediaでアートのお勉強」より引用。)

  • 基本的にあまり他人の執筆には口を出さない。これに関して、たまに批判の声もあるが、自分で執筆もせずに「要出典」だけ貼り付けて、執筆者を不快にさせてばかりいる人よりも、よっぽど貢献していると、確信している。

信頼に値する内容だけを掲載するのは当然のことであり、結局争点は検証可能性や独自研究の定義であろう。何を持って検証可能性があり独自研究にならないのか。これをもっと大々的に根強く編集者らに定着させる必要がある。


正直なところ氏が「ふさわしくない」と烙印するものに対して、私はそれほど悪戯や信頼に値しない情報とは思えない。早い話、無いよりはましである。



内容は少しずつ整理・改訂していく予定です。--Yesterdayforthem 2007年10月29日 (月) 16:58 (UTC)

出典が信頼性があるかの判断[編集]

以下はWikipedia‐ノート:検証可能性に書き込んだ内容です。

何かと書込に[要出典]を貼り付けたり書いた直後にrevertする行為が私方で話題になっていますが、そこでの争点は結局「情報の信頼性の判断」です。この検証可能性の頁では信頼性の乏しい情報源として数行ほど指示がありますが、ここでいう「評判がよくない」の判断基準はどのようにしたらよいのでしょうか。結局これを判断するのは主観でしょうが、この点において私方で問題となっています。何が信頼できて出来ないのか、それはその判断する人物の経験や知識によるものです。これは主観ではないのでしょうか。何か内容的に具体的な指針を求めます。

例えば、音楽アーティストなどでは雑誌のような媒体でしか取り上げられませんが、そこでの論評や評価は信頼に値するものでしょうか。発行部数が極端に少ない発刊物もありますし、出版が多様化している今reviewerが必ずしも信頼性のある情報を提供するとは限りません。そこでの判断は基準はどうしたらよいのか、問題となっています。某氏は雑誌やメディアで取り上げられば一応掲載されたという事実を汲んで「信頼に値する典拠」として掲載を認める?そうですが、私はそれでは信頼性の検討が十分でないと考えます。結局、言ってしまえば信頼性があるかどうかの判断も主観なのです。某氏はその事実を譲らず、「検証可能性」や「独自研究は載せない」といった方針を引き合いに出し、私の提起する問題の本質を考えようとしません。

どこまで突き詰めて「信頼性がある」と判断すればよいのか、皆さんはどのようにお考え解釈しているのでしょうか。具体的に語らず一方的に執筆を恣意的に削除する某氏に非難の声が寄せられています。エンターテイメント関係は情報自体主観的に語られることが多く、こういった「信頼性」の基準が更に難しくなります。この頁においてもっと詳しく定義する必要があります。現在の記述では充分でありません。

検証可能性としても、検証にあたる人物や内容の検証手段も重要になるかと思います。例えば「ラジオでo時o秒に発言した」と典拠として書かれたとしても、現実それを検証することは困難かもしれません。録音されてなければ発言本人たちの記憶を辿るしかありません。しかしもし本人たちが「忘れた」としたら検証可能性は認められないのでしょうか。或は、典拠を記してもそれが「嘘」かもしれません。しかし実際に検証するのは現実的に稀であり、出典があったとしても内容は虚偽ということにもなりえます。現在の「検証可能性」の定義ではこういった側面が無視されているような気がします。しかしそういった局面が問題になってきています。「どれだけ突き詰めれば出典がある、信頼性のある情報源、根拠があるといったことになるのか?」この点を更に充実させる必要があります。--Yesterdayforthem 2007年10月29日 (月) 18:34 (UTC)


参考項目[編集]