Wikipedia:井戸端/subj/Wikipediaは著作権に対して過保護すぎないか?

Wikipediaは著作権に対して過保護すぎないか?[編集]

著作権侵害案件における削除依頼がよく提出されていますが、著作権法の保護対象となる著作物の定義は「思想または感情を表現したもの」かつ「創作的な文章」であります。ですが、Wikipediaの著作権侵害案件を理由とした過去の削除依頼を辿ると、その定義に合致しない、つまり保護対象となるほど創作性に満ちていない文章やただの事実の伝達ですら著作物として扱われ、削除されている事案があるように思えます。私は著作権を理解する為に、「知的財産法判例集」(有斐閣 ISBN 978-4-641-14417-0)を度々読んでいますが、この書籍の著作権法に関する記述を読めば読むほど、Wikipediaは著作権に対して過保護すぎるのではないかという疑いを強くします。これでは文豪レベルの文才と、10も20も書籍を収集できる情報収集能力を具備した人間でなければ記事を書けません。コミュニティ皆様はどのようにお考えでしょうか。御意見を拝聴したいです。--ShellSquid/履歴 2011年1月31日 (月) 00:51 (UTC)[返信]

ウィキペディアは合意によってそれぞれの案件を判断します。また、ウィキペディアのコンテンツは、ソース元がウィキペディアだということ知らせる限りにおいて、複製、改変、再配布を認めています。著作の一部をウィキペディアに「転載」されている、、あるいはウィキペディアに載ったことで流用され続けてしまっているがどうにかならないかという、原著作者からの申し出は複数あるようです。こうしたことから著作権法上は問題にならないのではないかと思われる案件についても、削除しておくほうがベターであろうという合意がなされる場合はあるでしょう。
忘れていただきたくないのは、「ウィキペディアの目的は、信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げること」ですから、デッドコピーや参考にした情報源の引き写しによる記述は、「質」の面で目的にはかなっていないことになります。「著作権侵害の恐れがあるから削除」、あるいは、「著作権侵害とはいえないのでセーフ」というレベルの論争は、削除対象であるかということのみに言及したものであり、質の面を追及する上においては、ウィキペディアの理念とはかけ離れたものであることを再確認してください。
後半の「文豪レベルの文才と-」以降は、論理の飛躍であると思われます。--海獺 2011年1月31日 (月) 01:05 (UTC)[返信]
了解しました。「文豪レベルの文才~」については、感情的、扇情的な表現でした。すみません。他の方の御意見も、引き続き拝聴したいと思います。--ShellSquid/履歴 2011年1月31日 (月) 01:16 (UTC)[返信]
特に統計を取ったわけではない個人的印象に過ぎませんが、おっしゃるように「保護対象となるほど創作性に満ちていない文章やただの事実の伝達ですら著作物として扱われ、削除されている事案がある」かもしれません。しかしながら、著作権法違反というのは、個々の訴訟等を通じて個々具体的な例に基づき判断されるものであるため、予防的に訴訟リスクを排しようとするならば、海獺さんのおっしゃるように「著作権法上は問題にならないのではないかと思われる案件についても、削除しておくほうがベターであろうという合意がなされる場合はある」のです。Wikipediaスラングかもしれませんが、これを称して「安全側に倒す」と言っております。勿論、法律の解釈に自信がないほど安全側に倒そうとする傾向はあるでしょうが。なお、後半の意見に関しては、私の作成した文章と、Toki-hoさん作成の文章へのリンクを利用者ページに貼られている方とは思えない投稿で、正直驚いておりますことを申し添えます。--ろう(Law soma) D C 2011年1月31日 (月) 06:08 (UTC)[返信]
要約欄でのコメントについてですが、Law soma様のサブページの文章はとても分かりやすいです。このような提起や文豪云々のコメントをしたのは私の理解力の顕著な欠落によるものであります。Law soma様はどうか気になさらないで下さい。--ShellSquid/履歴 2011年1月31日 (月) 08:35 (UTC)[返信]
おおざっぱに「過保護すぎる」「過保護ではない」と考える事自体が適切ではなくて、個々の審議で、なぜそれが侵害となるか、ならないか、という判断をするようにしてください。定型的な表現の著作物性について争われたものとして、たぶん「ラストメッセージin最終号事件」の判例が載ってると思うんだけど、実例はこんな感じ[1]。創作性は、それほど求められていないということが分かると思います。他方、こっちが載ってるかどうか分からないけど、通勤大学法律コース事件で知財高裁は著作物性を否定して不法行為を認めています。対照表がある判例研究はこれ[2]。こういうのを見て、どこまでなら大丈夫か考えるよりも、最初から自分の言葉で書くほうがよっぽど簡単です。関連する本を3冊読んで、細かい数字は棚上げして本を見ずにざっと書き起こしてみてください。たぶん、どの本の表現とも違う物になっていると思いますよ。--Ks aka 98 2011年1月31日 (月) 11:50 (UTC)[返信]
コメント蛇足ですが、(a)「日本の裁判所の判例上、著作権違反と実際に判定されるかどうか」と、(b)「日本の著作権法の規定上、該当するかどうか」と、(c)「完全なフリーのコンテンツ」は、かなり違うと思います。(a)は、個人の自主制作本の二次創作物などは、不特定多数に広く販売しない限り実際には告訴されたり有罪にはなりませんが、著作権違反とならない訳ではありません。(b)は、理屈上は小説の1行や、歌詞の一部だけでも該当します。しかし(c)は更に厳しくあるべきです(現状がどうかは別として、本来は)。例えばコンピュータ・プログラムの著作権訴訟では、ごく僅かな箇所も著作権違反の証拠とされうるため、クリーンルーム技法は極めて厳重な管理がされており、ウィキペディアも同様と思います。またウィキペディアは各国語版の間での翻訳も推奨されており、それは1言語版でも全世界で完全にフリーコンテンツである事が大前提です。「日本の著作権法だけに抵触しなければ良い、有罪になる可能性が極めて低ければ良い」というものでは無いと思います。だからこそ投稿ボタンの上には「GFDLの下で公開することに同意したことになります」と明記されていると思っています。ウィキペディアでのフリーコンテンツではGFDL遵守が必要不可欠であり、通常の出版物やサイトでの単なる日本ローカルでの「訴訟対策」とは異なると思っています。--Rabit gti 2011年2月1日 (火) 05:17 (UTC)[返信]
コメントこんばんは。履歴からここ3箇月ほどShellSquidさんが関わった著作権侵害が絡む削除依頼を拝見しました。ShellSquidさんは、どちらかとうと特筆性のE案件の方に多く携わっていらっしゃり、著作権に関連する削除依頼ですと「Wikipedia:削除依頼/櫛引一紀」「Wikipedia:削除依頼/神野神社 (まんのう町)」「Wikipedia:削除依頼/2003年 バム地震」「Wikipedia:削除依頼/Wikipedia:削除依頼/2003年 バム地震」等で存続票を投じていらっしゃいました。拝見したところ、「過保護」という表現が適切かどうかは微妙ですが、確かに私も削除が必要な案件なのだろうかとの印象は持ちました。蛇足ですが、こうした話題を井戸端でする場合は、そうした感想を抱くに至った削除依頼を例示したほうがイメージを共有しやすいのではないかと思いました。話を戻して。皆さんが既に仰っているように、Wikipediaは広く再配布を認めているため、元の著作者の不利益にならないようにまた不用なトラブルを生まないように、一般社会の常識よりも多少過剰に著作権に配慮している側面があります。そうした「安全側に倒す」という運用は、Wikipediaの記事を安定して供給していくために必要な対処だとも思います。ただ「安全側に倒す」ということは、視点を裏返せば、一般社会では特に問題とならない行為についてまでも法の侵害行為だとみなし、その行為者に法を犯したと汚名を着せることでもあります。常識的な著作権の知識を有した新しい参加者が、Wikipedia日本語版では一般社会よりやや過剰気味なほど慎重に著作権に配慮していることを知らずに、うっかりミスをしてしまった時は、まず再利用を認めているWikipediaの仕組みと日本語版の運用を説明することも重要ではないかと思います。昨今の削除依頼等を拝見していると、そうした説明はすっとばし、著作権侵害だと断定・糾弾するような物言いを見かける時もあります。長い目でみてそうした流れはどうなのだろうと悩ましくもあります。ShellSquidさんは、Wikipedia日本語版内で得られる知識・コミュニティ内での常識で完結させず、「知的財産法判例集」等の外部の書籍に目を通してきちんと一般の著作権に関する知識を習得されようとしており、私はそうした方向性は正しいのではないかと思います。文豪以降の文は既に撤回済みなので触れません。なおその手の基礎知識習得の個人的なオススメは『学術論文のための著作権Q&A』(参考)です(センデンジャナイヨ)。学術論文を書く役には立ちませんが、Wikipedia日本語版に寄稿する際に悩みそうなポイントが何故か網羅されていてお手ごろ価格ですよ。……なんだか話が脱線した気がしますが気にしない。--Giftlists 2011年2月1日 (火) 14:19 (UTC)[返信]
コメントShellSquidさんは私と似たような考えを持つ人だなあと感じました。私はこれまで削除依頼において、丸写し元が新聞等の報道である案件で、何度か存続票を投じています。
日本では制定法主義が採られています。判例の国民に対する効力は最高裁自身が否定しています(憲法からすると、裁判官に対する効力もないと思われる)し、いわんや行政庁の解釈や学者の学説が効力を持つ訳ではありません。したがって著作権侵害の有無を判断するには、どうしても条文と直接向き合う必要があります。条文を見ずに著作権侵害案件を審議することは避けるべきです。そこでShellSquidさんの投稿と一部重複しますが、著作権法の条文のうち削除依頼と関係しやすいものを、管理者様は重々ご承知でしょうが、必ずしもほとんどの方がご存じとは言えないので、引用します。私も著作権侵害案件の審議を行う場合には、必ず横に条文を出して、引用元の文章の性質等を熟慮して投票しています(自信がない案件についてはコメントにしたりすることもあります)。
(定義)
第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
一 著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。
(著作物の例示)
第十条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。
一 小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
2 事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない。
これらの条文から、次のことが分かります。
まず、そもそも著作物と言えるための要件として、「思想または感情を」と「創作的に表現」、さらに「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」という三重の絞りがかけられているということです。「事実」を「創作的」に表現しても、「思想または感情」を「機械的」に表現しても、どちらも著作物ではありません。次に、例示の例示ではありますが、挙げられている文章の例はフィクションまたは筆者の考えを伝えることを主たる役割とする文章で、報告的・記録的・伝達的文章は例に入っていないということです。ただし例示の意味が、単に例を数個挙げただけなのか、例示されたものに類するものを著作物とする趣旨なのかは、どちらとも読めるところです。さらに、10条2項は、「事実の伝達にすぎない雑報」と「時事の報道」が並列であるとも、「事実の伝達にすぎない雑報」と「事実の伝達にすぎない時事の報道」が並列であるとも読めます。これは日本語の仕組み上いたしかたないことです。前者と読んだ場合には、時事報道文全体が著作物でなくなります。最後に、前述の点で後者の読み方をしたとしても、「事実の伝達にすぎない時事の報道」は著作物ではないということです。
ウィキペディアの削除議論では、引用した条文の認識、特に時事報道について著作物ではないとした10条2項の認識が必ずしも十分ではなく、写し元の文章の性質が何であれ、丸写しだから著作権侵害だ、というような傾向がある可能性があり、結果として「著作権が過保護」になっているかもしれないと思います。もっとも、日本の著作権法に触れなければそれでよいという問題ではないことはご指摘の通りで、ただし写し元に加え加筆の方まで「著作物」でない場合は、GFDLの問題も生じないのではないかという疑問を感じます。GFDL適用の前提として、著作物であることが必要だと思われるからです。そしてその「著作物」かの基準は、行為地が日本である限りは日本の著作権法とならざるを得ないのではないでしょうか。
丁々発止議論をするつもりはございませんし、毎日毎日ウィキペディアを見ているわけでもありませんが、関心分野でしたので一度だけ発言させて頂きました。--和栗のモンブラン 2011年2月1日 (火) 14:30 (UTC)一部修正--和栗のモンブラン 2011年2月1日 (火) 14:33 (UTC)[返信]
コメント個人的な感想ですが、ShellSquidさんと和栗のモンブランさんの考えは、あまり似ているようには思いません。ついでに新聞の報道記事に対しての和栗のモンブランさんの考えにも同調できません。おやすみなさい。--Giftlists 2011年2月1日 (火) 14:38 (UTC)[返信]
コメント 和栗のモンブランさんに一言。例示の意味が、単に例を数個挙げただけなのか、例示されたものに類するものを著作物とする趣旨なのかは、どちらとも読めるところですとおっしゃいますが、ここは例示として読むところです(法令用語としての「その他」と「その他の」は意味が違うけど、どっちにしても「言語の著作物」を限定する要素はない)。要は、単に条文を通常の日本語として読むこと自体に問題があります。法令用語というのは厳密で誤解の少ないように使われていますので、馴染みのない方が読むためには「どう解釈すべきなのか」についての立法者解説なり判例なりを参考にすることになります。この限りにおいて、判例を参考にする必要が生じます。おっしゃるように判例ってのは、単に判決の前例に過ぎず、その効力は既判力として及ぼされる範囲(当事者等)に留まります。類例があっても関係のない個々の事件間で容易に引用されるべきものではない。しかし法解釈が揺れることは好ましくないので、一般的には判例が広く参考にされているところです。勿論下級審判例はいつ何時覆されるか分かりませんので参考にするのに慎重にする必要はありますが。いずれ、おっしゃるような読み方で著作権法を読まれると、議論が混乱すると思います。--ろう(Law soma) D C 2011年2月3日 (木) 00:03 (UTC)[返信]
「その他の」が例示であることは、私もLaw somaさんも一致しているわけです。問題はその例示されたものに意味があるかどうかです。私は、意味がある(例示された物に類するものを言語の著作物とする趣旨)ものと考えています。なお、捜索差押令状において包括的な記載がなされた場合における例事物は、判例が、差押対象を限定する効果があるとしていたと記憶しております。ちなみに、例示であることは通説であるがその例事物に意味があるのかないのか争われている条文としては、憲法の「法の下の平等」などがあります。例示された物に意味があるかないかは、必ずしもはっきりしないわけです。--和栗のモンブラン 2011年2月23日 (水) 04:09 (UTC)[返信]

ShellSquidさんが「創作性に満ちていない文章やただの事実の伝達」という言葉で念頭においているのは、具体的には、専門事典の解説文ではないでしょうか。たいていの事典の一項目は比較的短い文章で、体言止めを多用していますから、表現に詩や小説のような技巧はありません。言い回しをちょっと変えることで、内容が同じでも重なっているのは事実だけなのだから著作権侵害ではない、と主張するのも、理屈として成り立つ部分はあると思います。おそらく、広い知識をもって、各種資料からこれはこう書くのが自然だ、と考えた上で書いたものなら、結果的に文章が似通っても著作権侵害にならないでしょう。しかし実際に異なる事典を引き比べたとき、言い回しが違うだけで同じ内容の文章にお目にかかることは、まずないですよね。各種資料を圧縮して短い項目にまとめる作業に、高度の専門性と平凡な創作性が発揮されるのではないか、と思います。文章の長さと文体を見て、これは著作物ではないから写していいと決めてかかるのは危険です。

事典の各項目が著作権で保護されているとしても、一般の執筆者にとってそれが厳しすぎる制限になることはありません。引用ができるからです。事典の一項目全文を引用することは専門の論文でもしばしばあり、公正な慣行と認められているようです。しかしそれは主となる文章量が大きく、引用する項目が一、二にとどまる場合です。事典から別の事典を作るという場合には、話が違ってきます。

ウィキペディアにおいて、事典からの言い回しを変えた転載が一つの項目にとどまる保証はありません。これまであった例は、たいてい複数の項目にわたるもので、削除依頼でストップをかけました。ストップさせず、ゴーサインを出したらどうなるでしょうか。ウィキペディアンの力はたいしたもので、ウェブ上で公開されている個人サイトの「××家人名事典」程度なら、一人の力で全部言い回しを変えて写せます。みんなの力をあわせれば、数万項目の事典を全部言い回しを変えて写すことだって不可能ではありません。しかし個人サイトからでも、市販の事典からでも、そういう転載は駄目だと思うのです。--Kinori 2011年2月3日 (木) 13:05 (UTC)[返信]

コメントKinori様、コメントありがとうございます。無論私は転載を容認すべきではないと考えますが、一方で、事典の文章の語句を変え、文節を並び替えればそれは剽窃を脱せられるのではないかと考えていました。錯誤に対する御指摘ありがとうございます。ただ一つだけ理解できないのが「××家人名事典」程度なら、一人の力で全部言い回しを変えて写せる、という意見です。自分の国語力があまりにも稚拙すぎるのが原因なのでしょうか。例えば大高重成などはワンソースですが言い回しは無論のこと文節の組み合わせにもかなり気を使った方ですがこれでもアウトとされると最早私は一文字も書けなくなってしまいます。そして、何回も言いましたが信頼できる二次史料は高価であることが多く、頻繁に図書館に行ってコピーできるほど時間に余裕があるわけでもない故、複数の信頼できる二次史料を確保するのが、経済的に、時間的に厳しいのです。詭弁に聞こえるかもしれませんが、私のような人はウィキペディアを編集してはいけないのでしょうか。とりあえず剽窃とされた案件については後始末をしたいと思います。--ShellSquid/履歴 2011年2月3日 (木) 13:50 (UTC)[返信]
コメント既に話題済ですが、いくつか。「創作性に満ちていない文章やただの事実の伝達」は、例えは住所録や電話帳や製品一覧表がありますが、個々の情報(住所など)は著作物ではなくても、それを整理整頓してまとめたものは著作物とみなされる可能性があると思います。また、世間の「盗作」騒動の大半は、かなり表現や順序を変えたものも含まれていますリンク先の表を参照。以下は繰り返しですが、(1)日本の裁判所で実際に著作権違反とされるかどうか(過去の判例、将来の推測)と、(2)日本の著作権法の条文解釈と、(3)ウィキペディアの求めているオープンコンテントのレベル、は異なります。例えばWikipedia:原典のコピーはしないでは、「自分で新たに書き起こした、自らが著作権を保有する文章表現を持ち寄るのが、ウィキペディアの原則」とされ、著作権保護が期限切れになった作品(= 財産権である著作権の違反とはならない作品)でもNGとされていますね(著作者人格権はある訳ですが)。--Rabit gti 2011年2月3日 (木) 14:48 (UTC)[返信]
コメントひとつの情報源から、そこに書かれているものと同程度の分量のものを書くのは、基本的に避けましょう。国語力が稚拙だからではなく、方法論として稚拙と言うべきというか。
時間は、あせることはありません。ぼくが記事を書いたときも、あとで書くと言ってから何ヶ月も経って加筆してるし、ウィキペディアに参加する前から集めていたものを思えば、何年もかけて資料を探していました。経済的なところでいえば、新書だって二次資料で、じゅうぶん使えるものです。古本をうまく探せば、一冊100円200円で見つかるものもある。図書館で借り出した本の、必要な部分を複写しておけば、数十円、数百円で、記事に使うことができる。ciniiやjournal archiveでは、無料で、オンラインで読める論文も探すことが出来ます。たとえば、河村 昭一「南北朝室町期の若狭守護と国衙」兵庫教育大学研究紀要. 第2分冊, 言語系教育・社会系教育・芸術系教育 12, 13-28, 1992 [3]は執筆に使えそうです。三浦 孝太郎「大高重成論--高一族沿革考証のうち」東海史学 (12), p61-81, 1977 は無料では読めないですが、これくらいのページ数の論文なら国会図書館で郵送複写申請をしても数百円で足ります。近代デジタルライブラリで「若狭 守護」で検索したら、福井県編『福井県史』第1−3冊,第4冊(附図),福井県, 大正9−11 というのも出てきました。これも無料で読めますよ。--Ks aka 98 2011年2月3日 (木) 18:05 (UTC)[返信]
(インデント戻します)今更ながら気付いたのですが、私が「過保護すぎる」やら「文豪レベルの文才」やら、個人的な不満や憤怒から不適切な表現を用いてしまったために話が変な風にこじれてしまったり、誤解を与えてしまったようです。議論に参加した皆様を疲弊させてしまってすみません。用は、記事を執筆して行く上で、避けては通れない「著作権との折り合い」をどうやってつけていったらいいのかむずかしい、というのが趣旨なのです。皆様のコメントは、大変参考になりましたが、経験者のコメントを、もう少し頂ければ、幸いであります。--ShellSquid/履歴 2011年2月4日 (金) 01:45 (UTC)[返信]