Wikipedia:井戸端/subj/翻訳記事の品質と抄訳・翻案について

翻訳記事の品質と抄訳・翻案について[編集]

お世話になっております。利用者:Breakoverと申します。先日、ひさびさに日本語版Wikipediaにおける記事執筆、編集作業を再開したのですが、その後に新規立項した自己執筆記事(政治的リベラリズム政治学方法論)および翻訳記事(Linuxへの批判)を「新しい記事」に選んでいただき、大変嬉しく思いつつ、記事執筆等、進めさせていただいております。

さて、冒頭の件についてですが、主に翻訳記事についてその品質と抄訳・翻案についてどうすべきかについて皆様のご意見を伺いたく、こちらに投稿させていただきます。恥ずかしながら、拙い語学力であまり品質の高くない翻訳記事を多数作ってしまい、利用者‐会話:Breakoverにおいて、その点の改善を促された次第で反省しているところであります。そこで、今後執筆の記事ではその点について意識することを決意するとともに、鋭意修正作業にとりかかったのですが、(1)どこまで原文に厳密な訳文にすべきか、という点と(2)原文に厳密に対応しない翻案記事の作成の是非について、疑問が生じました。

まず、(1)に関しましては、日本語として自然な言い回しと、原文への厳密な対応はどうしてもトレードオフの関係にあり、両方を立てることが難しい状況があるのが事実です。これはWikipediaという場に特有の問題ではありませんが、この両者の間で適切なバランスを取ることはなかなか難しく、どういった方針をとれば良いのか悩みどころであります。また、(2)に関しては、原文の品質や内容によっては、抄訳や翻案も選択肢になる(Wikipedia:翻訳のガイドラインでも、「[ 一部訳、などは必要か? ] 思い切ってその部分を省略するというテクニックもありますが、しかし、あまりにそうした部分が多くなると、記事が曖昧になることもあるでしょう」と述べられている)かと思うのですが、元言語の版を明記して、履歴継承的な問題をクリアするのはもちろんとしても、こういった選択は適切と言えるのか、またどういった場合にこれを用いるべきか等、悩ましく思っております。

以上の2点につきまして、広くご意見いただけますと幸いです。Wikipedia:執筆・翻訳者の広場ではなく、こちらに投稿させていただいたのも、翻訳にコミットしている方のみならず、様々な方からのご意見を参考にしたいとおもった次第であります。どうぞよろしくお願いします。--Breakover会話2019年12月3日 (火) 22:54 (UTC)[返信]

コメント 1について。「情報」は翻訳元からできる限り取得すべきですが、その「表現」は翻訳者が考えなければならないものです。つまり日本語としての自然さのためなら、原文の表現を破壊し再構築すべきです。とくに無生物主語など日本語にない表現は根本から文章を変更しないと自然な文章になりません。結果として厳密さを欠くように感じるなら、原文にない文章を追加して補足するのです。2について。必要な情報を含む原文だけ一部翻訳しその後自分で加筆していってもいいですし、部分訳と加筆を同時にしてもかまいません。「原文に厳密に対応しない翻案記事」はなんの問題もありません。繰り返しますが、ウィキペディアの翻訳で重要なのは原文に含まれる「情報」であり、その表現ではありません。文学を訳しているのではないのですから。--Afaz会話2019年12月5日 (木) 23:42 (UTC)[返信]
ざっくりと一部しか訳さない部分訳だけで新規に記事をつくるのは要約欄に「抄訳」とか「一部訳出」とか書けばよく、それでとくに問題ありませんが、そういった記事を大量に作成するのはスタブの濫造といって嫌悪する利用者が多いのも事実です。これについてはバランスをとっていくしかありません。訳出する量を増やすとかあとで加筆する姿勢を見せるとか。--Afaz会話2019年12月6日 (金) 01:35 (UTC)[返信]
コメント 記事の「品質」は、翻訳であるかどうかに関係なく、適切な情報源に基づいて、バランス良く、わかりやすく書かれているかが問われます。翻訳元の英語版に忠実に日本語化したところで、情報源を欠いていたり不正確だったりバランスを欠いていたり読んで意味がわからなければ、品質は低いとみなされるでしょう。Wikipedia内での「翻訳」活動には難しいところがありますね。Afazさんもおっしゃっている通り、文学作品を翻訳するわけではないので、原文に忠実に日本語化する必要はありませんし、時にはそうしないべきです。
わかりやすくするためになにか補おうとすると、翻訳者が自力で新たな出典を示す必要が生じますね。世の中一般に市販されている翻訳書はたいてい、そういったものとして、「訳者注」などがあります。が、Wikipediaでは出典を示さずに「訳者注」をつけると、それはそれで独自研究ということになってしまいます。
私自身もいくつか翻訳をやりました。その中で、どうもよくわからない、変だと感じることはしょっちゅうあります。なので、出来得る限り、翻訳前の英語版で使用されている出典は自分で検証します。ネットでアクセスできるものは必ず。Amazonでポチれるものはほとんど。で、私の実感としては、実際に出典と照合してみると、英語版そのものに問題があるということがヒジョーーーに多い。まるまるコピペだったり、出典と違うことが書いてあったり、文脈を損ねていたり。「A is B, B is C, C is D, D is E.[1]」の情報源を検証したら「C is D」しか書いていない、とかすごい多いですね。なので、こうなると自力で新たに出典探しをすることになります。日本語情報源を探すこともあれば、Amazonさんにお願いすることもあります。
そうやっていくと、たいてい、これはもう翻訳でなくて、集まった情報源をもとに自分で書き下ろしたほうが早いしバランスいいでしょ、みたいになりますね。英語版の履歴も眺めたりしますが、結局、日本語版と一緒で長い間かけて色々な執筆者が付け足したり修正したりして記事ができているわけで、1文、1単語ごとに精査するとケッコーいい加減だったりします。
まあ結局われわれは皆、どこの誰だかわからないボランティアの集合ですから、他利用者にどこまでの水準を要求するのかは決められないところがありますね。個人的には、「この記事は英語版から翻訳したものであって、英語版の出典の検証はしていないので、見かけ上の出典はあっても、記事の信頼性・正確性は保証しませんよ」みたいなテンプレートがあってもいいのに、ぐらいは思っています。
英語版の記事が100%完全に出典によって裏付けられていて、それを出典全部を再検証したうえで日本語化し、なおかつ多数の日本語話者にとって理解しやすいものにする、というのが「翻訳」の理想像でしょう。が、それはなかなか困難ですね。--柒月例祭会話2019年12月6日 (金) 02:53 (UTC)[返信]
返信 Breakoverです。まず、コメントを寄せてくださったお二人に感謝の意を表させていただきます。非常に具体的なレベルでのコメントをいただき、参考になりました。まず、今までの自分の翻訳姿勢には「粗製濫造」と言われても仕方がないような側面があったのは事実だと思いますので、その点は反省し、その上で抄訳などの方法論を適切に用いた上で今後の翻訳活動を進めてまいりたいと思います。現実的な問題として、どうしてもWikipediaでの記事翻訳に割けるリソースは(私個人として、能力的なものも時間的なものも)限られていますので、そういった意味で記事品質の問題にぶつかるのは避けられないのですが、最低限、記事として確保すべき品質をとりあえずでも満たしているものを出していくことを意識して進めていきたいと考えております。出典に関しては、幸いにして私が翻訳している領域(ソフトウェア関連など)では、ウェブサイトが挙がっていることが多いので、その信頼性や内容を自分で確認することも可能です。できる限りでこの辺もチェックして進めていけたらと考えておりますので、その辺の問題も含め、今後共なにかありましたらご指導等、よろしくお願いいたします。--Breakover会話2019年12月6日 (金) 09:43 (UTC)[返信]
コメント 蛇足ながら。私は翻訳苦手で 「(1)原文に忠実な翻訳」と「(2)日本語として意味が通りやすい翻訳(意訳)」のバランスは毎回悩みますが、一律な答えは無いかと思います。日本語として明らかに不自然なものは直すべきですが、意訳になるほど翻訳者の解釈が入り、実は正反対の意味になったり、認識誘導やステレオタイプに陥るリスクも増えて、良し悪し(トレードオフ)と思います。一般論では記事中でも、冒頭(定義文)や概要は理解優先で (2)、詳細や引用は正確さ優先で (1) が親切かと思います。特に冒頭文で、英語等は補足説明が文の後半に来ますが、日本語では文頭に来るので、一目で判るよう文を分けたりしてますが、どこで切るかも悩みます(意味が変わりうるので)。しかし忠実な訳の方が結局正確に思える時もあるし、その判断は編集者次第なので、わざわざ使い分けても一律に直されてしまう事もお互い様です。また例えば夕刊紙などでトランプ大統領の発言の I, you などを「オレは、あんたらは」と訳すのは、偏見なのか、前後の表現を踏まえれば妥当なのか。例えば歴史上の人物の発言中の慣用句やことわざを、日本で相当する別の慣用句やことわざに置き換えてしまうのは、親切なのかやりすぎなのか。これらは記事や記述内容にもよるかもしれない。そもそも演説などで、どの語が重要か(口頭なら強く話す語はどれか)は知らないと判らない。そして既に書かれている通り、翻訳元記事が正確とは限らないので、できればその出典を観る、でも出典自体が非中立的な場合は、出典を忠実に訳すのではなく、出典から事実を抽出するが、これまた下手すると恣意的になる)。これらは(共同)翻訳の永遠の課題なので、考慮はすべきですが、想定読者層も幅があるので、余り気にしすぎても仕方無いかとも思います。--Rabit gti会話2019年12月7日 (土) 09:32 (UTC)[返信]