Wikipedia:井戸端/subj/文末が体言止め優先になったのは何故

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文末が体言止め優先になったのは何故[編集]

文末が体言止め優先になったのは何故ですか? 記事に書いてある文章は、「ですます」調ではなく「である」調が基本だと思っていたのですが、違うのですか?

 例:「アメリカの場合、1880年代頃から年間1万kmのペースで鉄道が敷設された。その後、1920年頃までに総延長は40万kmに到達した。19世紀半ばには、中近東でも比較的早い時期から鉄道の建設が開始された。」という文章を、わざわざ「アメリカの場合、1880年代頃から年間1万kmのペースで鉄道を敷設。その後、1920年頃までに総延長は40万kmに到達。19世紀半ばには、中近東でも比較的早い時期から鉄道の建設を開始。」という文章に修正する人がいるのです。

なぜそんなことをするのかという理由について、当人たちは「全体の情報量は減っていないはず」と主張しています。しかし、表とかならともかく、本文の中で体言止めを多用するのはおかしくないですか。「新聞などでも体言止めはふつうに使われている」などと反論してくるのですが、新聞で体言止めを使うのはあえて体言止めにすることで意味を強調したりする文学的な技法ですから、百科事典の本文を体言止めに変える必要がわからないのですが。「Wikipedia:表記ガイド」には「百科事典本体の記事については、常体(……である、……だ)で統一します。」と書いてありますので、少なくとも「ですます」調が禁止されているのはたしかです。ですが、「常体」の場合「である」調を想定していると思うのですけど、「体言止めを控えるように」と明確に書かれているわけではないので、ルール違反ではないといわんばかりです。--以上の署名の無いコメントは、 114.48.24.157会話)さんが 2012年7月15日 (日) 10:23‎ (UTC) に投稿したものです。[返信]

正直言うと、体言止めでも構わないと思います。ただし、体言止めにしなくても良いとも思います。つまり、どっちでも良いと思いますし、だからこそ、わざわざ規定されていない。
そんなこんなながら、今回の体言止めに限らず、どうでも良いものを機械的に一方的にそろえることを編集目的とし、さも貢献した気になっているというのは昔から一定数いてトラブルの種になっているので、その辺りに関するガイドラインか私論の類はあったほうがいいなあと思ってます。--EULE会話) 2012年7月15日 (日) 11:02 (UTC)[返信]
日本語で書かれた百科事典において、本文の全部(もしくは大半)が体言止めで書かれている書籍など、見たことも聞いたこともないのですが。それでも「体言止めでも構わない」「どっちでも良い」と主張なされるおつもりか。どっちでもいいと思ってる間に、どんどんウィキペディアの記事が体言止めに書き換えられてもいいのですか? (というか本文の大半が体言止めの記事なんて、ウィキペディア日本語版で異質にもほどがあるでしょ・・・一覧記事とかはなしですよ、あれはいわゆるガチの本文じゃないので)--以上の署名の無いコメントは、111.191.238.150会話)さんが 2012年7月15日 (日) 16:46‎ (UTC) に投稿したものです。[返信]
既に述べているように「規制されてない」という理由もあって機械的に一方的に無意味な編集がされている現状については、私はいいことだと思ってない。そもそも情報量が変わらないと言ってるなら、それは裏を返せば無意味な編集をしているという自覚があるってことだしね。ただ、それは今回の体言止めに限らない話であって、和暦テンプレートやら、定義文/概要やら、マークアップの半角スペース除去やら、挙げ出したらキリがなく、対策を打つなら、もっと広範的な内容のものですべきだと考えている。
一方で、あなたが、すべからく「である調」に統一すべしと思うことについては、私としては特に興味がない。何度でも言うが、どっちでも良いと思ってる。もし、機械的に「である調」に直すことがあれば、それは機械的に「体言止め」に直すのと同等の害悪だとすら思う。
もし、あなたが今回の件に限らず辞書は「である調」でなければ駄目だ、と訴えるならば、スタイルマニュアルや表記ガイドでそういう提議を起こし、ルール化するしかない。ただ、その提案が可決する可能性は極めて低いと私は予想する。--EULE会話) 2012年7月15日 (日) 22:37 (UTC)[返信]
自分は「記事に書いてある文章は、「ですます」調ではなく「である」調が基本だと思っていた」だけでして、「すべからく「である調」に統一すべし」とは全く思っていません。まず、定義部分についてはここでは扱っていませんので、これは除外して下し。また、「機械的に一方的に無意味な編集がされている現状については、私はいいことだと思ってない」とのご意見は、わが意を得たりとの思いです。今後も「機械的に「である調」に直す」つもりは全くありません。--以上の署名の無いコメントは、111.188.46.161会話)さんが 2012年7月16日 (月) 10:11 (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。[返信]
(追伸)体言止めに関しては定義文中に関するものについて過去にも井戸端/subj/定義文の体言止め井戸端/subj/記事の導入部に「~とは~である。」に統一すべきか否かなどの議論があります。参考に。ちなみに全部体言止めにするような編集があったら、私は問答無用で差し戻しすると思います。ただ、それは辞書は「である調」の方が相応しいという理由ではなく、可読性を損なうとします(全部、体言止めの文章なんて読みにくいからね)。--EULE会話) 2012年7月15日 (日) 22:50 (UTC)[返信]
情報ありがとうございます。定義文については、過去に議論されたことがあるんですね。さて、ここで議論しているのは定義文以外についてですが(ガチで本文にあたるところのことです)が、本文については議論している形跡があまりないようですね。ただ「ちなみに全部体言止めにするような編集があったら、私は問答無用で差し戻しする」「可読性を損なうとします(全部、体言止めの文章なんて読みにくいからね)」を読み、非常に心強く感じました。今後、記事の本文を一律で体言止めに置換する人が出現した場合、(定義部分ではなく、ガチの本文です)、その場合はぜひご協力をお願いいたします。(もし片っ端から書き換えるような人だったら、ちょっとコメント依頼とかがひつようかもしれませんし。--以上の署名の無いコメントは、111.188.46.161会話)さんが 2012年7月16日 (月) 10:11 (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。[返信]
まず、もぐら叩きの人手が欲しいという意味なら、協力する気はないです。私は自分の興味のある範囲外にまで恒常的に網を張れるほど時間はありませんし、範囲内であっても、そもそも差し戻ししてやりたい編集なんて、体言止めに限らずいくらでもあります。「何でわざわざくどくわかりにくくするんだよ!!」なんて日常茶飯事です。あくまで自分の目についた範囲で、さすがにこれは許容できない、編集意図がさっぱりわからない、と思ったことのみリバートをかけるだけで、それだって、相手が抗議してくれば対話に応じる前提でやってます(問答無用とは事前連絡しないという意味でしかない)。読み難いだって結局のところ、主観であって、定義されていない以上は一律でどうこうするのは難しい。
次に、コメント依頼についてですが、無意味な編集を繰り返している人をコメント依頼にかけたことがありますが、タイミングが悪かったのか、自分のやり方が悪かったのか、特に何のアクションもなく終わってしまいました。そういう例は他にもあって、つまりは、現状のウィキペディアにおいて無意味な編集を目的として活動することは、殊更には問題視されていないってことです。もっとも、目的外利用で問題視された例もなくはないので、五分五分ということで。コメント依頼を出すなとは言いませんが、思い通りにいかなかった場合、お墨付きを与え相手を助長させる藪蛇になる可能性もあるということを十分に念頭に置いてください。
もし、あなたがこの問題を本当に解決したいと考えているのであれば、これは少し長期的な準備が必要となります。グレーゾーンという現状において安直な行動はかえって問題を酷くするだけです。--EULE会話) 2012年7月16日 (月) 22:43 (UTC)[返信]
「ですます」調/「である」調の別は体言止めとは話が違うような気がしますが…。ともあれ「文末が体言止め優先」になってはいないはずで、その人たちが各自の判断で直しているだけだと思います。こういうのは推敲の話で、「情報量が減らない」「新聞で使われている」というのは理由になりません。読みやすさや文章の調子、与える印象などを考慮して検討すべきです。確かにルール違反ではないといえばないのですが、正統性があるというわけでもありません。
そしてウィキペディアにも「体言止め」の解説はありますが、ちょっとネットを検索してみたところ、どうも余韻・余情を出したり、強調したりといった文学的表現技法のようですので、百科事典で使うのは避けたほうがいいでしょう。普通の文章でもできるだけ使わない方がいいとされているようです。なお、新聞では文字数の制限から、文章をできるだけ短くしているのだと思います。--Calvero会話) 2012年7月15日 (日) 11:05 (UTC)[返信]
わかりにくかったようなんで。
  1. 「アメリカの場合、1880年代頃から年間1万kmのペースで鉄道が敷設されました。その後、1920年頃までに総延長は40万kmに到達しました。19世紀半ばには、中近東でも比較的早い時期から鉄道の建設が開始されました。」
  2. 「アメリカの場合、1880年代頃から年間1万kmのペースで鉄道が敷設された。その後、1920年頃までに総延長は40万kmに到達した。19世紀半ばには、中近東でも比較的早い時期から鉄道の建設が開始された。」
  3. 「アメリカの場合、1880年代頃から年間1万kmのペースで鉄道を敷設。その後、1920年頃までに総延長は40万kmに到達。19世紀半ばには、中近東でも比較的早い時期から鉄道の建設を開始。」
1は「ですます」調、2は「である」調、3が体言止めです。1は禁止されており、常識で考えれば本文の表記は2のはずです。が、わざわざこれを3に書き直す人がいるのです。たしかに1であろうが2であろうが3であろうが、情報量には変わりないでしょう。しかし、1は百科事典にはふさわしくない(幼児用ならいいかもしれないけれど)し、3もふさわしくはないでしょう。文学作品じゃないのに、なぜ体言止めなど多用するのか。まして全文体言止めの百科事典など地球上に存在しますか? わざわざ2を3に書き換える意図がわからないのです。「余韻・余情を出したり、強調したりといった文学的表現技法のようです」というのは、まさにいうとおりだと思います。「国語の授業で体言止めを習いたての小学生が、体言止めの練習のために全文体言止めに書き換えるなどと宿題感覚でやってるんじゃなかろうな?」と思ったらまさかの成人だし。いったいどうなってるんでしょうか・・・。日本の百科事典で本文の全文(もしくは、大半でもいいですよ)が、体言止めで埋め尽くされてるものなんてありますか? そりゃぁ冒頭の文章とか定義の部分ならわかりますけど、ガチの本文を全部体言止めにわざわざ手間隙かけて書き直して、その理由が「情報量が減らない」からっていうのはどういうことなのか。その労力をほかに使ってくださいよと
というか、なぜあえて一般的な百科事典とは明らかにかけ離れた文体に、わざわざ労力をかけて書き直すというのですか! サーバの資源が逼迫してるとか、なんか意地でもページの容量を減らさないといけないと、そういう技術的な理由なんでしょうか? まさか単に「自分のPCだと記事の読み込みが遅いから、体言止めにして1ページあたりの容量を減らしちゃおう!」などとお考えなのでしょうか?「「文末が体言止め優先」になってはいないはず」とのことなので、そうしますと、そういう方針もないにもかかわらずわざわざ書き換えてるってことですよね。何が目的なんだろう--以上の署名の無いコメントは、111.191.238.150会話)さんが 2012年7月15日 (日) 16:46‎ (UTC) に投稿したものです。[返信]
いやいやわかりますよ。ともかく、私も体言止めはあまり使わないほうがいいと思います。もちろん、禁止するほどではなく、場合にもよりますが。なぜ使うのかは、本人に聞いてみないとわからないのではないでしょうか?--Calvero会話) 2012年7月16日 (月) 03:14 (UTC)[返信]
すでにご理解なさっているのにくどくど説明してしまってすみません。「なぜ使うのかは、本人に聞いてみないとわからないのでは」とのこと、了解しました。少し聞いてみます。質問するのはけっこう緊張しますが、とりあえずその記事のノートで聞いてみます。--以上の署名の無いコメントは、111.188.46.161会話)さんが 2012年7月16日 (月) 09:22 (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。[返信]

コメント 普通の百科事典だと、それなりに体言止めも混じるのが普通であり(文末の2~4割程度?)、「体言止めで統一」も「体言止め禁止」も異常だと感じます。文脈とか、前後の文章とのつながり、同じ表現の反復の程度などから適宜用いるのが妥当でしょう。--氷鷺会話) 2012年7月15日 (日) 20:20 (UTC)[返信]

ちょっとまってください、「文末の4割程度」というとかなりの量ですよ!?(だってほぼ半分ですよ)。それは定義部じゃなくて、ガチの解説文の部分が体言止めだらけということですよね。ちょっと書名を教えていただいてよろしいですか。私が国文学部にいたころはデータマイニングの演習の一環として百科事典やノンフィクション雑誌などの文体の解析をしたのですが、そのときの結果とかなりかけ離れた数値ですので、参考までに教えてください(当時に比べると最近の百科事典はかわってきているんでしょうかね)。--以上の署名の無いコメントは、111.188.46.161会話)さんが 2012年7月16日 (月) 09:22 (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。[返信]
やはり感覚でものを言うのは拙いですね、お詫びして訂正いたします。世界大百科事典(1972, 2007)、日本大百科全書(1984)、ブリタニカ国際大百科事典(1972)を見る限り、定義文では体言止めが多いものの、第二文以降では1割もなさそうです。まぁ要は日本語として読みやすければ良いので、「体言止め云々」という大雑把な理論には賛同しかねますが。--氷鷺会話) 2012年7月16日 (月) 14:19 (UTC)[返信]
1-3のどれもおかしいと感じますし、「「体言止めで統一」も「体言止め禁止」も異常だと感じます」という氷鷺さんの意見に賛同します。--Himetv 2012年7月16日 (月) 14:49 (UTC)[返信]
コメントEULEさんの2012年7月15日 (日) 11:02 (UTC)のコメントに強く同意します。文体を統一しようとすること自体が問題というよりも、どちらの表現でも構わないことを無理に統一しようとしていざこざになっていることのほうがもっと大きな問題だと思います。内容の改善にはなんら寄与しない、単に表記的な事柄はそのままにしておく(最初に書いた人の流儀に従う)のが賢明です(ガイドラインなどで統一されていない限り)。ちなみに、体言止めは必要に応じて、特に導入部などでまばらに使ってます。3はちょっと不自然ですね。やりすぎだと思います。ただし、箇条書きなどの場合、体言止めで統一することが効果的な場合もあるとは思います。ちなみに、WP:PLOTSUMでは、あらすじの紹介をする際は体言止めも多くの場合は文体に勢いを持たせるために使われるもので、あらすじではまず必要ないでしょうとなっています。ちょっと用語が混乱してましたが、Wikipedia:表記ガイド#文体にあるとおり、通常の記事は「である・だ」調で、ガイドライン文書などは「です・ます」調で統一することになっています。--Bugandhoney会話) 2012年7月16日 (月) 18:58 (UTC)[返信]

(インデント戻します)

ノート:下位香代子#「全体の情報量は減っていないはずです。」と主張し、本文の記述を体言止めに書き換える行為について」という記述において、こちらの井戸端での議論に言及し、

  • 「全体の情報量は減っていないはずです。」などと主張し、記事の本文の部分を体言止めだらけに編集していく人がいます。この人物の編集の問題点について「Wikipedia:井戸端/subj/文末が体言止め優先になったのは何故」にて議論しています。興味あるかたはぜひ」

という書き込みがIP氏によって書かれました。「この人物」が山田であることは、元のページでクリックすればすぐに分かることです。

山田は、現時点まで、こちらの井戸端における議論が自分の編集の問題点について議論しているものであるという認識はまったくありませんでした。念のためですが、IP氏が問題視していらっしゃる山田の編集は、こちらにあります。また、山田が圧縮した記述は、事実上差し戻されており、この記事「下位香代子」の現状は.個人的には冗長に過ぎる文体となっていますが、追加的な編集はここまではいっさい行なっていません。確認していただければ明らかなように、山田は記述を一律に体現止めとするような編集はしていません。「研究」節の記述には、内容の重複の削除以外はほとんど手をつけていません。山田の編集は、経歴を冗長に書き、むしろ見通しを悪くしていると考えた箇所を、整理したものです。「来歴」節の下に「生い立ち」「研究者として」といった小節が立てられながら、内容には本来の意味での生い立ちにかかわる記述はなく、単に経歴が書かれているだけでしたので、「来歴」にまとめ記述を圧縮しました。

もし、こちらでの議論に参加されている皆さんが、IP氏と問題意識を共有されておいでなのであれば、以上の議論のどの部分が山田の編集の問題についての議論であるのかをご教示ください。正直なところ、ここまでに提起されている論点の何が自分の編集の問題点についての議論なのかまったく呑み込めておりません。よろしくお願いいたします。--山田晴通会話) 2012年7月17日 (火) 11:12 (UTC)[返信]

(山田さんへ)差分を確認しました。文末を体言止めへ変更したものもありますが、体言止めへの変更だけを意図したものではなく、仰るとおり、冗長な表現を改善することを意図した、通常の推敲であることは一見して見て取れました。ちなみに、山田さんの推敲後の文章のほうが読みやすかったです。
(IPユーザーの方へ)例に挙げられている、アメリカの場合、1880年代頃から年間1万kmのペースで鉄道が敷設された。その後、1920年頃までに総延長は40万kmに到達した。という文は鉄道の歴史で見つけることができましたが、IPユーザーの方が問題視している体言止めへの変更、ならびに全体の情報量は減っていないはずですという主張は履歴やノートでは確認できませんでした。IPユーザーの方が問題視している編集を差分として示せますでしょうか。--Bugandhoney会話) 2012年7月17日 (火) 13:49 (UTC)[返信]
ここでは全般的な議論しているのであって、個別具体的な記事の文面について議論しているのではありませんよ。「例」と書いてあるのがおわかりになりませんか? 体言止め、「である」調、「ですます」調の文体について、わかりやすく比較していただくため、たとえとして例文を記載いたしたのですが。「例」という単語の意味は、おわかりになりますか? (だいたい、もし仮にある記事の中に「アメリカの場合、1880年代頃から…」という文章が存在し、その文章の文体についてだけ議論したいのであれば、それはその記事のノートでやるべきはなしですよね。何故井戸端にて議論をしているのか考えれば、単なる例文だということがおのずとわかると思うのですが)
山田氏が挙げている記事について。差分を見せていただきました。編集前後で語尾が「である」調から体言止めに書き換えられているのは紛れもない事実であり、かつ、山田氏の編集した「来歴」セクションは、わずか1箇所にのみ用言止めを残し、ほかの文章は残らず全て一律に体言止めで統一されているように見受けられます。
山田氏は「記述を一律に体現止めとするような編集はしていません」と主張していますが、実際には一律体言止めにしているのは明らかですよね。差分を見れば一目瞭然なのですから、虚偽の発言をなさるのはおやめになったほうがよいでしょう。「文末を体言止めに統一すること自体が目的なのではなく、冗長すぎる部分を整理することを目的に編集しました。結果として、文体が体言止めになりましたが、それ自体を目的としているのではありません。」と主張なさるなら、誰もがみなおおいに納得することだと思いますが・・・。体言止めに書き換えたこと自体を否定するのは無茶でしょう。
山田氏の挙げている記事について(これは記事の本文に該当する記述です)
No 山田氏の編集前 山田氏の編集後
1 「1976年、奈良女子大学を卒業し、理学士の称号を取得した。【中略】奈良女子大学大学院の人間文化研究科より、学術博士の学位を取得した。」 「1976年3月、奈良女子大学理学部化学科卒業、理学士。【中略】奈良女子大学より学術博士を取得。」
2 「1979年、国立遺伝学研究所に採用され、補助研究員として勤務した。1983年には静岡薬科大学に転じ、薬学部の助手を務めた。【中略】1991年、静岡県立大学の薬学部から食品栄養科学部に異動し、そちらでも助手を務めた。1997年、静岡県立大学の食品栄養科学部にて、講師に昇任した。2001年、静岡県立大学の食品栄養科学部から環境科学研究所に異動するとともに、助教授に昇任した。」 「1979年4月、国立遺伝学研究所補助研究員。1983年4月、静岡薬科大学薬学部助手。【中略】1991年10月、静岡県立大学食品栄養科学部助手。1997年4月、静岡県立大学の食品栄養科学部講師。2001年4月、静岡県立大学環境科学研究所助教授。」
3 「現在は、静岡県立大学の環境科学研究所にて、生体機能学研究室を担当する教授として勤務している。また、静岡県立大学の大学院にて、生活健康科学研究科の環境物質科学専攻の教授も同時に務めている。」 「2005年4月、教授、生体機能学研究室を担当。大学院生活健康科学研究科環境物質科学専攻教授。」
出典 2012年5月27日 (日) 18:41 2012年7月9日 (月) 18:38
あと、素朴な疑問なんですが、山田氏の編集前後で何か新たに追加された情報というのは存在しないのでしょうか(「著作」として一つ追加されたようにお見受けしますが……ただこれ「単著」となってますが書籍ではなく論文のように見えますけど)。たとえば、文体を変更するためだけに版を重ねるのは、意味がないような気がするんですけど。何かを追加で編集するときにあわせて文体も体言止めにする。というならわかりますが、結果として文体の書き換えしかしていないような編集版を発生させるのは、あまり意味がないような気がします(もちろん一律体言止めにするというのは勘弁してほしいのですが)。
なお、当たり前の話ですが、ここは井戸端ですので、山田氏の編集のみに特化した議論をする場ではありません。もし山田氏の編集についてのみ議論したいのであれば、その記事のノートでやるべき話だと思います。——以上の署名の無いコメントは、111.191.133.95(ノート履歴)さんによるものです。--Bugandhoney会話) 2012年7月17日 (火) 23:45 (UTC)[返信]
いや、差分を示してもらえないと、体言止めにするだけの編集という問題が実在しているのかどうか、つまり、こういう問題を論じること自体に意味があるのかどうか、他の編集者には判断が付かないのですよ。山田氏が挙げている記事について。差分を見せていただきましたという表現から判断すると、このトピックを書き始めたときに念頭にあったのは山田さんによる編集ではなく、他に体言止めに変更するだけの編集を行う編集者がいたということですよね?すでに、書きましたが、私の見る限り、山田さんの編集は文体を体言止めに変更することを意図したものではなくて(結果的にそうなったというだけでしょう)、冗長な表現を簡潔にするための通常の推敲であって、特に問題は感じられないです。というか、私には山田さんによる推敲後の文章のほうが読みやすいです。ウィキペディアにはこのような必ずしも情報を付加しない編集も必要です(Wikipedia:雑草取りなどを参照)。編集画面の上のほうのアイコンをクリックするか、全部半角で--~~~~と入力すると自動的に署名が入ります。--Bugandhoney会話) 2012年7月17日 (火) 23:45 (UTC)[返信]
わかりやすくする効果がある反面、略しすぎて不正確になってしまうのは本末転倒です。たとえば、山田氏の編集No.3についてです。一文目はただ「2005年4月、教授、生体機能学研究室を担当。」とだけ書かれていますが、この前の文章に「2001年4月、静岡県立大学環境科学研究所助教授。」との記述があるので、同じ部署の「2005年4月にその研究所で教授になり、生体機能学研究室を担当している」ことが容易に類推されます。そこは問題ないでしょう。
しかし二文目、これはいけませんね。「大学院生活健康科学研究科環境物質科学専攻教授。」とだけ書かれています。これしか書いてありませんが、この前の前の文章に「2001年4月、静岡県立大学環境科学研究所助教授。」との記述があるので、同じ大学の「大学院生活健康科学研究科環境物質科学専攻に転属し、そこで教授をしている」ことが容易に類推されるわけですが……山田氏の編集前の文章を確認したところ、前の部署にそのまま所属し続けながら「大学院にて、生活健康科学研究科の環境物質科学専攻の教授も同時に務めている」とのことです。どうも複数部署の教授を兼任しているようですが、山田氏の編集によって「同時に務めている」との記述は削除され、あたかも「大学院生活健康科学研究科環境物質科学専攻教授。」だけ務めているように表現されてしまいました。これは明らかに虚偽の編集であり、略しすぎてしまったことによる弊害といえるでしょう。山田氏の編集後の文章を読んで、兼任と読み取れた人はどれだけいるでしょうか。限度も知らずに略した結果がこの顛末ですが、山田氏はそれでも「見通しを悪くしていると考えた箇所を、整理したもの」と叫ぶのでしょうか。略しすぎも度を越すと何のメリットもなくその存在そのものが害悪であることがよくわかる好例といえるでしょう。「大学院生活健康科学研究科環境物質科学専攻教授。」ではなく、その後ろに一言「兼任。」「兼務。」「も兼ねる。」などとつければよかったものを。--以上の署名の無いコメントは、114.48.3.64会話)さんが 2012年7月19日 (木) 12:21 (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。[返信]
まず、署名を入れていただけますよう、お願い申し上げます。後から補充もできますが、署名がないとどなたがいつされた発言なのか、確認に手間がかかりますので是非ご協力ください。
さて、「「大学院生活健康科学研究科環境物質科学専攻教授。」とだけ書かれています」というご指摘の部分について、「明らかに虚偽の編集」という強いお言葉をあえてお使いである事も含め、今後の反省材料としたいと思います。弁解めいて聞こえるのではないかとも危惧しますが、この人物については、存命人物であり、定義部において「静岡県立大学大学院生活健康科学研究科教授・環境科学研究所教授。」と明確に記述されており、前者のみに就任し、後者は退任したという誤解は生じないものと考えておりました。ちなみに「その後ろに一言「兼任。」「兼務。」「も兼ねる。」などとつければよかった」と述べておいでですが、これらの表現は、最終的には各大学の規定にまで遡らなければ使い分けを確認できない性格のものです。この事例では、典拠にある「兼務」を使うのは、典拠があり正しいですが、これを「兼任」とするのは誤解を招く可能性があります(大学にもよるかもしれませんが、「兼任」は複数の大学に同時の所属する形をとる場合に用いられることがよくあります(例えば、こちらの例をご参照ください。)。--山田晴通会話) 2012年7月19日 (木) 14:08 (UTC)[返信]
山田氏より「定義部において「静岡県立大学大学院生活健康科学研究科教授・環境科学研究所教授。」と明確に記述されており、前者のみに就任し、後者は退任したという誤解は生じないものと考えておりました」とのご回答をいただきました。山田氏があえてNo.3の二文目をこのような表現にとどめた編集意図について理解できました。しかしながら、後から別の編集者が見たとき定義部とNo.3の二文目との記述に差異があって困惑する、あるいは定義部のほうが間違いだと思って「環境科学研究所教授」のほうを消してしまう可能性もあります。少なくとも、本文を読めばあたかも「大学院生活健康科学研究科環境物質科学専攻教授。」だけ務めているような表現ですし、何でもかんでもざくざく消すのではなく、残すべきところは残していただきたく、その点留意願いたく思うのです。「典拠にある「兼務」を使うのは、典拠があり正しいですが、これを「兼任」とするのは誤解を招く可能性があります」とのご指摘、ありがたいです。教鞭を執られている方からの適切なご指摘、感謝します。出典元の確認など、正確な表現に留意する必要がありそうですね。もし不明確な場合は編集前のように「同時に務めている」とぼやかして書くのも手かもしれませんが、編集前のこの文章では兼務か兼任か本務か区別できませんし、より適切な単語をつかうのが望ましそうですね。山田氏からの真摯な回答に感謝します。署名--114.48.71.237 2012年7月21日 (土) 09:49 (UTC)[返信]
(IPユーザーの方へ)その場合は、「兼任。」「兼務。」「も兼ねる。」などとあなた自身がつけてください。井戸端でその編集を行った編集者を糾弾するのではなく。WP:MCFには問題点を見つけたら、今まで記事に加筆してきた人を批判するのではなく、それを直せばよいとあります。不注意や意図しない間違いはウィキペディアではありなのであって(WP:AGFを参照)、山田さんによる編集はなんら問題がないです。むしろ、山田さんによる編集を「常に要約欄に記入する」やH:RVに反して要約欄やノートで説明せずに差し戻すことや、書き間違いを「虚偽」などという強い言葉で非難することのほうがウィキペディアのノームから逸脱しています(WP:CIVILを参照)。一見して意味のない不適切な編集のように見えても、記事を改善しようという意図の下に行われていると仮定して対処してください。編集の意図が分からない場合は、記事のノートでそれを尋ねたり、要約欄で理由を説明した上で差し戻したりしてください。この井戸端の議論は生産的でないです。--Bugandhoney会話) 2012年7月19日 (木) 14:24 (UTC)[返信]
Bugandhoney氏が「差分を示してもらえないと、体言止めにするだけの編集という問題が実在しているのかどうか、つまり、こういう問題を論じること自体に意味があるのかどうか、他の編集者には判断が付かない」などとおっしゃるので、それではということで山田氏が今回提示した差分を内容が変わってしまった実例として取り上げたのですが・・・・・・。Bugandhoney氏が自ら実例を出すよう要求していたのに、いざ実例を出されると今度は批判なさるのですか? ご自分にとって都合が悪くなったからといって、急に手のひらを返す態度にやや困惑しております。署名--114.48.71.237 2012年7月21日 (土) 09:49 (UTC)[返信]
(追伸)まず、ここでは個別の記事の編集内容について討議する場ではありません。しかし今回山田氏より実例として差分が提示され、Bugandhoney氏からも実例を提示する必要性があると指摘されたため、この実例の問題点を指摘したまでです。今回の実例は、山田氏の編集前と編集後で内容が変わってしまっており、しかも事実と異なる誤った内容に改竄されているという点から見て(山田氏に悪意がないのは重々承知ですがあえてこのような表現をさせていただきます)、体言止めを多用し過度に略した結果問題が生じた好例といえるでしょう。
ですので、山田氏の編集前後を比較する表を上に掲載しております。この表を見れば、出典元を確認せずとも、山田氏の編集前と編集後で内容が変わってしまっていることは、小児でも気づくことでしょう(編集前と編集後のどちらの内容が正しいのかは、出典元を確認する必要があります。しかし、少なくとも内容が変わってしまったことは明らかでしょう)。しかし、Bugandhoney氏は、差分を確認し、さらにこの表が提示された後であるにもかかわらず「特に問題は感じられない」「山田さんによる推敲後の文章のほうが読みやすい」などと主張し続けています。「読みやす」ければ、事実と異なる内容に改変しても問題ないというのでしょうか。編集前後で内容が変わってしまっているのに、「特に問題は感じられない」とはどういうことでしょうか。
編集前後で内容が変わっていることに気づいているのでしたら、それを意図的に無視して「特に問題は感じられない」と主張しているのですから議論の参加姿勢に極めて問題がありそうですね。もし、編集前後で内容が変わっていることに気づいていないのでしたら、それは日本語の能力に極めて問題がありそうですね。いずれにせよ、ご自分に都合が悪くなったから、今になって急に実例を挙げるなと主張し始めたのでしょうが・・・これにはわたしも苦笑い。署名--114.48.71.237 2012年7月21日 (土) 10:22 (UTC)[返信]
(追伸2)なお、Bugandhoney氏は「その場合は、「兼任。」「兼務。」「も兼ねる。」などとあなた自身がつけてください」などとおっしゃっています。しかし、山田氏が既にこのノートで発言なさっているように、すでに記事自体は修正されています。Bugandhoney氏は山田氏の発言をちゃんと読んでいるのでしょうか? また、ここではその記事を具体的にどう直すか議論する場ではありません(それはノートでやるべきです)。今回の編集例は実例として挙げられただけですが、他の記事でも同様なことが起きる可能性があるわけですから、実例を踏まえて全体的な議論をするのがこの場の役目だと思いますが。署名--114.48.71.237 2012年7月21日 (土) 10:22 (UTC)[返信]
意味が分かりません。IPユーザーの方が問題視している「文末を体言止め優先にする編集」とは具体的にどのような編集であるのかを確認するために差分を求めました。例に挙がった下位香代子における山田さんの編集に関しては、体言止めにすることだけを意図した編集ではなく問題はないはずだ、という山田さんの説明に、他の編集者は納得しているように見受けられます。IPユーザーの方以外は。つまり、「文末を体言止め優先にする編集」などという問題は今のところ確認できないです。存在しない問題に関して議論を続けても仕方ないと思います。山田さんの編集は別の観点から問題がある、というのであれば、記事のノートなどを利用して、どのような表現がもっとも適切であるか、話し合えばいいと思います。--Bugandhoney会話) 2012年7月23日 (月) 14:55 (UTC)[返信]

人物伝の話が出ているようですので、試しに手元の『日本数学者人名事典』現代数学社の関孝和の項を見ると、全部で9文あり、そのうち5文が体言止めでした。ざっと眺めても半分程度の文が体言止めです。時系列に沿って細かな事実を羅列するような文章では、体言止めはそれなりに有効なのではないでしょうか。「…した。…した。」の繰り返しの方がよほど稚拙に感じます。皆さんのおっしゃるように、禁止も推奨もせずに常識に任せればよいことでしょう。「体言止めはダメだ」というのは、小学校や中学校の教師が言いそうなことで、学校で一面的に学ぶことが絶対であるかのような錯覚を与える教育は何とかならんものか、と常日頃から感じています。 --白駒会話) 2012年7月19日 (木) 03:56 (UTC)[返信]

なるほど、9文しかないのであれば、体言止めもまた有効ということでしょうか(恐らく定義部分が多いと推察しますが、全体の半分以上ということは単なる定義部分だけではないと思われます)。全体通して読んだときに、読みやすい文章に遂行することが重要というわけですね。同じ文末の繰り返しが稚拙であることは小学校でも習いますし、「…した。…した。」の繰り返しは望ましくないでしょうから、より読みやすい文体に寝る必要がある、ということですね。体言止め一律禁止とルール化するより、記事の特性や定義文なのか本文なのか、その内容はどうか、前後の文章とつなげたときに読みやすいか、などいろんな要素に配慮すべき、ということでしょうか。いずれにせよ、一律体言止めにするのもおかしいし、一律体言止め禁止するというのもおかしい、ということでよいでしょうか。なお、作文の授業では「体言止めは効果的」ということを習うと思います。特に文章の「つかみ」としては有効、なんてことを習うと思いますが、それはあくまで文学的表現であって百科事典とはちょっと違う気もするんですよね。--以上の署名の無いコメントは、114.48.3.64会話)さんが 2012年7月19日 (木) 12:21 (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。[返信]
「作文の授業」云々の話は一面的に過ぎません。事典類における体言止めがあることは私や他の方が報告済みであり、それは文学的表現を狙ったものではないでしょう。「一律体言止めにするのもおかしいし、一律体言止め禁止するというのもおかしい」には同意します。皆さんそうおっしゃっています。それでこの節の議論は終わりでよいのではないですか。個別の話をしたければその記事のノートでやってください。私は IP さん以外の方の意見は素直に受け入れられますが、ひとつの記事に関して論点を拡散し、井戸端を埋め尽くす IP さんの参加態度には非常な疑問を感じます。--白駒会話) 2012年7月19日 (木) 14:52 (UTC)[返信]
結構、話が進展しているようですがコメント。まず、IP氏が「個別の話じゃない」とおっしゃられていましたが、それについては「一律にどうこうするのは難しい」と既に述べているように、広範的に「体言止め」が読み易いか否か論じるのは、正直、強引な話であって、到底受け入れられない論点だと考えます。また、山田氏の編集についても、他の方がおっしゃられているように読み難くしたとは到底思えず、加えて、山田氏が「体言止め」に固執しているユーザーにも思えません。
自分としては、「体言止めかどうか」ではなく「読み易いかどうか」で論じられるべき問題だと考えており、少なくとも今回の「個別具体例」を見るに「読み難くした」とは見れない以上、IP氏の基準点は一般よりも高すぎる位置にあって、そこに合わせようと働きかけることは、やはり弊害が大きいんじゃないかと思います。--EULE会話) 2012年7月19日 (木) 15:41 (UTC)[返信]
一応ここで念のため再度申し上げたいのですが、ここでは山田氏の編集のみを取り上げてどうこうする場ではなく、記事全般についてのお話しです。今回はたまたま山田氏の編集が実例として出されておりますが、別に山田氏の今回の編集のみに限ったお話ではないということをあらためて申し上げておきます署名--114.48.71.237 2012年7月21日 (土) 09:49 (UTC)[返信]
それについては「一律にどうこうするのは難しい」と既に述べているように、広範的に「体言止め」が読み易いか否か論じるのは、正直、強引な話であって、到底受け入れられない論点だと考えます。
IP氏の基準点は一般よりも高すぎる位置にあって、そこに合わせようと働きかけることは、やはり弊害が大きいんじゃないかと思います。
個別事例の話はしてませんよ。わかり辛いなら、言い直しますが「個別事例の件を見るに、IP氏の基準や認識というのは一般とはズレがあって、これを普遍的な問題だとして、一律に(IP氏の望む)基準に決めようとするのは難しい」と言ってます。個別事例が問題ないからルール化する必要は無いと言っているのではなく、個別事例の判断にみるIP氏の基準でルール化するのは難しいと返答しています。--EULE会話) 2012年7月22日 (日) 06:53 (UTC)[返信]